2月20日 午前中曇、午後晴。

10時前起床。朝食に、納豆、油揚げの味噌汁(米はなし)。
11時前、家を出る。小林敏彦『ニュース英語パワーボキャビル+3000語』(語研)、unit17からunit20で一冊終わり、元に戻り、unit1からunit10まで。合わせて2時間。
午後、ウォーラーステイン『入門 世界システム分析』(山下範久訳 藤原書店)を読む。261ページ読了。次いで、米原万里『不実な美女か 貞淑な醜女か』(新潮文庫)の続き、200ページまで。
帰り、ブックオフに寄り、米原万里の本を二冊追加。『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(角川文庫)、『魔女の1ダース』(新潮文庫)。あと、100」円だったので買った本が3冊。谷川俊太郎『ひとり暮らし』(草思社)、副島隆彦『預金封鎖 ―「統制経済」へ向かう日本』(祥伝社)、『連鎖する大暴落 ―静かに恐慌化する世界』(徳間書店)。全部で900円。
夕食は、ハンバーグを拵える。ハンバーグはおれの担当だ。キャベツの千切りを添えて。納豆、玄米。
夜、妻は10時過ぎに早々と眠ってしまった。おれはネットを周って、何となく3時頃まで起きていた。

都倉康行『金融史がわかれば世界がわかる -「金融力」とは何か』(ちくま新書)
-「金に兌換できない紙幣ということであれば、現在の紙幣でも同じことである。つまり南北戦争時の米国では、金を離れて財務省を信用するしかないという通貨制度を経験したことになる。現在の通貨は、中央銀行を信用するしかないという制度であるが、要するに政府・公的機関といった「信用力」を信じるかどうかの問題であって、Green Backを受け取った当時の人々がどういう思いでその「金に裏打ちされない紙幣」を眺めていたのか、興味深いところである。」(P86)
-「資本取引は、経常収支の動向よりも、金利差によって誘発されることが多い。」(P115)
-「そもそも金本位制とは、市中で流通する紙幣を一定量の金と交換できることを中央銀行が保証する仕組みであるが、それを別の面からみれば、当該国は紙幣に見合うだけの金を保有していることが、その制度を維持する前提となる。十分な金がなければ、必然的に紙幣の価値は下落することになる。これが平価切下げの意味である。」(P118)
-「金は利息を生まないという欠点があるが、反対に、誰の負債でもないという長所もある。超低金利の時代では、前者はあまり問題視されないし、国家財政の赤字拡大など信用リスクの問題が顕著になってくれば、後者のメリットが浮上してくるのは当然だろう。(中略)
金は、通貨ではない。だが単なる貴金属商品でもない。その複雑な性格を持ち続ける限り、通貨体制にもまだ影響を及ぼす可能性があるとの意見を、一笑に付すことはできない。現行の変動相場制が完全なシステムではないことは、もはや誰の眼にも明らかになりつつある。」(P123)
-「財政とドルの問題は、まさに海外からのファイナンスという点に絞られているといってよいだろう。日本も大幅な財政赤字を続けているが、そのほとんどは国債を通じて日本国内の貯蓄によって賄われている。非居住者による国債保有は、発行残高の3%程度でしかない。だが、米国の場合は、1980年代から徐々に拡大する財政赤字を、主に日本などの海外投資家が支えてきたのである。米国債の新規入札のたびに、日本の生保などによる応札がどの程度見込まれるかといった事前の思惑に、米国市場は一喜一憂する時代が続いていた。
日本の市場には、3%以上の金利差があれば米国投資は有利である、といった通説があった。とくに根拠があったわけではないが、こうした金利差だけでなく、年限別に整備された国債発行の構成や売買市場における流動性の懐の深さなど、日本国内の非効率な市場と比べて魅力のあった米国債市場に投資するのは、とくに不自然であるとは考えられなかった。こうしてレーガン政権時代の日本の対米投資は拡大し、ドルはその前のカーター政権のもとで急落したのとは反対に、大きく反転することになったのである。」(P128)
-「明らかに経済と金融とは異なる分野・部門である。経済問題は、失業率や物価、成長率の関係などを扱うものだが、金融問題は金利メカニズム、資金循環、資産選択、資金仲介力、金融技術、リターン分析などを問うものである。(中略)
国際金融の歴史では、たしかに経済力と金融力がほぼ一致していたが、それは貿易取引中心時代の金融力が、貿易決済や短期金融市場でのファイナンスの役割という狭い守備範囲に限られていたからである。だが、二十世紀後半の資本取引中心時代に移行してからは、金融力の要素は多様化し、圧倒的な経済力を持つだけでは、その金融力が維持できなくなりつつあるように感じられる。」(P199)
-「通貨市場と並んで重要なのだが資本市場である。株式と債権、デリバティブズ市場は、国際金融上の要である。世界の富は、リスクとリターンが適正に表現される市場へと流れる。それが各国の経済基盤を支えることはいうまでもない。日本も明治維新後、経済的に苦しい時期に何度も海外資金に支えられて成長を果たし、現在の安定成長に軟着陸した。だがいま、国内資本が充実し、海外に資本を投資する立場にもなった。だが、そこに潜む深刻な問題点を無視するわけにはいかない。
落とし穴はいくつもある、一例を挙げれば、個人資産の大量海外流出である。国内では十分に得られない投資機会に嫌気が差し、1400兆円といわれる個人資産が一斉に海外に向かうとすれば、何が起こるだろう。ここで言いたいのは、通常懸念されるような預金不安によるキャピタル・フライトの可能性ではない。むしろ適正な運用としての、つまり適正な資産配分としての資本流出のシナリオである。
日本の個人資産は、「預貯金の比重が高い」のが問題ではなく、「リターンを生まない資産に寝ている比重が高い」のが問題なのである。それは、将来的にリスク・リターンが客観的に理解できる市場へ向かう可能性が高い。政治経済の多極化に伴い、米国だけでなく、欧州、中国などさまざまな国々へ投資されていくのではないか。
日本のマネーが海外へ流れるのは自然な金融現象であろう。だが、それが過剰に流出すれば、日本の国内経済の問題にもなる。日本にも、欧米や資本市場後発の国々に劣らぬ資本市場構造を構築して、一定量の資本を確保する必要がある。多様化、多極化する国際金融のなかで、日本の金融市場はきわめて重要な、そして深刻な課題を抱えている。」(P222)

ウォーラーステイン『入門 世界システム分析』(山下範久訳 藤原書店)
-「無限の資本蓄積を優先するようなシステムが現れてはじめて、資本主義のシステムの存在を言うことができる。この定義を用いると、近代世界システムだけが、資本主義的なシステムであるということになる。無限の蓄積というのは、かなり単純な概念である。それは、諸個人や諸企業が、より多くの資本を蓄積するために、資本の蓄積を行い、その過程が持続的で終わりのないものとなっているということである。われわれが、「システムがそのような無限の蓄積を優先するというとき」、それが意味しているのは、無限の蓄積以外の動機で行動する主体には不利に働き、最終的にはそのような主体が社会の舞台から排除されてしまう一方、適切な(無限の蓄積を志向する)動機に即して行動する主体には有利に働いて、うまくいけば、そのような主体には富がもたらされるようななんらかの構造的なメカニズムがあるということである。」(P69)
-「実際のところ、資本化が必要としているのは、完全に自由な市場ではなく、部分的にのみ自由な市場である。理由は明快だ。経済学の教科書が普通に定義するような-つまり、諸要素は一切の規制なく流通し、非常に多くの買い手と非常に多くの売り手がおり、完全情報(すべての売り手とすべての買い手があらゆる生産にかかる費用の正確な状態を知っている)が成立しているような-あらゆる生産要素が完全に自由に流通する世界市場がほんとうに存在しているところを想像していただきたい。そのような完璧な市場においては、買い手は売り手に対して、つねにその利潤を絶対最小限(とりあえず最小単位額と考えておこう)に下げるように交渉することができる。そして、そのような低水準の利潤では、資本主義というゲームは生産者にとって意味のないものとなってしまい、結果として、そのようなシステムは基本的な社会基盤を喪失してしまうことになる。」(P73)
-「社会システムに内在する諸権力は、社会化の過程を通じて、まさにそのシステムがつくりだしているヒエラルギーの現実を受け入れられるようになることを、つねに望んでいる。さらに諸権力はまた、社会化を通じて、いまあるシステムをそういうものとして受け入れさせる神話、修辞、理論といったものが内面化されることをも望んでいる。こういった権力の欲望は、ある程度は達せられるが、完全に実現することはない。家計世帯によるその成員の社会化は、反乱、退出、逸脱といった帰結にいたることもあるからである。たしかに、システム全体が相対的に均衡状態にあるかぎりでならば、ある程度までは、そのような反システム的な社会化も、不安や不満の捌け口を提供するというかたちで、システム(の安定)にとって有益である場合もある。その場合、負の社会化は、システムの機能に対して、せいぜい限られたインパクトしか持ちえないということになるが、史的システムが構造的危機に至ると、そのような反システム的な社会化は、システムに対して、深甚な不安定化をもたらす可能性が出てくる。」(P99)
-「国家の権威による専制的な行動は、その国家の強力さよりは、むしろ弱体さのしるしであることのほうが多い。国家の強さというものは、法的決定を実際に実行する能力によって定義することが、もっとも有益である。単純な指標のひとつとしては、課税額のうち、実際に徴収され、徴税当局のもとに納められた税金の割合を用いることができるだろう。いうまでもなく、納税忌避はどこにでもある現象である。しかし、強力な国家が実際に徴収しうるもの(ざっと八割程度)と弱体な国家が実際に徴収しうるもの(比べていうなら二割に近い)との違いは、圧倒的に大きい。弱体の国家の税の徴収能力の低さの原因は官僚機構の弱さであり、また逆に徴税能力の低さのゆえに、官僚機構を強化する財源が奪われてしまうということでもある。」(P133)
-「既存のシステムが、そのシステムによって定義された範囲内では、もはや適切に機能しえなくなっている以上、そこからの出口の選択、新しく構築されるべきシステム(それはひとつではく複数のシステムであるかもしれない)について、選択を行なうことが不可避となる。分岐の過程は、カオス的である。「カオス的」という言葉の意味は、この期間における小さな行動のひとつひとつが、有意味な帰結にいたる高い可能性をはらんでいるということである。そのような条件下では、システムの振幅が激しくなる傾向が観察される。しかし、最終的には、ひとつの方向に傾いていく、決定的な選択がなされるまでには、通常、かなりの時間がかかる。その期間は、移行期と呼ぶことができる。移行の帰結は、まったく不確実である。しかしながら、ある点にいたると、はっきりした帰結が現れ、ひとびとは、異なる史的システムにおかれることになる。」(P184)
-「1968年の爆発には、二つの主題が含まれており、その二つの主題は、地域によって文脈こそ違え、ほとんどあらゆる場所で反復された。ひとつは、アメリカ合衆国の覇権的権力(ヘゲモニー)の拒絶である。しかも、これは同時に、アメリカ合衆国の反対勢力とされていたソ連が、実際には、アメリカ合衆国が打ちたてた世界秩序に共謀しているという不満をともなっていた。もうひとつは、伝統的な反システム的運動が、権力についた後、その約束を果たしていないというものであった。これら二つの不満が結びついて-実に広い範囲で繰り返された-ひとつの文化的激震を構成したのである。多くの蜂起は不死鳥のごとくであったが、各地の1968年の革命勢力は政権につくことはなかった(あるいは、ついたとしてもあまり長続きしなかった)。しかし、この激震によって、反システム運動に対してのみならず、それらの運動が強化してきた国家機構に対する幻滅までもが、正統化され、強められてしまうこととなった。時代が進めば社会は良くなるという長期的な確信が、世界システムは変化しないかもしれないという恐怖に変わってきたのである。
このような世界的な感情の転換によって、現状(の体制)は強化されるどころか、実際のところ、資本主義的世界=経済の下層からの政治的および文化的支持の底が抜けてしまった。抑圧されているひとびとは、もはや歴史が自分たちの味方だという確信をもてなくなり、したがって、自分たちの子供や孫の人生においてその改良が実を結ぶだろうと信じて斬新的な改良に満足することもできなくなった。彼らは、将来の利益の名の下に、現在の不満を先送りすることに納得できなくなった。要するに、資本主義的世界=経済の多数の生産者は、被抑圧者の楽観主義というシステムの隠れた主安定装置を失ったのである。」(P201)

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by daiouika1967 | 2009-02-21 21:39 | 日記  

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