3月27日 晴

朝、8時過ぎに目が覚め、朝食前の二時間、内山節『怯えの時代』(新潮選書)を読んで過ごす。

近代社会においては、享受できる消費量の拡大が、現在は過去より進歩している、未来は現在よりマシなものになるだろう、という信憑を生んできた。現在ではもはや「量の拡大による幻惑」は機能しなくなってしまった。そこに「現実」が露呈する。
―「現代人は確かに自由なのだと思う。もちろん世界のさまざまなところに、自由を圧殺された人々がいることを私は知っているし、それが国内問題であることも知っている。しかし、あえて私は現代人は自由だという。なぜなら現代の自由は、現実を受け入れる他なかった喪失の先に現れてくる自由でしかないからだ。私たちには携帯でメールを打ちつづける自由がある。テレビのチャンネルを思うがままに変える自由がある。今日の夕食を好きなように決める自由がある。ただしそれは携帯電話がつくりだしたシステムを受け入れることによってだ。テレビというメディアを受け入れることによって、だ。サイフの中身という現実を受け入れることに、よって、だ。
現実を受け入れないかぎり自由を手にすることもできないという包囲された世界のなかの自由が、私たちにはある。そして現実を受け入れたとき手にしなければならないもうひとつのものは、喪失。その代償のもとに獲得されたのが現代人の自由。」(P9)


あらゆる領域で起こっている「自己完結化」。富の自然な還流が寸断され、各々主体の部分的な最適化が、全体を瓦解させるように作用する。そのようなシステムが現代の世界を覆っている。「経済成長」という全体量の拡大は、そのシステムの矛盾を緩和しつづけてきたが、それが不可能になりつつあるのが「現在」である。
―「経済の総過程と個別経営体の行動が対立的な関係になることを解消できなかったとき、つまり個別経営体の活動が経済の総過程を破壊する方向で機能するようになったとき、資本主義もまた計画経済を導入し、すべてを統制下に置く他なかった。
だからこの方法は、部分的にはつねに採用されている。フランスでは鉄鋼、自動車などの主要産業の国有化が戦後長く続いていたし、どこの国でも、金融危機が発生すれば、銀行を事実上国の管理下に置くという政策もしばしば行なわれてきた。そして部分的な統制経済ではすまなくなったとき、社会は戦時体制に移行してきた。このような事態を生みださざるをえない原因は、経済の総過程と個別経営体が違う原理で動く、というところにあったのである。この両者が共存可能に展開している状態が「平時」の経済であるとするなら、それらが敵対的な関係になるのが恐慌時である。
とすると「平時」の経済を持続させるには何が必要なのであろうか。そこに経済成長という課題がでてくる。つまり、経済全体の総量が拡大しつづけることによって、個別経営体も自己を拡大させながら経営の安定が計れる体制が形成し得たのである。逆に言えば、全体が縮小するとき、個別経営体は自己を守ろうとして人員整理や融資の削減、契約の見直しなどをすすめ、それが全体経済をさらに破壊していくという現象を生みだす。
こうして資本主義には、拡大しつづけることが正常な状態であるという仕組が生まれた。」(P67)

「拡大しつづけることが正常な状態である」という資本主義の在りようは、私たちの自然な身体感覚と共鳴し得るものではない。
―「私たちの身体感覚からすれば、経済成長率がマイナス1、2パーセントになったところでどうということはない。経済のなかにはバブル的な部分がつねに内在しているのだから、むしろそれらが削減され、落ち着いた社会が生まれていくことは歓迎してもよいくらいである。GDPが半分くらいになっても、そのことによって自然の豊かさを感じながら、時間的な余裕に満ちた文化的な暮らしができるのなら、現在のような時間に追われながら多消費に巻き込まれていく暮らしよりいい、と考える人もいるだろう。実際個人の選択としては、そのような方向を選び、農山村などに居を構える人も数多く生まれている。
だが私たちの身体感覚としてはそれでよくても、資本主義経済としてはそれでは困る。なぜなら経済の拡大が止まるとき、根本にある矛盾が噴き出してしまうからである。しかもそれは多くの人々の労働や生活をおびやかしてしまうことになる。
結局市場の自律的機能をとおして、経済の総過程と個別経営の行動を調整しようとすれば、経済成長に頼るしかなく、そこに対立が発生すればまずは部分的に統制経済を導入し、それでもすまないときは戦時経済に移行させるというかたちで、資本主義は展開してきた。」(P68)
―「二十世紀後半に入ると、経済の中心軸が生産から流通に変わってきた。それはこれまでも多くの人から語られてきたことだ。そこから商業資本主義の時代とか、金融資本主義の時代といった言葉が、私たちの耳にも届けられてきていた。
だが問題は、流通が軸になったとか金融が軸になったというところにあるわけではない。流通と生産の関係が断絶し、あるいは金融と生産の関係が断絶し、流通や金融の発達が生産の劣化を促すようになってしまったことに、現代資本主義の問題がある。経済活動の相互性や連続性が失われ、流通や金融が自己完結型の利益追求をめざすことになったことが、経済規模は拡大しても、経済社会は劣化するという現象を生み出してしまったのである。
このような現実の上に今日の国際金融市場の問題が発生した。目標に置かれたのは、あからさまな自己の利益だけ。企業も土地も、資源や作物も、さらに国家や「貧乏」さえも自己の利益の手段にしながら食い逃げしていく。そんな時代が形成された。このかたちを「グローバルスタンダード」だと言って賞賛した人々は、何と恥知らずな人間だったことだろう。そんな人々は、自分が金以外は信じない低俗な文化のなかで生きていることを宣言したようなものだ。
課題は経済の相互性をやつながりを回復できるかどうかにあると言ってもよい。それができなければ、金融をふくめた流通の自己完結的な暴走をとめることはできない。」(P92)


近代資本主義社会は、共同体を破壊し、バラバラになった個人を、貨幣-国家によって再統合するシステムであった。従来の共同体が破壊されるとともに、その基盤として保たれていた自然と人間との「結び合い」もまた失われることになる。
―「近代社会は、資本主義、市民社会、国民国家が相互的に展開していくシステムとして形成されている。なぜそれらが相互性をもちうるのかといえば、資本主義も、市民社会も、国民国家も、個人を基調としたシステムとして形成されていたからである。
資本主義は「自由な労働力」の誕生とともに成立した。「自由な労働力」とは、生活のために自分の意志で、自分の労働力を労働市場に投げだし、労労力の買手を探す個人のことである。何かに強制されてそうするわけではない。生きていけるのなら、自分の労働力を売らなくてもよい。あくまで、売るか売らないかは自由意志なのである。しかし、多くの人は生きていくためには売らなければいけない。そういう「自由な個人」の大量出現によって、必要労働力をつねに確保できるようになったこと、それが資本主義の成立に不可欠であった。そして、そのようなものだから、企業は購入した労働力をまるで消耗品のように、まるで部品のように扱うことができた。象徴的なのは、今日の派遣社員やパート、契約社員たちである。彼らも「自由意志」でそこに勤めた個人である。だが企業にとって彼らは、いつでも解雇でき、いつでも取り替えられる消耗品でしかない。
そしてこのかたちをつくりだすためには、人間が共同体とともに暮らす結ばれた人間であってはならなかった。自分の労働力の買手を探す「自由な労働力」でなければならなかった。
だからこそ近代市民社会が共同体世界を解体し、「自由な個人」の社会としてつくられたことは、資本主義にとっても好都合であった。さらに個人の社会をつくりだしてしまえば、その個人を支えるものは、とどのつまり収入であり貨幣である。精神的にはたとえどんなに嫌おうとも、現実の生活のなかでは人間は貨幣の虜になっていく。貨幣が「神」の地位を築いていくのである。市民社会と資本主義は、こうして相互的に結び合う構造をつくりだした。
国民国家もまた同じだった。それはすべての人間を「平等な国民」としてバラバラにし、国家システムで統合していく仕組である。それは国民管理の方法でもあり、またバラバラにされているがゆえに国家システムによる保護を国民自身も必要とするようになった体制である。年金制度にいくら不備があっても、個人となった国民はこの年金制度に頼らざるを得ないように。
このようにみていくと、資本主義、市民社会、国民国家は、人間が個人として生きるという共通の基盤の上に成立していたことがわかる。だからこそこの三つのシステムは相互的であり、親和性をもっていた。」(P120)

―「私たちは単なる個人ではなく、共同体とともに、自然とともに、すなわち他社との結び合いのなかに生きているなどといってしまったら、近代世界の基本的な構図がこわれてしまうだろう。近代の航海図は「自由な個人」の可能性や希望に満ちた未来を謳い上げる他なかった。
今日では、この近代の航海図に記載されていなかったものが、私たちの課題として現れてきた。自然の問題はもはや無視しえなくなった。世界のさまざまな風土や文化を尊重しなければ、私たちは平和をえることもできなくなった。そして、個人として生きる社会の限界が見えてきた。
ところが、それらこそがこれまでの社会の発展の原動力だったのである。自然は無限に存在するものと仮定したからこそ、経済の発展に邁進することができた。世界の均一化をすすめながら、効率のよい社会をつくってきた。個人の社会は資本主義の基盤を提供し、そしてこの体制のもとで私たちは、気儘な「自由人」でいることができた。
そして、だから問題は深刻である。私たちに「発展」と「自由」を与えてきた原理が、私たちの未来を閉じさせている。つまり、私たちが未来をつかもうとすると、近代社会の原理や構造が今日の問題を生み出した原因として現れてきて、しかもこの仕組のなかで暮らし、「自由」を得てきたわれわれの存在が問われてしまう。だがそれを問わなければ、壊れていく社会のなかで漂流する自分をみいだすことになるだろう。何かを喪失したことを感じながら手にした自由や、何かに飲み込まれ、何かからはきだされていく自己をそのときみいだしながら。」(P123)


午後、ジュンク堂で、スチャダラパー『ヤングトラウマ』(TOKYO FM 出版局)、萩原健太『ロック・ギタリスト伝説』(アスキー新書)を買う。
喫茶店で、コーネリアス『POINT』『SENSUOUS』、ボアダムズ『スーパールーツ10』など聴きながら、スチャダラパー『ヤングトラウマ』(TOKYO FM 出版局)を読む。
スチャダラの三人が「幼少時から影響を受けてきたものについて語りまくる」という本。アニはおれと同年だし、三人ともほぼ同世代。ネタに挙げられている固有名のイチイチに深く共感しつつ、読んでいるうちに、だんだんと多幸感が湧き上がってくる。
固有名の一部を列挙すると、ビートたけし(オールナイトニッポン)、ドカベン、藤子不二夫、薬師丸ひろ子、角川映画、ドリフ、『THE MANZAI』、『おれたちひょうきん族』、歌謡曲、宝島、ナゴム、ゲームウォッチ、任天堂、『ふぞろいの林檎たち』、ラジカル・ガジベリビンバ・システム、ワハハ本舗、アフリカ・バンバータ、ランDMC、ビースティ・ボーイズ、『ポパイ』、根本敬、みうらじゅん、久住昌之。……

夜、DVDで井口昇監督『片腕マシンガール』、そして『ダークナイト』とつづけて観る。どちらもおもしろかったが、『ダークナイト』を観ている途中くらいからものすごく眠たくなり、眠気と戦いながらの鑑賞だったので、あまり覚えていない。もったいない。再度観ることにしよう。
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by daiouika1967 | 2009-03-29 11:00 | 日記  

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