6月7日(火) 曇

気分が浮ついて一向に仕事に集中できない。切羽詰った締め切りがないということもあるのだろう。締め切りが迫って、えいやっとやっつけで片付けるという仕事のスタイルが骨がらみになっている。
仕事には集中できないが、読書には集中できる。仕事への抵抗と読書への傾倒。夕方から夜、大澤信亮『神的批評』(新潮社)に没頭する。2時間半で「宮沢賢治の暴力」「柄谷行人論」「私小説的労働と協働-柳田国男と神の言語」の3つのテキストを読む。

「宮沢賢治の暴力」からの引用。
≪殺されたくない。殺したくない。けれど死ぬこともできない。そして殺していく。
だとすれば生きるとはどういうことか。見つめること。賢治にとってはそうだった。それはトシを悼む悲痛な言葉だけでなく、自然を見るときのキラキラした言葉、「すきとほつたほんたうのたべもの」としての童話、それらすべてが賢治にとって、ほかならぬ修羅の戦いだったことを意味する。≫

≪賢治は、共同体と共同体の間に生まれ、共同体内部に流れ込んだ貨幣経済を揚棄するポイントを、共同体と共同体の間で生まれた世界宗教の起源に遡ることで見いだそうとする。貨幣経済のリアリティとは内部化された外部のリアリティであり、それを超えるには別の外部のリアリティを新たに構築しなければならない。だからこそそれは新たな宗教でなければならない。「そは人々の精神を交通せしめ その感情を社会化し遂に一切を究竟地にまで導かんとする」(『農民芸術概論綱要』)。そう考えるとき、空想的と言われ続けてきた『農民芸術概論』は、むしろ現実的なのではないか。その信仰は「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という全世界的理念と、「まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう」という自己破壊的実践によって支えられていなければならなかった。≫


「柄谷行人論」からの引用。
≪自らに死を与えること。他者のために死ぬこと。それは死の欲動を「私」を通して贈与することなのだ。私的に所有しているものの分配ではない。所有する「私」それ自体の分配。個体的分配。デリダはそれを「エコノミー」と呼んでいる。これは単なる哲学的隠喩なのか。たとえば「自然」を「交通」のダイナミズムに見る柄谷=マルクスにとってはそうではなかった。彼らは「物質的労働と精神的労働tの分割」が隠蔽する「起源」、それらが分割された「瞬間から、意識は現にある実践の意識とはなにかちがったものと思い込むことが実際にできる」ようになるポイントを経済に見い出した。思い出そう。柄谷の出発点が「意識と存在の分裂」にあったことを。その分裂を生み出すポイントがここにある。それは「分業が歴史上いつ始まったか」といった実証科学的な問題ではない。現実を形式的に遡行することでしか見出されない「起源」である。
デリダもまた『ドイツ・イデオロギー』に触れて書いた。「歴史のなかに生み出された作為的な自律を解消するために、生産および技術的-経済的交換の諸形式を考慮しなおさなければならない」(『マルクスの亡霊たち』)。彼も何かを掴んでいる。ならば「死を与える」を文字通り「エコノミー」として読むとはこういうことではないか。
その力に接近しようとしたときに柄谷が強いられた内省という「自己放棄のかたち」(柄谷)は、それ自体、何かのエコノミーに貫かれていたのではないか。≫

≪80年代初頭になされた形式化をめぐる一連の議論で、柄谷は、この意識と存在のズレの「起源」に遡行し、その光源において人間を新しい存在へ開くことを試みた。それは内面に固執することなく、つねに「巨大な多様体」(ニーチェ)としての外部へ立ち続ける条件の追求だったと言える。その渦中で柄谷が示したのは、書かれている内容とは別のレベルで、つまり柄谷自身が意識しないところで、何を書くかよりもいかに書くかという姿勢において、読んだ者の心臓を強く握る特異なタイプの思考だった。≫

≪交換されることが価値である。交換されないものに価値はない。
柄谷は単に「良い物は値が張る」的な俗物趣味でそう言うのではない。すべてを見通すことができないということが人間の条件であり、それがもっとも先鋭的に現われるのが交換という他者との行為だからだ。彼が交換を媒介としない思考を拒絶するのは、それが「受苦的」(マルクス)に生きるほかない「人間であるという運命」(対馬斉)に唾を吐くことであり、同時に、それが人として生きることの可能性を見ないことだからである。
たとえば、柄谷は『世界共和国の中へ』のなかで、資本=ネーション=国家(市場=互酬制=再分配)の三位一体を超える原理の可能性を示唆する。それは、かつて普遍宗教がわずかに開示した第四の交換、アソシエーション・Xと呼ばれる。あるいは、『世界史の構造』には「神の力」という言葉もある。それは、交換という人間の条件を考え続けた思想家が到達したぎりぎりの社会変革のビジョンとして、今後の社会運動理論を確実に拘束するだろう。≫

≪人間は自分自身の人格でさえ「単なる手段として使用」することがある。というより、間との書き方からするに、彼は人が自分自身を油断としてのみ使用しがちな存在であると考えていた。そして、自分自身を目的とするためには、手段=目的としての他者に向き合う意志が不可欠である、と述べたのだ。そのかぎりでカントは手段を目的の下位においていない。逆に、人間のそのような存在形式が永遠的に開かれた世界を、来るべき「目的の国」と呼んだのだ。彼はゾルレンの例としてイエスの言った「あなた自身を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」という言葉を挙げている。イエスは「自分を愛するのは簡単だが他人を愛するのは難しい」と言ったのではない。今、目の前にいる「自分を愛せない他者」に向かって、「あなたが自分を愛せるようになるためには他者を愛さなければならない」と言ったのだ。そこには、本人がどう思おうが、「人は他者の力なしに自分を愛せない」というイエスの直覚がある。カントのゾルレンの核心もそれと異なるものではない。この過酷な命令に従うとき、彼らの愛がどんな残酷な光景に臨むのか。≫

[PR]

by daiouika1967 | 2011-06-08 23:19 | 日記  

<< 6月8日(水) 曇 6月6日(月) 晴 >>