9月11日 金

朝、歩いているとき、急に便意をもよおした。かなりぎりぎりのところで事務所に着いたのだが、我慢していると、波のように周期的に危機がやってくる。腸の活動は周期的なのだな、とはっきりとわかる。人間の臓器は、それぞれ固有の周期をもって活動している。
脳もまた例外ではない。周期的に覚醒の度合いが高まったり低くなったりする。何かを考えるとき、仕事で集中しなければならないとき、この脳の周期と同調して行なうと、効率がよく、無駄に焦ったりだらけたりすることがない。
脳や臓器も含めて、身体は、人間にとっての自然である。自然には、すべて、それぞれ固有の周期があるということなのだろう。桜井章一はよく「自然に帰れ」ということを言うが、それは、自然の各個がもつそれぞれ固有の周期に敏感であれ、ということなんじゃないか。その感覚が、最近、朧気ながらつかめてきた。

末井昭『純粋力 ―ノーフューチャーな時代を生きるために』(ビジネス社)を読む。『写真時代』の編集長、母親が男とダイナマイトで爆死したという過去をもつ、あの“ダイナマイト・キッズ”の末井昭である。
栗本慎一郎がエッセイで、母親の内臓が木にぶらさがっているのを眺めた末井少年は、その瞬間、あらゆるできごとの“意味”を爆破させてしまった、というようなことを書いていて、その文章を読んだ高校生のおれは、すっげえ。リアルにパンクなおっさんだ。と、畏怖と憧れを感じたのを憶えている。
「ノーフューチャーな時代を生きるために」ってのは、じつに、末井昭にぴったりなタイトルである。冒頭で、末井は、今はあらゆることに“意味”がなくなった時代である、と指摘する。
末井自身は、自らの幼児体験を通じて、あらゆる出来事の意味を“爆破”させてしまったけれど、今という時代に生きる人びとは、誰もが生きる“意味”を見失い、索漠とした“無意味”のなかで、徒労感や不条理感を蓄積させている。
末井の私傷が、時代の公傷と、今ほどシンクロしている時はないのではないか。末井昭はずっと、“異彩を放つ”というありようをしてきた人だと思うが、今という時代は、誰もが末井昭のように“無意味”と折り合いをつけ、“無意味”を越えていく道を模索しながら生きていかざるを得ない。その意味で、末井昭の生きざま、言葉が、以前とは違ったスタンダードな意味合いをもつようになっている。

ところで、ノーフューチャーといえば、今日、サウナに行ったのだが、そのサウナでじつにパンクでアナーキーなおっさんを見かけた。
サウナに入っていくと、ブヨブヨと太ったおっさんが、床にゴロンと寝転んでいる。アザラシかトドのようである。全身汗まみれで、ハアハア肩で息をしながら、しかし顔はうっすらと笑っている。もうかなり長いあいだ入っているようだ。おれが8分我慢して、もうそろそろ限界だ、と立ち上がると、そのおっさんもちょうど同時に、おもむろに立ち上がった。
足下がよろよろとおぼつかない。見る間にトトトトっとよろけて、そのまま尻餅をついてしまった。おいおい、大丈夫か、おっさん、と、その場にいた全員の視線がおっさんに注がれる。しかしおっさんは、すぐに立ち上がり、ドアを開け、千鳥足でよろよろとサウナ室を出て行った。
おれも後について、サウナ室を出る。冷水浴用の浴槽はふたつあって、ひとつはぬるめの水、もうひとつはキンキンに冷えた水が入っている。おっさんは千鳥足のまま、迷わずそのキンキンに冷えた水の入っている浴槽に向かい、そのなかに頭からボチャンと飛び込んだ。しばらくそのまま水の中に沈んで、ほんとうに死んだんじゃねえのか、と心配になった頃、ちょうどオットセイがショーで飛び上がるかのごとく、水から顔を出したのである。ぷはあああっと息をつぐ、満面の笑顔のおっさん。
いままさにおっさんは、「死と隣り合わせの快楽」を味わっているのに違いない。いや、じつにパンクでアナーキーなおっさんであった(体を十分に冷したおっさんは、そのまままたサウナ室へと消えていった)。

水110円、喫茶店二人分900円、茶150円。合計1160円。マイナス160円。
朝、ツナサンド、南瓜の煮つけ。昼、大豆バー2本。夜、実家のチャーハン、沢庵。
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by daiouika1967 | 2009-09-12 21:30 | 日記  

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