11.20 金 晴

内田樹『日本辺境論』(新潮新書)読む。

日本、日本人は、つねに自らを、「中心」ではなく「辺境」に存在する、という自己意識を持ってきた。「中心」は、つねに外部にあった。その自己意識が、日本人に、どんな考え方、態様、性格を与えてきたのか。

「たとえば、私たちのほとんどは、外国の人から、『日本の二十一世紀の東アジア戦略はどうあるべきだと思いますか?』と訊かれても即答することができない。『ロシアとの北方領土返還問題の「おとしどころ」はどのあたりがいいと思いますか?』と聞かれても答えられない。尖閣列島問題にしても、竹島問題にしても、『自分の意見』を訊かれても答えられない。もちろん、どこかの新聞の社説に書かれていたことや、ごひいきの知識人の持論をそのまま引き写しにするくらいのことならできるでしょうけれど、自分の意見は言えない。なぜなら、『そういうこと』を自分自身の問題としては考えたこともないから。少なくとも、『そんなこと』について自分の頭で考え、自分の言葉で意見を述べるように準備しておくことが自分の義務であるとは考えていない。『そういうむずかしいこと』は誰かえらい人や頭のいい人が自分の代わりに考えてくれるはずだから、もし意見を徴されたら、それらの意見の中から気に入ったものを採用すればいい、と。そう思っている。
そういうときにとっさに口にされる意見は、自分の固有の経験や生活実感の深みから汲みだした意見ではありません。だから、妙にすっきりしていて、断定的なものになる。
人が妙に断定的で、すっきりした政治的意見を言い出したら、眉に唾をつけて聞いた方がいい。これは私の経験的確信です。というのは、人間が過剰に断定的になるのは、たいていの場合、他人の意見を受け売りしているときだからです。
自分の固有の意見を言おうとするとき、それが固有の経験的厚みや実感を伴う限り、それはめったなことでは『すっきり』したものにはなりません。途中まで言ってから言い淀んだり、一度言っておいてから、『なんか違う』と撤回してみたり、同じところをちょっとずつ言葉を変えてぐるぐる回ったり……そういう語り方は『ほんとうに自分が思っていること』を言おうとじたばたしている人の特徴です。すらすらと立て板に水を流すように語られる意見は、まず『他人の受け売り』と判じて過ちません。」

「自分の存在の起源について人間は語ることができません。空間がどこから始まり、終わるのか、時間がどこで始まり、終わるのか、わたし達がその中で生き死にしている制度は、言語も、親族も、交換も、貨幣も、欲望も、その起源を私たちは知りません。私たちはすでにルールが決められ、すでにゲームの始まっている競技場に、後から、プライヤーとして加わっています。私たちはそのゲームのルールを、ゲームをすることを通じて学ぶしかない。ゲームのルールがわかるまで忍耐づよく待つしかない。そういう仕方で人間はこの世界にかかわっている。それが人間は本態的にその世界に対して遅れているということです。それが『ヨブ記』の、広くはユダヤ教の教えです。
ふつうの欧米の人はこういう考え方をしません。過ちを犯したので処罰され、善行をなしたので報酬を受けるというのは合理的である。けれども、処罰と報酬の基準が開示されておらず、下された処罰や報酬の基準は陣地を超えているというような物語をうまく呑み込むことができない。どうして、私たちが『世界に対して遅れている』ということから出発しなければならぬのか、と彼らは反問するでしょう。まず、われわれが『世界はかくあるべき』という条件を決めるところから始めるべきではないのか、と。不思議なことに、ヨーロッパ人には呑み込みにくいらしいこういう考え方が私たち日本人には意外に腑に落ちる。
ゲームはもう始まっていて、私たちはそこに後からむりやり参加させられた。そのルールは私たちは制定したものではない。でも、それを学ぶしかない。そのルールや、そのルールに基づく勝敗の適否については(勝ったものが正しいとか、負けたものこそ無垢の被害者だとかいう)包括的な判断は保留しなければならない。なにしろこれが何のゲームかさえ私たちにはよくわかっていないのだから。
日本人はこういう考え方にあまり抵抗がない。現実にそうだから。それが私たちの実感だから。ゲームに遅れて参加してきたので、どうしてこんなゲームをしなくちゃいけないのか、何のための、何を選別し、何を実現するためにゲームなのか、どうもいまひとつ意味がわからないのだけれど、とにかくやるしかない。」

「私たちは辺境にいる。中心から遠く隔絶している。だから、ここまで叡智が届くには長い距離を踏破する必要がある。私たちはそう考えます。それはいいのです。でも、この辺境の距離感は私たちにあまりに深く血肉化しているせいで、それが今まさにこの場において霊的成熟が果たされねばならないという緊張感を私たちが持つことを妨げている。霊的成熟はどこかの他の土地において、誰か『霊的な先進者』が引き受けるべき仕事であり、私たちはいずれ遠方から到来するであろうその余沢に浴する機会を待っているだけでよい。そういう腰の引け方は無神論者の倣岸や原理主義者の狂信に比べればはるかに穏当なものでありますけれど、その代償として、鋭く、緊張感のある宗教感覚の発達を阻んでしまう。
辺境人は外部から到来するものに対して本態的に解放性があります。これはよいことです。けれども、よいところは必ず悪いところと対になっている。遠方から到来する『まれびと』を歓待する開放性は今ここにおける霊的成熟の切迫とトレードオフされてしまう。
今、ここがあなたの霊的成熟の現場である。導き手はどこからも来ない。誰もあなたに進むべき道を指示しない。あなたの霊的成熟は誰の手も借りずにあなた自身がなし遂げなければならない。『ここがロドスだ。ここで跳べ』。そういう切迫が辺境人には乏しい。」

「日本に限らず、あらゆる文化はそれぞれ固有の二項対立図式によってその世界を秩序立てます。とりあえず、それぞれのしかたで世界を対立する二項によって分節する。『昼と夜』、『男と女』、『平和と戦争』、こういう二項対立のリストは無限に続けることができます。ラカンは対立による秩序の生成について、こう書いています。
『これらの対立は現実的な世界から導き出されるものではありません。それは現実の世界に骨組みと軸と構造を与え、現実の世界を組織化し、人間にとって現実を存在させ、その中に人間が自らを再び見出すようにする、そういう対立です。』
その店では、私たちがしてきたこともそれほど奇矯なふるまいではありません。ただ、私たちは華夷秩序の中の『中心と辺境』『外来と土着』『先進と未開』『世界標準とローカル・ルール』という空間的な遠近、開化の遅速の対立を軸として、『現実の世界を組織化し、日本人にとって現実を存在させ、その中に日本人が自らを再び見出すように』してきた。その点が独特だったのではないか。そういうことだと思います。それが『いい』ということでもないし、それだから『悪い』ということでもない。こういう二項対立は世界標準に照らして変だから、これを廃して、標準的なものを採用しようという発想そのものがすでに日本人的な二項対立の反復に他ならないということです。」


■仕事の帰り、<サウンドベイ>に寄ると、コシミハルの『tutu』『パラレリズム』が二枚組、リマスターされて再発されていた。『Epoque de Techno』。二枚ともレコードで持っていて、くりかえし聴いたアルバムである。迷わず手に取る。お。ムーンライダーズの新譜も発売されたか。『Tokyo7』。前作はすごく良かったからな。これも迷わず手に取る。勢いがついて、ついでに、買いそびれていたコーネリアス『CM3』も買う。名駅まで歩き、<シックスナイン>に寄る。モーリッツ・フォン・オズワルド・トリオ『ヴァーティカル・アセント』、プラスティックス『オリガトウ』を買う。ここしばらくCDをまったく買っていなかったので、ついまとめ買いしてしまった。
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by daiouika1967 | 2009-11-21 23:29 | 日記  

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