2月17日 晴

極寒。冬に逆戻りである。朝、7時過ぎに起床し、妻と病院へ行く。今日は精子を採取されるのだそうだ(妻の意志に沿って受身で動いているだけなので他人事のように書いている)。看護婦さんに案内されて採精用の小部屋に通される。シーツの掛かったソファーがひとつの小さな部屋で、内側から鍵がかけられるようになっている。部屋の隅に小さなカラーボックスが置いてあり、数十冊のエロ本が入っている。そのうちの数冊、美人妻がどうたらこうたらというのを選んで、マスターベーション。10分くらい集中して、指定されたカプセルに射精する。精液の入ったカプセルを紙袋に入れ、ナースステーションに持っていき、それでおれの役割は終了である。妻の卵子の採取は、ずっとたいへんで、麻酔をかけての「手術」をしなければならない。おれはその間、与えられた個室で、ソファーに寝転んで、うつらうつらした。なんだか体が重い。早起きしたのと、寒さがぶり返したのと、花粉症と、軽い寝違いとがあいまって、頭がぼおおおっとする。「手術」を終えた妻が、個室に帰ってきて、点滴を打ちながら、麻酔が切れるまで、約1時間強。1時過ぎには病院を出た。
名駅まで歩き、高島屋のグルメフロアに昇り、さんるーむに入る。昼食に、柚子そばセット。地階でわさび入りいなり寿司とギョウザを買って帰った。
午後、3時前頃家に着き、暖房をかけ、ホットカーペットの上で妻とごろんとする。そのままうつらうつら。おれは6時過ぎに目が覚め、ぼおおおおっとした頭のまま、パソコンに向かい、すこし仕事をする。
9時過ぎに妻も目を覚まし、夕食にする。いなり寿司とギョウザ。
ぼおおおっとテレビを眺め、1時前就寝。

亀山郁夫・佐藤優『ロシア 闇と魂の国家』(文春新書)
-「亀山:ロシア人は、何事も一からはじめなければ、気がすまない民族である。だから、つねに終わりを予感している。ロシア人にみられる「終わり」の感覚は、一方において、時代を超え、非歴史的な時間のなかに生きたいという、ユートピア主義の誕生にあずかった。ロシア的霊性とは、ユートピアへの志向と大きく重なり合っている。そしてそれをロシア人の信仰生活に求めるなら、おそらく次の三つのモメントが挙げられる。
一.ロシア正教が多くの点で、異教(汎神論)の名残を留めていること。これはキリスト教信仰に、一種の大地信仰的な野性味を加えたとみられる。
二.ロシア人の信仰生活の根幹に横たわるケノーシスの理念。しばしば指摘されるように、ロシアの信仰生活にとって大きな礎となったのは、「おのれを無にして奴隷の姿をとった」キリストに対する崇拝、すなわち「ケノーシス」信仰である。亡命したロシアの哲学者ウラジーミル・ヴェイドレの言葉を借りれば、この「ケノーシス」にこそ、「ロシア精神の最も自発的な衝動と、もっとも深い直観、つまり神に見られる無限の屈従能力の直観が現れている」。わたしは、むしろここに、自己犠牲に対するロシア人の特別な能力を想定してみたい誘惑にかられている。
三.ソボールノスチ-。ソボールノスチとは、「大聖堂(ソボール)」の語源から明らかなように、イエス・キリストの神秘的な身体のなかで、すべての信仰者が一致結合する状態を意味する。」(P21)
-「亀山:国家というのは、ネス湖の怪物みたいなもんです。ふだんは絶対に姿が見えない。ところがある瞬間に、恐ろしい姿を自分からさらけ出す。佐藤さんが実感なさったのも、まさにそれでしょう。『国家の罠』を読んだ読者が、身につまされたのは、国家という、目に見えないグロテスクな怪物です。しかし、その反面、国家ないし国家権力に対する恐怖というのは、内在化された、個人レベルでの恐怖でもあるんですよ。いや、感受性、想像力の問題といったほうがよいかもしれない。恐怖はあくまで感じる主体にあるわけですから、国家が無前提に怖いということはありえない、とぼくは思っています。しかし、感じる主体が恐怖にかられるには、どこかにトラウマがあるからです。トラウマは、パラノイア的な恐怖を生み出していきます。」(P162)
-「亀山:問題は、というか敵は自分のなかにひそんでいたんですよ。人から疑われるということは、なかば必然的に、自分に罪があるような気に追い込まれる。ぼくの場合、「本当に自分はスパイじゃないのか」と自分を疑いはじめるということがありました。こういう原罪意識が働くことがとても怖いことです。」(P168)
-「亀山:1917年のロシア革命も、けっして民衆全体の共感を得られていたわけではなかった。ボリシェヴィキという少数左派による、ある意味で、特権的な革命運動でした。むしろ、民衆が持っている、全体的な一体性の中に生きる、全体の中で一であることによって個人の一が完成するという、まったりとした有機的な一体性を壊すものとしてロシア革命は存在していました。ぼく自身は前にも述べましたが、ロシアにおける幸福追求の形式には、二つのタイプがあったと考えている。それは、「熱狂」と「ユーフォリア」です。熱狂の語源は、「神のなかに入る」、つまり、エン・トスです。そして、そこにおける分子、つまり人間ですが、その精神運動が灼熱した状態を意味しています。それに対して、ユーフォリアは、同じ神のなかに入りながらも、分子運動が停止し、一種のエントロピーに入った状態の幸福をいうわけです。その二つの幸福の在り方への希求が激突したのが、1881年のアレクサンドル二世暗殺であり、ロシア革命であったわけですが、結局のところ、ロシア革命の為政者たちは、その二つの幸福の共存と、分子としての人間のユーフォリックな一体性の再生という方向に否応なく突き進まなければならなかった、その再生を最終的に完成したのがスターリンだったと思うわけです。
それゆえ、スターリンによる粛清の対象となった人々は、民衆の論理とでもいいましょうか、有機的な一体性を守ろうとする、民衆の巨大なメンタリティーの復讐に出会って抹殺されていったという解釈もありうるでしょうね。」(P183)
-「佐藤:われわれ日本人がロシアから学ばないといけないのは、「魂」の回復です。つまり、個々の「魂」によって世界を構成し、自分の魂に映る世界像についてきちんと話す。同時に、ほかの人が話す世界像について最後まで聞く。この集積が大事なのです。ところが、今の日本では、自分の魂に基づいて、責任をもって語るインテリも政治家もいなくなっている。ステレオタイプの感覚で世界を把握しているから、ステレオタイプから少しでも外れる他人の世界観を最後まで聞くことができない。ちょっとでも異質のものを見ると排除したいという欲望が働く。魂がこのように弱ることで、日本自体が弱ってきているのです。」(P221)

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by daiouika1967 | 2009-02-18 19:42 | 日記  

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