11.26 木 晴

青木淳悟『いい子は家で』(新潮社)を読む。
デビュー作、『四十日と四十夜のメルヘン』は「衝撃的」だったが、その衝撃をうまく消化できないまま、しばらく青木淳悟からは遠ざかっていた。今作もまた「衝撃的」な面白さだったのだが、もはやそれを「消化」しようとは思わず、その衝撃から受けた振動を、そのままじわじわ増幅させている。

任意に一場面、引用してみる。
「母親が朝、洗濯をしている。
彼はその洗濯機の音で目を覚ます。
(もう昨日の服あらってんのかよ)
まるで台無しだ、という気分で一日がはじまる。
そんな思いを飲み込みつつ何気なく階段を降りていくと、
「ああちょうどよかった、それ全部脱いじゃって、ついでに洗うから」
「ああ、はいはい……」
二階に引き返し、下着を着替え、パジャマから部屋着に着替える。
「じゃあこれ洗ってよ」
「やだ!またそれ着ちゃったの!?」
「だってこれは!」
「だってもなにも、いま洗わなくていつ洗うのよ。朝から晩までずーっとそれ着てて、洗濯する暇がないじゃないの。だから部屋に置きっぱなしにしなさんなってあれほどいってるの!!」
どうして毎日洗わなくてはならないのか、帰ってきたらまたすぐ部屋着もパジャマも必要になるというのに。朝から外出着を着たりするとまともに行き先を問われる恐れがあるから、とりあえず出かけない日と同じように部屋着にしたのだが、外出予定日だということがいつの間にか見抜かれていて、ぼそっと一言、「どうせまた着替えるんでしょうに」といわれてしまった。
面と向かって、というのではなく、母親の視線は心を見透かそうとするかのように胸のあたりに置かれていた。声の調子も暗めだった。それがまたなんとも気まずくて、
「五秒で着替えてくる」
といって彼は飛ぶように階段を駆け上がった。」

なんというか、ごく普通の親子のやりとりなのだが、ほんのすこし歪んでいる。「いつの間にか見抜かれていて」という一文以降のくだりが、母親の異能力を暗示していて、それが「歪み」の印象になっているのだろうか。母が普通ではない特殊な人間だから、この小説に幻想味が醸し出されているのだろうか。いや、そうではないだろう。

もう一箇所、そのすぐ後の場面を引用してみる。
「県道へ出るまでの途中に畑を隔てて自宅の裏手が遠く見渡せる場所がある。彼はいつも通りがかりにそれを見ていく。行き止まりの私道に民家がびっしり軒をつらねていて、よくも同じような家ばかり建てたものだと思う瞬間である。構えが比較的立派なつきあたりの二軒も裏にまわればそれほどでもない。その自宅前の道自体、こうして外から眺めるとひどく短く感じられる。そこがふるさと、というわけだった。
想像力が豊かというのか、ただ空想癖が強いだけか、彼はたまに目に見えないものを見てしまうことがあり、その家並みの屋根の上に人影を見つけたりする。一軒ごとに一名ずつの男性が屋根にしがみついているように見える。視力は両目で1.0あるかないかで、いまのところ彼らがそれぞれの家の主人であるとの見極めはついていないのだが、自宅の屋根に見えるのが父親の姿だということだけははっきりとわかる。父親の家に対する思いがあのようなかたちで現れているのか。
しかし無闇と立ち止まったりはせず最寄りの駅まで自転車を飛ばす。途中、カーブミラーや商店のガラスに映る自分の姿に目をやる。駅に着いたらホームの鏡を通りすがりに一瞥して、時間があればトイレに寄って鏡に見入る。出がけに一応身だしなみを整えてきていても、外へ出て、外の気分で見ておきたい。家の中ではなかなかそういう気分にならないものだから。
孝裕はここのところ頻繁に外出するようになって、あらためて母親の異能力というものを意識しはじめていた。まだなにもいわないうちから知っているとか、隠しても見抜かれてしまうとか、気づいたら自然に仕向けられていたとか、そういうところがむかしからあった。出かける前、自室で服を選んだり、洗面所で髪をいじったりしていると、どうしてもその母親の存在が気になってくる。そこで彼は家事導線というべきものを念頭に置き、母親がどこでなにをしているかを絶えず探りながら、さり気なく準備を進めていって出かけるタイミングをうかがう。もし仮に「父なるもの」が屋根の上に置かれているとしたら「母なるもの」はきっと家の中にあるのだろう。」
この引用の前半には、郊外の民家の屋根に「父」がしがみついているという、明らかに異様な光景が描かれているのだが、それがなぜか荒唐無稽な異様さとしては感じられない。この光景もまた、ひとつ前に引用した箇所と同じような「歪み」のなかに、「自然に」収まっているように感じられる。
夢を見ているときには、どんな異様な事態が出来しても、それを異様だとは感じないものだが、この小説がもつ「歪んだ」磁場のなかでは、どんな異様な物事が現れてもそれを異様だとは思えなくなる。
いや、従前からおれは「歪み」という言葉を使っているが、この小説世界が特に「歪んで」いるのではなく、現実の世界がそもそも「歪んで」いる。この小説は、ある意味、その「歪んだ」現実を、何の意味づけも排して、ただ「写生」しているだけだとも言えるかもしれない。
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by daiouika1967 | 2009-11-27 23:29 | 日記  

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