5月27日(金) 曇ときどき雨

夕方一時間、喫茶店で檜垣立哉『ドゥルーズ入門』(ちくま新書)を読み継ぐ。読了。

≪タルド的な社会学、パース的な記号論、西田的な純粋哲学、十九世紀後半以降の集合論という諸議論は、それぞれがモナド的な無限小と差異化を原理とした連続体の思考を、大きなバックボーンとして備えているといえるのではないか。そして、ドゥルーズ自身において明確な、内包主義とその分化=現実化に関する議論は、それ自身、十九世紀的な思考と、そのヴァリアントとして読むこともできるのではないか。≫

≪十九世紀の一部の論脈で顕著に見いだされる、こうした内包性・微分性・潜在性・無限小性・バロック性をめぐる思考群は、しかしさらにいっそう広域の思想史的文脈において捉えることも可能である。それは思想史における、(後期のドゥルーズが利用する字義通りの意味において)「マイナー性」の系譜を形成するといってもよい。
ではそこで、マイナーなものに対するメジャーなものとは何なのか。それは、主観性と言語の哲学にほかならない。逆にいえば、マイナーなものとは、主観性という中心軸をもたないで、あるいはシニフィアン的な超越の力能に依拠しないで、この世界を捉えていく思考に与えられた名のことである。≫

≪中心点を見いだす発想とは、主観性に依拠するにせよ、シニフィアンの効果に依存するにせよ、中心を軸として描かれる階層秩序をつねに想定してしまう。それはまさに、ヒエラルキーをなすのである。こうしたヒエラルキーの思考を支えるものは、アナロジー的な作用である。何かが中心に設定され、それとの類比によって、他の存在者のあり方も、そしてその価値も定められ配分されてしまう。それは存在論的には、類と種の関係において把握され、その一般性を基盤とした下位的な区分において固体を捉えるものである。しかし一義性の発想とは、それを逆立させ、個体的なものがその上位概念を含み引き受ける、反乱する力を含んだ特異性を際立たせる。
言語や主体を軸にした発想は、自然存在の沸き立つ力に対する、抑圧的な統制機能である「超越」を前提としている。超越論的な統覚(カント的な主体)が失われたのちにも、そこにはシニフィアンの力が、空虚なその姿において、存在を統制する。そうした統制のもとに、存在は階層づけられる。
バロック的思考において、あらゆる細部に差異が宿り、あらゆる個体のなかに全体が破断的に入り込み、すべてのものがすべてのものと繋がっていると描かれるときに、そこで廃棄されるのはまさにヒエラルキーである。ヒエラルキーが廃棄されるときに際だってくるのが、存在がいとつの声を多様に鳴り響かせることである。≫

≪「かたち」として空間化されたもの、すなわち常識的に考えて現在の経験をなしているものは、二次的な実在にすぎないということである。ベルクソンは、過去の方が現在よりも、存在であることの価値が高いと捉えている。現在とは、流れである現実の一断片にほかならない。そこで流れというあり方を重視するかぎり、過去はあらゆる現在と繋がっていて、そうした一断面である現在とは異なった仕方で(まずは潜在的な「記憶」として)実在しているという。
ドゥルーズも、こうした「現在を逃れる」というあり方に徹底的に固執する。ドゥルーズにとって、現在化して、空間的に明晰な「かたち」をとった場面とは、潜在的な力の存在に対して、二次的なものにすぎない。この点はまったくベルクソンと同様である。「現在」という場面から存在を考えることは、さまざまな哲学的な難問を、あるいはパラドックスを引き起こしてしまう。「現在」という、空間化され明確かされた場面に依存して、世界を思考することはできないし、それでは生成としてのこの世界は把捉できない。このことは、冒頭で述べた、ひとつの「視点」に依存して世界総体は把握しえないという、「俯瞰」そのものを肯定する議論に繋がっている。視点は、ひとつの現在化された位相を特権化するだけなので、それでは潜在的な力の領野は見いだせないのである。
ついで考えるべきことは、とはいえこうした潜在性も、それ自身が現実化していくというプロセスのなかに置かれているということである。そしてこのプロセスこそが、「微分的」な思考の基本になっている。「微分」とは、それ自身は未決定な力の傾向性であるが、それが展開されることによって現実的なもの、すなわち「見えるもの」が形成される、その仕組みを捉えるひとつの技法なのである。≫

≪ルサンチマンの装置が突き動かすのは、まさにヒエラルキーと弁証法である。ヒエラルキーは、この世界の存在者を、超越との近さと遠さによって序列づける。あるいはまさにアナロジー的な論理によって位置を指定する。頂点である超越に接近することはありえないのだが、そこではつねに不在の頂点との距離感によって、自らの位置が測定されてしまう。自らが何であるかは、問いの対象にならない。自分が何かから遠いことだけが、関心の軸でありつづける。その行為が、つねに不調に終わることを運命づけられていることはいうまでもない。
これはどこかで、まさにグローバルなリベラル競争の原型であるようにもおもえる。リベラル社会における個人は、そのすべての力能において、そのすべての個性を発揮し、他者と公平かつ厳正な競争をおこなって財の分配をなさなければならない。すべての標語は、正義と公正性と自己努力になる。他者への責任と自己の責任、この怯えに充ちた小人の試みを、ニーチェが憎悪の対象にしていたことは改めて述べるまでもない。こうした思考をとるかぎり、われわれはどこまでいっても欠如の主体なのである。そこでわれわれは、良心を生きなければならなくなる。われわれの責任を生きつづけなければならなくなる。それは無限に繰り返される、自己否定の作業である。
弁証法は、こうしたヒエラルキー的な発想を補完するものである。それは、否定性と自己の乗り越えとを範型とするかぎり、悪しき仕組みでしかない。弁証法そのものは開かれた装置であるといわれるかもしれない。確かにその通りであろうが、弁証法の中心は自己の否定である。「開かれた」という形容詞はこの場合、自己否定の無限の連鎖にしか関わらない。だからそれは、ヒエラルキー的なシステムが、どこまでも進んでいくことを補完するものでしかない。≫

≪ドゥルーズが、ニーチェとスピノザから獲得したものは、ヒエラルキーのない、そしてそこで働く否定性の影もない、自己肯定的な空間の開示である。それは、頑迷に自己中心性を確保した上で、それを開き直って肯定するものではない。自己が自己であることそのものを、自己中心性なく肯定することである。どうしてそんなことが可能なのか。それは、こうした自己は、自己であることの内側に、他なるものとの繋がりを、それ自身の連続性として秘めているからである(まさにバロック的な発想である)。自己は孤立した空間の内部に、自己だけが住まう領域として存在するのではない。だからそこでは、自己がありながら自己中心性がない。あるいは自己を何かの基準とともに、そこに到達しえないルサンチマンによって追及する必要がない。≫

≪差異は「表象=再現前化」というシステムに従属しないものとしてとりだされるのである。「表象=再現前化」というシステムが、差異を二次的なものとなし、否定的なものに押し込めてしまう。差異は、それとは異なるものとして見だされなければならない。
では「表象」とは何か。それには、つぎのようなはっきりした規定がある。「表象」は「同一性」「アナロジー」「対立」「類似」という論理にしたがって作動するものである。それゆえ、差異である存在は、こうした四つのあり方に捕らわれない仕方で見いだされるべきになる。
「同一性」は「未規定な概念の形式」としてとりだされる。それは「同一」であることを基準として、事象を思考することの根本にあるものである。「アナロジー」という「規定可能な諸概念間の関係」は、先のヒエラルキー的な思考に通じるものだろう。それは同一性を前提として、存在をヒエラルキーとして構成するものである。「対立」という「概念内部の諸規定」の関係とは、まさに弁証法的な議論において見いだされる。そして「類似」という「規定された対象」におけるものは、やはり一種の序列性において存在を思考する議論に適したものである。規定性とは、差異を顕在化させていく過程において、未規定な存在がいかに規定可能性を受け、規定されたものになるのかという、存在そのものの存在者化において主軸をなしている。これら四つのあり方は、そのなかで位置をえているものである。≫

≪第一の時間は、中心化される現在を軸とした、有限な主体の時間であった。第二の時間は、そうした中心性を根拠化するための、無限に届く記憶の包括を述べるための時間であった。だがそうであるがゆえに、第二の時間は、中心的であるものとの、循環を描く事態に収まってしまう。
これに対して第三の時間は、決して中心と循環することのない、無限の直線である開かれた時間である。この時間は、それ自身として経験されることもなければ、経験の枠組みに入ってしまうこともない。逆にいえば、これが経験の枠組みに入ってくるのであれば、その際には、経験そのものの秩序が脱臼化されてしまうことにしかなりえない、そうした時間なのである。≫

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by daiouika1967 | 2011-05-28 19:15 | 日記  

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