4月2日 晴

鶴見俊輔『語り下ろし伝 期待と回想』(朝日文庫)を読む。全集に付された鶴見俊輔の回顧録をまとめた本だ。

70を過ぎた老思想家が、自分の人生を、「母親」への応答のための過程であったと総括している。これはフロイト主義というのとは違う。何を考えるときも、自分の存在の根源を繰り込んで考えていこうというラディカルな意志、を感じる。
―「最初におふくろが私に向かってものすごく怒っている状態があって、これがはじまりなんです。自分というのはないんです。マリアン・リーヴィーのいう「アシメトリー」(非対称)な原始状態がある。対等な人間と人間とのコミュニケーションじゃない。私はべったり寝ころんで育ててもらってる。おふくろの方は巨人として立って、怒鳴って、君臨してる。赤ん坊というぶよぶよした、ほとんど物体みたいなものと完全な人間との関係ですから、相互的なコミュニケーションじゃない。それがまずはじめにあったということですから、(中略)そこから考えていくと、私がいま書いてる著作も、いまここで話していることも、究極的には全部、おふくろに対する答えなんだ。私の話相手は全部おふくろなんです。そのように自分の生涯は集約されるような気がします。」(P94)
例えば、彼の云う<アナキズム><プラグマチズム>といった思想上の問題も、自分の「母親」とどう距離をとっていくのかという課題として見ることもできるのかもしれない。

具体的な境遇として、彼は自分がとても“恵まれた”立場に生まれ、育ったのだという意識を強く持っているようだ。
―「河合隼雄は自分が京大教授になることによって、どれだけの人を殺しているかわからないといったことがあるんだけども、それをわきまえているところが河合隼雄のおもしろいところでしょう。
私はめぐまれたところに生まれているので、誤解にもとづいて中傷された場合にも、甘んじて罰を受けることにしたいと思っています。」(P340)

ここで「罰」という言葉が選ばれているのは、自分は“特権”を享受している(させられてしまっている)のだという平等思想に基づいた負い目からではない。そうした社会―心理的な負債意識ではなく、もっと根源的に、自分が自分であるということが常に必ず他者を排斥するという構造のなかでしか成立しえず、だから自分が自分であるということは、それだけですでに可“罰”的なことなのだ、と、鶴見俊輔はここでそう云っているように、おれには読める。

くりかえされる母親への「応答」は、母親=世界の公準からの逸脱、逃走の過程でもある。彼は、「私のは逸脱の快楽なんです」、と語る。
―「逃げる快楽なんです。子供のときには手は器用だったと思う。だから万引きができたんだ。そうでなかったら捕まっちゃう(笑)。万引きした品物は転売して現金に換えていたんだ。なぜ万引きをやったかというと、法を破る快楽のためだと思う。自分が無法者であるという、目立ちたがり屋だったんだ。その快楽はそのまま自分の中に住みついたばかりじゃない。自罰的になってきて、罪の感覚になった。そしてセックスと結びつく。万引きの楽しみがこんどはセックスの楽しみ、実際に交渉をもつ楽しみに変わるんだけど、ここでも悪いことをしてるなと思うわけなんだ。手放しの愉楽というのとはちがう。」(P485)
じつにおもしろい。そういえば、女と交渉をもつのは、母子関係を基盤にできあがった世界を破壊する、「悪いこと」だった。逸脱の快感が、セックスにはあった。万引、セックス、そしてひとりで思索に耽ること……。
[PR]

by daiouika1967 | 2009-04-03 20:48 | 日記  

<< 4月3日 晴 4月1日 曇のち晴 >>