3月5日 晴のち曇

妻が朝からかぼちゃの天麩羅をあげている。朝から揚げたての天麩羅。妻はときどき唐突にそういうことをする。でも天麩羅うどんは美味かった。

放心。空を眺めながらぼんやりと歩く。頭の調子が悪いわけではないが、何かまとまったことを考えることができない。
午後になると急に風が出てきた。俄かに空が曇り陽が翳る。辺りが暗くなる。すこし肌寒い。喫茶店に入った。
コーヒーを飲みなら、ヘッドフォンをつけ、音楽を聴く。昨日買った坂本龍一『out of noise』。鮮やかな響きに圧倒される。頭の中に、ものすごく解像度の高い景色が開けていくような、開放感が広がる。

前に読んだ、たしかロボット工学の研究者が書いた本だったと思う。私の意識は、私の身体を統御してはいない、と書かれてあったのを読んだことがある。私の意識は、つねに遅れて、私の身体の諸反応を「追認」している、というのだ。
「世界」は、「身体」の諸反応の束で出来上がっているのだとするなら、「私」はつねに「世界」に遅れている、ということになる。「私」は、「世界」の「主人」などではなく、せいぜいが「世界」の傍観者でしかないのだ。
本の後書きで、その研究者は、「その事実を知って、私は以前ほど死を恐れなくなった」というようなことを書いていた。「私」が消えたところで、「世界」はそのままつづいていく。…

放心、というのは、死の先取り、予行演習のようなものかもしれない、と思う。
何かに集中して、生が「充実」しているというとき、たぶん人はそれが夢だとは気づかないような、とても深い夢のなかに迷い込んでいるのかもしれない。
そして、放心し、「私」が限りなく希薄になったときこそが、もっとも覚醒に近づいているのかもしれない。

午後、今池の古本屋に寄り、飯倉照平編『柳田国男・南方熊楠往復書簡集』上・下巻(平凡社ライブラリー)、島尾伸三『ひかりの引き出し』(青土社)、服部正『アウトサイダーアート』(光文社新書)を買った。
喫茶店で、島尾伸三『ひかりの引き出し』(青土社)を読む。261ページ読了。

―「昼寝をしている生き物を見ていると、いつの間にか気持ちが落ち着いてきます。子どもの頃の、生きる時間が無限にあるように思えていた、安らかな気持ちがよみがえって来るかのようです。
できるなら、自分の死は昼寝のようであって欲しいと願ったりしています。」(P62)

―「戦争が始まると、人々は記念写真を撮りたがります。生きている証しというのか、楽しい思い出を封印して持ち歩きたいというような気持ちになるのでしょうか。個人の力では避けることの出来ない大きな不幸が待ち構えていると、楽しい今をそのような形あるものにして手の中に収めておきたいのです、きっと。」(P158)


「戦わないことが許されない」というのを「戦場」の定義とするなら、いまの日本はある種の「戦場」といってもいいのかもしれない、などと考える。

妻がネットで取り寄せたDVD『パコと魔法の絵本』が、セブンイレブンに届いているとメールが届いたので、遠回りして、受け取って帰る。
夜、妻といっしょに鑑賞する。ここまで作り込んであると、途中でしらけない。楽しめた。
夜、服部正『アウトサイダーアート』(光文社新書)を読む。237ページ読了。
3時、就寝。
[PR]

by daiouika1967 | 2009-03-06 22:28 | 日記  

<< 3月6日 雨のち曇 3月4日 曇ときどき晴間 >>