9月5日 土

午前中、喫茶店を2件はしごして、釈徹宗『とらわれない -迷いと苦しみから救われる「維摩経」』(PHP)を読む。
釈徹宗による「維摩経」の読解。「維摩経」は大乗仏教の原点となる経典のひとつで、釈尊と同時代に生きた在家の仏教徒、維摩と文殊菩薩との対話を軸としている。この維摩という男、じつに「パンクでアナーキーなおっさん」で、その維摩と文殊菩薩の対話は、さながら「ポストモダンな言説が交される前衛劇」のような様相を呈する、のだそうだ。読めば、「全編にわたって、いったん構築されたものを解体し、また再構築する、そんなめくるめくドライブ感が味わえ」、その読書体験を通して、「苦悩の世の中を生き抜く覚悟を実感できる何か」を体得できる、と著者は語る。
そもそも大乗仏教の言説の核には、「空」という「脱構築」の「装置」がセットされている。だから、大乗仏教は、つねにアップデートされ、信仰の体系として閉じることがない。大乗仏教という開かれた言説の場が、それぞれの時代に「パンクがアナーキーなおっさん(=僧侶)」を生み出していく。

「空」とは、無ということではない。一切は関係性によって成立しており、不変の実体は存在しない、という思想のことである。「空」を観じるとは、われわれがついとらわれてしまう物事の一切を、関係性という非―実体へと解き放つという実践のことである。
―「私たちは、“自分というもの”を頼りにしてしまうと、貪りの心を生み出し、迷いを生み出します。
そもそも私たちの身体は、四つの元素(四大)が集合してなりたっています。そしてさまざまな因縁によって、たまたま成立しているのです。でも、やがて、構成要素は朽ちていき、バラバラに分離してしまいます。
『集合したものではなく、単独で成立し、決して変化せず、何ものにも関係してない存在』はないのです。そしてこの集合したものを『空』と言います(是の身は空なり)。」
―「仏教では、この世界は無常だという立場に立ちますので、すべては一瞬一瞬、変化し続けていると捉えます。この今の一瞬の影響で次の一瞬が現れる、そしてまたその一瞬の影響で次の一瞬が現れる、そんなふうに考えます。つまり、「今・ここ」にしか私も世界も存在し得ないという立場に立ちます。かつて、癒しブームのときに「今・ここ・私」という言葉がよく使われました。それは、「今、あなたのあるがままでいい」という、自己肯定の道具として使われたのですが、仏教が語っているのは、そういうことではありません。
時と存在が一瞬一瞬の連鎖であり、この一瞬の影響によって次の一瞬が成立する、と言うのです。(・・・)
というわけで、仏教を学べば、何かものすごいパワーを手に入れることができるわけではありません。むしろ、「今・私が・ここにいる」、そのことを再点検し、それがどれほど不思議なことかをリアルに実感するところから始まります。地味な話ですが。今、立っている場が、どれほどの関係性の網の目に支えられているか、それを智慧の眼で見つめ直すのです。」
―「いくら仏教を学び、実践しても、私たちはこの人生を生き抜いていかねばなりません。苦悩が尽きることはありません。底に穴の開いた船に乗って、懸命に水をかき出しているようなものです。かき出してもなくならないけど、かき出すのをやめることはできない、それが人生かもしれません。
そのときに大切なのは、『自分というものへの執着の再チェック』と『利他行為の実践』の二つなのだと述べられている、そのようにこの部分を受け取りました。
そして、ここには仏教のすべてが凝縮されていると思うのです。いや、人類の智慧の結晶と言っていいような気がします。」
―「『維摩経』的に言うならば、スピリチュアリティとは『関係性』のことであり、『つながっている』というリアルな実感であり、宗教的『場』のことだと言えるんじゃないでしょうか。
維摩は、従来の仏教思想から考えれば驚くような言説で聴衆を揺さぶります。そうやって揺さぶられた結果、その場の人々は『仏教』という枠組みさえも解体―再構築を迫られるのです。そしてついには“自分の都合”がはずれ、共振現象の場が出現します。それこそが『維摩経』で語られる『空』の正体ではないでしょうか。」
―「仏教では、『人間はどんどん極端になっていく』と考えます。私たちの思考も行動も、ついついバランスを失いがちです。連鎖反応がとまらなくなって、極端な思考や行動へと走ってしまうことも少なくありません。(・・・)なぜなら、本来、人類のエネルギーは過剰だからです。(・・・)
とにかく、人間っていろんな場面で過剰になり、自分でもコントロールできなくなることが起こります。
そのため仏教では『中道』という思想を発達させてきました。仏教の中心思想のひとつです。『中道』とは、偏りのない正しさです。あるいは、極端な方向へと偏らない実践修行のことです。どんなにすばらしいと思えるものでも、仏教では『極端』『偏向』はダメなのです。仏教で言うならば、『関係性を軽視する』のも『過剰な関係性』も、バランスがよくない、ということになるでしょう。
目指すイメージは『鏡のような心』です。(・・・)
目の前にあれば、それをそのまま映す。そして、その対象が目の前からいなくなれば、何も映らない。残像も残らない。これが仏教の理想的な精神のあり様なんです。『鏡のような心』をイメージしながら、『思想・信条よりも関係性が先立つ』ことを大切にしてみましょう。」
―「仏教では存在と時間は同時・不離です。あなたは、今、現在、ここにしか実在しません。そしてこの現在も、要素が集合して成立した仮の姿だと考えます。
ならば私たちができることは、ただひとつ。今、現在、ここに『成りきる』のです。『こうでなければならない』という思いに執らわれてしまうと、今、ここを『成りきる』ことはできません。そのため不必要なものがあれば、できるだけ捨てていきましょう。
ポジティブとかネガティブとか、そんな位相の話ではありません。一遍上人は仏教を『捨ててこそ』とひと言で表現しました。
『成りきる』と『捨てる』、これです。
仏教はこだわりや執着心が苦悩を生むと説きます。つまり、執着が強くならないためのトレーニングが必要となります。快にも不快にも、楽にも苦にも支配されないように、つねに『成りきる』『捨て続ける』ことで心身を調えるのです。」

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by daiouika1967 | 2009-09-05 23:40 | 日記  

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