12.4 金 晴

■一日おきに、晴れ、雨、晴れ、雨、といった感じで天気が変わる。

このところおれは、「その場にいる」ということに、ある種の興趣を覚えるようになった。「その場」がどんな「場」でもいいのだ。「盛り上がった場」でも「なまめかしい場」でも、あるいは「気まずい場」でも「微妙な場」でもいい。それを楽しんでいる、というと、すこし違って、やはり「ある種の興趣を覚えている」といった方がいい。しかしながら、「ある種の興趣を覚えている」というのがどんな状態なのか、それが説明しづらい。なんとも不器用なこなれない表現だが「現在に没している」とでもいうのか、よく何かに没頭している状態を「○○三昧」ということがあるが、没頭する対象は何もないのだが、その三昧境に遊ぶのに近い精神状態でいるようだ。

今日は夜、ヨガの忘年会があった。ヨガの先生と話しているとき、たまたま毎日どんな運動をしているかという話題になり、「毎日通勤は一時間ずつ歩いてますね。だから一日12kmは歩いてる」というと、周りの女の子たちに「すごいですねえ」と驚かれた。
先生が「歩くのは楽しいですか?」と聞くので、「いやべつに楽しいはないですね。ただ歩いてるだけです」と答え、それでその話題は終わった。
ただ歩いているだけのことで、楽しいことなど何もない。ただ、歩いているだけなのだ。そのとくに何の意味も刺激もない「ただ、歩いている」「ただ、その場にいる」「ただ、仕事をしている」「ただ、メダカに餌をやり、植木に水をやっている」ということ、その「ただ」に“没して”いるということ、それに“成り切る”ということに、ある興趣を覚える。

西條八十『女妖記』(中公文庫)を読む。
昭和三十三年、齢六十六の西條八十の筆による、事実とフィクションのあわいを綴った、女遍歴の小説。
売れっ子の詩人、作詞家の著者は、仕事で全国を巡り、その土地ごとでさまざまな女と交わる。策を弄して女を口説くでもなく、ただ状況の流れに任せてごく自然に女と交わっている印象があって、著者もそのことをごく自然のこととして書き綴っている。
ところどころ、例えば「急に強烈に会いたくなり」といったような記述は見られるものの、それもただ交わった体の記憶がその土地の何かをきっかけに不意に蘇った感興を書いているに過ぎず、著者は基本的にはひとりの女への執着に身を焦がすというようなことはないようだ(あるいはあったとしてもそれは書かれていない)。
来る者は拒まず情を結び、去る者は追わず断ち切り、その潔い淡白、あるいは薄情な人非人ぶりが、ユーモラスで嫌みのない洒脱を醸している。
西條八十にとって、女とは、実体ではなく、交わるその一点に現われる妖しの存在であったのだろうか。

男にとって、女を抱く、ということは、生身の肉を抱くことではなく、肉に表現された女という観念を抱くことでしかない。
観念、つまりは幻想である。
だから、女を求める男の欲情は、どこまでも空虚で寂しいものなのだ。
そして「女であること」を引き受け、その男の欲情を受け止める女という生き物は、本質的に哀切であり、同時にしたたかな強さを持ってもいる。
西條八十のような人は、そうした性の寂しさ、悲しさ、機微を、深く味わった遊び人であり、そのことがまた女を惹きつけていったのだろう。
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by daiouika1967 | 2009-12-05 17:21 | 日記  

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