4月6日 晴

公園のベンチで座って、風に吹かれていても、ぎりぎり肌寒くならない、それくらいに暖かい。午後、セントラルパークのベンチで、大谷能生『不良たちの文学と音楽 持ってゆく歌、置いてゆく歌』(アクセス・パブリッシング)を読んだ。
作家論。論じられている作家は、深沢七郎、ボリス・ヴィアン、色川武大、マルコムX、マイルス・デイビス、中上健次、宮沢賢治、レーモン・ルーセル、ポール・ボウルズ。それから対談二本、相手は麻生雅人、坂本龍一。
対談で、坂本龍一が、「ぼくは明治以降の日本の音楽は基本的にクレオール音楽だと思っているわけです」と話している。ボリス・ヴィアンの章で、ヴィアンが心酔したデューク・エリントンの音楽のことが取り上げられ、そこで大谷能生は、都会のインテリ家庭の坊ちゃんだったエリントンが、じっさいに行ったこともない「ジャングル」をテーマに曲を書き演奏したことについて、「ここには何重にも捩れたフィクションが積み重なって」いる、と書いている。―「そのような青年が、摩天楼の立ち並ぶニューヨークの真ん中に出来た超ゴージャスな『コットン・クラブ』―『綿花倶楽部』という南部の奴隷時代の荘園をイメージした舞台のステージに上がり、禁酒法時代のあぶく銭をもった白人たちを相手に、エンタテインメントとして虎やライオンを思わせる衣装に扮したダンサーのバックで「ジャングル・サウンド」を奏でる……ここには何重にも捩れたフィクションが積み重なっており、このような、現実がそのまま、まっ直ぐ人工的なファンタジーとなっているアメリカ的虚構の極致が、「コットン・クラブ」のステージであったのだ」(P46)。そして、こうした「無茶苦茶がそのまま現実になっているジャズ・ミュージックの世界」は、ボリス・ヴィアンにとって、「アメリカ」を代表する最高の作品であった、と書いている。―「『日々の泡』の序文でヴィアンは、『その例証がここに展開する数ページで、お話は隅から隅まで僕が想像で作り上げたものだからこそ全部ほんとの物語になっているところが強みだ。』と書いている。『隅から隅まで想像ででっちあげたもの』なのはエリントンの『ジャングル』もその通りであって、ここにはヴィアンの『コットン・クラブ』への憧憬と目配せがあるように思う」(P47)。「クレオール音楽」とは、「隅から隅まででっちあげ」の「無茶苦茶」なファンタジーを、その楽想の核にはらんだ音楽のことなのだろう。ファニーでストレンジ、幼時退行的で誘惑的。「日本の音楽」にかぎらず、いわゆるポップミュージックは、すべて「クレオール音楽」なのだと言ってもいいのだろうが、日本ではさらにそこに「一捻り」が付け加えられている。たとえば、YMO結成時、細野晴臣が、YMOのバンドイメージは「ハリウッド映画に出てくる誤解された日本人のイメージ」だとよくそう話していたのを思い出す。

夕方、ひさしぶりに、友人のサイコパスSと遭った。伏見の喫茶店に入ったら、たまたま彼がいた。この広い街中で、たまたま誰かと遭うなんてことはめったにない。めったにないはずなのに、Sとはそうしたことがけっこうよく起こる。おっ、と挨拶すると、向こうも、やっ、と挨拶してきた。彼は仕事の最中で、人と待ち合わせているところだという。その待ち合わせの相手が来るまで、しばらく同席して話をした。「Mと話すとチューニングが仕事からずれちゃうんだけどさあ。いやなタイミングで遭うよなあ」といいつつ、ほぼSが一方的に、30分くらい話をした。待ち合わせ相手である高級そうなスーツで身を固めた女の子が入ってきて、おれは軽く会釈だけして席を外し、そのまま店を出た。
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by daiouika1967 | 2009-04-07 22:06 | 日記  

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