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4月8日 晴

42歳になった。42歳。アダルトな響きである。もはやまったき中高年という感じがする。その“感じ”にチューニングすれば“年相応”な内面が俄かに形成される。誰かに「そこのお若いの」と話しかけてみようか。まだちょっと早いか。
午後、松本健一が聞き手になった埴谷雄高のインタビュー『埴谷雄高は最後にこう語った』(毎日新聞社)を読む。埴谷雄高にとって、小説を書くとは、“存在の革命を妄想する”、ということだった。人間が人間であることを超える、生物が生物であることを超える―そもそも不可能な欲望でしかないが、しかしそのことを妄想し、小説に書くことはできる、小説に書き残しておけば、いずれ別の宇宙で、それは“実現”されるかもしれない、そう埴谷は語る。そして、「妄想にひとたびひたったら、そのままそこに住みついて、生活も現実も問題にならない」(P231)という埴谷は、留置場は三度の飯が出てきて後は本を読んでいればいいのだからとても居心地がよかった、と言う。「ぼくは子供のときから、「どうでもいい」というのが口癖なんです。いまだにそうなんですね。女房が、「今晩、何食べますか?」と聞くと、「何でもいい」と答える。だから、母も、「この子は何て子だろう」と言うぐらい、何でもどうでもいいんです。食べ物に文句を言ったことなどまったくない。ただうまければ食うだけ、まずければ食わないだけです。この、「どうでもいい」という口癖が、いかに生活と乖離しているかということですね」(P230)。この現実との“乖離”感は、おれにも馴染みの深い感覚である。おれにとっても留置場は居心地のいい場所になるだろう。
次いで、松浦寿輝『クロニクル』(東京大学出版会)を読む。前半は2003年7月から2006年7月までの文芸時評、後半は読書を通じた著者のポートレイト。120ページ読み進む。
帰宅すると、妻が、散らし寿司と蟹の押し寿司、サラダ、惣菜、それとケーキを用意してくれていた。誕生祝いである。どれも、美味しかった。
夜は、DVDで映画を二本観る。一本目は『シャッター』。ハリウッド製ジャパニーズホラー。ホラーを観て、怖いとはもはや感じないのだが、禍々しい気分にはなる。その禍々しさの感覚を招来したくて観ているわけだが、この作品は合格、観終えてしばらくは厭な気持ちがまとわりついてきた。
二本目は『闇の子供たち』。舞台はタイ。貧しさから、親が子供を売り、子供は非合法な売春に従事させられ、エイズに罹れば生きたままゴミ袋に詰められ捨てられる。臓器売買の“生贄”になる子供までが存在する。その非合法な臓器売買を追う新聞記者を江口洋介が演じる。江口洋介と行動を共にするカメラマンに妻夫木聡、NGOで働く女の子に宮崎あおい。監督は阪本順治。こうしたいわゆる“センセーショナル”な題材を扱った映画は、ともすれば表現が図式的になって、物語の表面をなぞっていくだけの薄っぺらい作品になりがちなように思う。センセーショナルな題材を、ドラマチックに盛り上げようとして、上滑りしてしまうのである。この映画はまさにそんな感じで、観ていて迫ってくるものは何もなかった。宮崎あおいの演じたNGOの女も、人物造形が独善的でヒステリックな女という域をまったく出ていないせいで、熱演すればするほどただのバカにしか見えなかった。残念な映画だった。

by daiouika1967 | 2009-04-09 10:32 | 日記  

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