5月30日(月) 朝まで雨。その後晴

宵の一時間、ミスドで松本潤一郎・大山戴吉『ドゥルーズ 生成変化のサブマリン』(白水社)を読み継ぐ。

≪反復は「名目的定義以外の定義をもっていないがゆえに」、「部分ノ外ナル部分であるがゆえに」、「抑圧するがゆえに…想起も再認も自己意識ももっていないがゆえに」反復するのであり、「要するに、ひとは、ひとがそれでないところの当のものに、かつひとがもっていない当のものにかならず対応して、反復を行なうというわけだ」と言われる。しかし、このように否定や欠如から捉えられた反復は反復の本質を未だに完全に折り解いておらず、したがって、差異の方も依然として「呪いをかけられたまま」であるのだ。≫

≪純粋過去は過去一般としてそれ自体として即時的に存在する。それは、現時点としての「今」と同時にあり、「今」と共存し、「今」よりも前に存在し、かつて一度たりとも「今」であったことのない過去である。もはや、古い現在という過去と「今この瞬間」というアクチュアルな現在の対立や矛盾があるのではない。純粋過去はアクチュアルな現在と古い現在という二つのセリーの根拠となるのだ。そして、この根拠によって現在は継起し、新しく到来する現在と古くなるとされる現在は互いに拮抗することになる。しかし、
『継起する諸現在の可能な非一貫性あるいは対立がどれほど強固であろうと、それら現在のひとつひとつは、それぞれ異なる水準で、「同じ生」を営んでいる。』
同じ生とは純粋過去それ自体である。純粋過去とは生の全体であり、無数の度合いと水準を有しそれらすべての弛緩と収縮の連続そのものとして生きられるものである。過去全体が無数の度合いと水準において弛緩/収縮の過程として実在しているのだ。そして、『現在の度合いと水準は、それらのうちのもっとも縮約されたもの、もっとも緊張したものでしかない』。アクチュアルな現在は記憶の一水準が最大限に縮約されたものであるが、そのとき無数の古い現在とされるものもそれぞれ同じ過去のうちの別の水準にあり、過去それ自体をますます豊かにしている。したがって、すべての現在は同じ根拠に属し、そこにおいて共存するということになる。だからこそ、純粋過去、過去一般によってはじめて現在は縮約され、次々と継起することが可能となるのだ。≫

≪先ほど特異なものたちが展開するかにみえた純粋過去の領域は根拠であるがゆえに、例えば経験的領野のコピーとしてしか超越論的領野を捉えない思考のように、根拠づけられるものからしか当の根拠が説明されないという事態を往々にして引き起こす。そうなれば、根拠の根拠は当の根拠が根拠づけるもの、つまり表象作用ということになってしまう。根拠はそれが根拠であるかぎり、根拠づけられるものとのループのなかでしか根拠たりえないということになるのだ。したがって、純粋過去をもってしても「同一」のものの反復、同一性の思考に纏わりつかれることになってしまう。
それゆえ第三の時間の総合において語られるのは、脱根拠の運動ということになる。もはや根拠を有さず中心ももたない反復が要請されることになるのだ。それこそ未来の反復としての永遠回帰である。しかし、この未来はもはや現在において構成される未来でもなければ、純粋過去のうちで新しい現在として生み出される未来でもない。それは、深さにおける過去と表面における現在が組織する「同一」のものの円環を打ち砕く純粋で空虚な時間の形式、直線そのものと化した時間の形式における未来なのだ。≫

≪相互に伝達しあう力とは、誰に帰属しているのかが識別できない力の錯綜、むしろそこから私が帰結してくるような力の錯綜である。力は、それ自体としてすでに複数的である。ひとつの力はつねに複数の部位の絡み合いであり、と同時に、そのままで相互に対する力の伝達ないし移行である。機械は、力を伝えるものと伝えられるもののあいだの区分を認めない。言い換えれば、機械とは諸々の力の組み合わせ、諸々の機能の絡み合いに与えられた名前である。そして欲望もまた、そこから事後的に私が生じてくるような、力が折りたたまれる過程であったことを想起するなら、欲望そのものがひとつの機械なのだということが理解される。機械とは、力を伝達しあう情動-触発の回路の束である。ドゥルーズ/ガタリが言う「スキゾフレニーの散歩」がなされるのは、まさしくこの回路においてである。≫

≪様々な方向から圧力を被り、同時に周囲の方へ拡張、流出していく身体は「人体」という有機的に組織された形式をもはや保つことはできなくなる。多様な力の作用で身体は変形、歪曲、脱-形式化し、動物のようなものになりつつある。これは、人間が例えば犬や牛に変身するということではない。なぜなら、犬や牛も組織化された身体形式をもつことに変わりはないからである。では、動物になりつつあるというのはどういうことか。それは人間と動物の「あいだ」、人間ともいえないし動物ともいえない「決定不能、判別不能の領域=ゾーン」に生成することである。≫

≪『千のプラトー』は、起こりつつある何事かを、客観的な立場から分析して私たちに了解を与えるためにではなく、反対に、何事かを私たちに指し示し、他ならぬその何事かへと介入させるために、「非正確な表現」で書かれた書物である。非正確な表現が必要とされるのは、起こりつつある何事かに介入することを、『千のプラトー』が意志するからである。正確さに抗って書く、非正確に表現する、とは、起きつつある何事かに説明を与えることではなく、まさにその起きつつあることの一部にならんとする意志、みずからが「起きつつあることの正確な経路」たらんとする意志の表明である。≫

≪群集とは微小な流れの量子であり、量子と秩序が課す規範(コード)や割りふられた領土から逃れ去る運動の、度合いとしての記号である。この漏出する知覚しえない流れを捉えるのが線の作用であり、それは大きな枠組みとしての階級へともたらされ、知覚されうるものとなる。こうして同じ唯一の力は、漏出する量子の流れとそれを捉える線という、互いに還元されない二つの様式において、出現する。歴史家の務めは、線が流れを捉え、また流れが線から逃れるという二つの運動の周期性を確定することにある。このような視点から歴史を捉えるとき、目的論も進歩史観もない、ただ二つの運動の交替からなる歴史を、考えることができる。歴史はこの交替が起こる無数の瞬間、すなわち諸々の出来事を保存するアーカイヴとして、捉えられるのである。≫


家に帰り、インターネットラジオをclassical-pianoにチューニングし、片山杜秀『ゴジラと日の丸』(文藝春秋)を読み継ぐ。1時間半くらい。
クセナキスを追悼している箇所を引いておく。
≪その群集に、やはり心底魅了されたギリシア人が居た。名はクセナキス。彼の青春時代、祖国はナチスや英軍に蹂躙され、国内も分裂し混沌とした。ギリシア人たちはデモし、暴動を起こし、殴り合い、逃げ惑い、殺された。そんな二十世紀でもとびきり暴力的な群衆の中に彼も居て、自身、片頬の肉をふっ飛ばされもした。そしてその経験ゆえ、彼は群集のダイナミズムを表現する芸術家になった。
ではクセナキスは何を作った?何千人ものエキストラを使う映画?否。彼は作曲家になり、音で初めて真に群集を表現したのだ。
はて、それはいったいどんな音楽?ピアノでいうなら、こぶしやひじで鍵盤をガチャガチャ叩きまくる様子でも想像すればいい。とにかく非常にたくさんのハイテンションな音が時に押し寄せる群集のように密集し、時に蜘蛛の子を散らして逃げる群集のようにばらけて、暴力的に動き回り続けるやかましい音楽なのだ。1950年代以降、クセナキスはそういう曲を、大オーケストラや電子音を駆使して作り続けた。たとえば『メタスタシス』や『ペルセポリス』などを。≫

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by daiouika1967 | 2011-05-31 22:10 | 日記  

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