4月28日 晴

Pが枕元でしつこく起すので、もしや、と思ったら、案の定トイレにうんこがしてあった。Pはうんこをすると必ず、「さっさと片せ」と起こしにくる。眠い目をこすって片付けると、すぐにトイレの匂いを確認して、小便を始めた。

昨日買ったCD、ワールドスタンダード『花音(カノン)』は、これからの季節、午後のけだるい時間に聴くとぴったりだろう。今年の夏は、これと、すこし前に買ったダニエル・クラール『クワイエット・ナイト』で乗り切ることにしよう。

午後、ジュンク堂で『柄谷行人 政治を語る』(聞き手:小嵐九八郎 図書新聞)を見つける。即買。喫茶店で、読んだ。
以下、メモ。
○「構成的理念」/「統整的理念」の区別。
―「構成的理念は、現実化されるべき理念です。統整的理念は、けっして実現されないが、指標としてあって、それに向かって徐々に進むほかないような理念ですね」(P68)
―「たとえば、昨日の自分と今日の自分は同じ自分だと人は思う。しかし、ヒュームがいったように、同一の「自己」など仮象にすぎない。ところが、もしそのような幻想をもてないとどうなるか。統合失調症になるでしょう。だから、この種の仮象は不可欠であり、また不可避的である。カントはこのような仮像をとくに「超越論的仮象」と呼びました。理念も超越的仮象です。共産主義という理念も同じです」(P69)。

○社会を「生産様式」ではなく、「交換様式」のさまざまな接合形態として見る(経済人類学的な見方)。
―「どんな社会構成体も、さまざまな交換様式の接合としてある。つまり、贈与の互酬、収奪と再分配、貨幣による商品交換という交換様式の接合。社会構成体のちがいは、どの交換様式が支配的であるかによって、また、その結合の度合いや濃度によって決まる」(P79)。
○「単独者」であるための「中間勢力」の再構成。
日本に存在した多様な「中間勢力」が、2000年頃、ほぼ消滅した。それは、80年代中曽根がレーガン、サッチャーと協同しつつ実行した、国鉄の民営化(国鉄の労働組合の解体=総評の解体=社会党の消滅)に始まり、日教組の弾圧、公明党(宗教的勢力)の与党への取り込み、部落解放同盟の制圧、暴力団の制圧、等々を経て、2001年に小泉が首相になる前には、この「新自由主義的体制」は完成していた。小泉がやったのは、そうした中間勢力の残党を、「守旧派」「抵抗勢力」と名づけて一掃した、ということでしかない。
NAMは、この中間勢力としてのアソシエーションを再構成しようと結成されたものである。ただし、従来のアソシエーションが生産過程に重点を置いてきたのに対し、NAMでは流通過程にその重点を置いた。資本の増殖のためには、労働者による消費が不可欠であり、「売る立場」である労働者として闘うより、「買う立場」である消費者として闘う方が、真に「公共的」であることが容易となるからだ。
-「労働者と消費者は別のものではない。労働者が消費という立場に立つ時に、消費者となるだけだ。であれば、労働者は、彼らが最も弱い立場である生産点だけでなく、むしろ消費者としての立場で闘うべきだ。そこで、僕が考えたのは、労働者/消費者の運動を創り出すことです。具体的にいえば、労働運動と消費運動を結びつけること。それが一つです。
第二に、それとつながることですが、消費者=労働者として国家や資本に対抗すると同時に、それらに依拠しないですむような経済的なアソシエーション(生産=消費協同組合や地域通貨・信用体系)を創り出す、というものです。これは将来、国家権力を握って実現するというようなものではない。いますぐ、できる。むろん部分的・地域的なものですが。しかし、これがなければ、結局、国家に依存する社会民主主義になるだけです。
もちろん、労働運動も消費者運動も協同組合も地域通貨も前からあるわけで、僕が考えたものではない。僕が提起したのは、それらの意味づけを変えるような理論です」(P89)。

○資本主義には反復的な構造がある。過去の歴史のなかにその反復的な構造を見出すことを通して、現在から近未来へとつづく時間の流れを見通すことが可能になる。
―「資本主義には反復的な構造があります。景気循環がそうです。恐慌・不況・好況・恐慌―。なぜこのような循環があるのかといえば、資本主義経済は、その発展において、恐慌と不況を通して、暴力的な淘汰と整理をするほかないからです。だから、この反復はいわば反復強迫的なものです」(P111)。
―「現在の事態は1929年に似ているというのは子どもでもわかるけど、その類推で考えるのは、さまざまな意味で、まちがっています。というのは、第一に、1930年代は、アメリカが没落するどころか、アメリカがイギリスに代わって、覇権を握ることがはっきりした時期だったからです。ところが、現在は、アメリカ帝国の没落期であって、これは避けられない。もちろん、大英帝国が没落期になっていよいよ帝国主義的に隆盛したようにみえるのと同じで、今後もアメリカは軍事的に帝国主義的でありつづけると思います。しかし、もはや以前のような全面的なヘゲモニーをもちえない。一帝国にとどまるでしょう。
第二に、1929年の時点では、自動車・電気製品などの耐久消費財への移行が起こりかけていた。大量生産・大量消費という時代がそこからはじまったのです。その意味では、どんなに不況が深刻であっても、まだ未来に展望があった。ケインズ主義のように、公共投資によって無理矢理に消費を起してくことができた。
しかし、今後の慢性不況にはそのような可能性がないのです。現在は、先進国で自動車・電気製品などの耐久消費財が飽和してしまった。中国やインドのような市場が頼りです。1990年以降、IT産業が新たな世界資本主義を画するキー産業として出てきました。しかし、これは人手を減らすものです。したがって、消費も減る。慢性不況は不可避的です。この場合は、ケインズ主義的な公共投資をやっても効果がない。じつは、1930年代でも、ケインズ主義的な公共政策(ニューディール)に効果はなかった。効果があったのは、軍需、つまり戦争です。アメリカが1929年以後の大不況を克服したのは、日米戦争勃発以後です。
今後の慢性不況は、むしろ、1890年代以後の慢性不況と比べてみるべきでしょう。これは1860年代以後の重工業の移行とともにはじまった。大英帝国の基盤は、繊維工業にあった。つまり、軽工業ですね。鉄鋼のような重工業には、国家的な投資が必要です。だから、株式資本による集中だけではそれはできない。ところが、ドイツや日本などでは、国家の手でこれを進めた。だから、イギリスはこの点で没落しはじめたのです。
しかし、重工業は、設備投資の割合が大きく、相対的に、労働者の雇用は繊維工業ほど多くない。結果的に、一般的利潤率の低下が生じる。慢性不況が続く。これを逃れるために、国家と資本は、海外の市場と資源を確保しようと争奪しあうようになる。それが「帝国主義戦争」です。これが世界規模で起こったのは第一次世界大戦ですが、東アジアでは、日清戦争・日露戦争がすでにそういうものでした」(P123)。

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by daiouika1967 | 2009-04-29 22:29 | 日記  

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