6月9日(木) 曇ときどき晴

夕方、大澤信亮『神的批評』(新潮社)から、「批評と殺生 -北大路魯山人」を読む。読了。

夜。12時前、東京に行っていた妻から、高速バスが名古屋駅に着きそうとメールが入ったので、車で迎えに行く。妻を乗せ、ガストに寄り、チキンタツタを食べる。夜、マクドナルドで照り焼きバーガーを食べていたので、ちょっと食べすぎだ。1時過ぎ、家に帰り、そのままベッドに倒れこむ。夜中に腹痛で目が覚め、トイレで多量に排出する。腹痛はすぐに治ったが、念のため、ビオフェルミンを飲んで、再度ベッドに倒れこむ。

「批評と殺生 -北大路魯山人」からの引用。
≪私たちの行為はすべて、対象から触発されている。字がなければ字を書くことはない。書がなければ書を読むことはない。食物がなければ食物を食べることはない。当たり前だ。しかしこの当然の事実が、書く、読む、食べる、といった一見すると能動的な行為に没入するとき、忘れられてしまう。そこに錯覚が生まれる。それを作為が加速する。すべての価値が「人間的」なものにおかれる。そうやって私たちは「人間」であることに閉じていった。
魯山人にとって自然はそんな「人間」を打ち破る外部としてあった。たんなる観察対象ではない。自らの実践を促す動的原理として打ち込まれている。たとえば、どんなに傲岸不遜に見えても、彼の存在感覚の根幹は偶然的な受動性に貫かれている。「すべての物は天が造る。天日の下新しきものなしとはその意に外ならぬ。人はただ自然をいかに取り入れるか、天の成せるものを、人の世にいかにして活かすか、ただそれだけだ」(味覚の美と芸術の美」)。≫

≪批評とは、強烈な自我の主張でもなければ、自己を放棄した安全な客観でもない。時勢に乗じた饒舌なおしゃべりでも、一瞬で使用期限の切れる見取り図を作成することでも、論ずるに足らぬ作品を役割のように無様に紹介することでもない。閉じられた空間を偽の対立で盛り上げる見え透いた手口でも、すでに才能を枯渇させた者が目新しい話題に飛びつく延命でもない。その惨めな現実ゆえに、自分こそが戦っているのだと思い込む空想上の勝利でもなく、いくらでも書けるのに、本当に戦うべきときにこそ黙り込む鈍重な無能力でもない。過去の栄光に自縛され、そこにある現実から自分を生み直すという、批評以前の生きることの原則を忘れた悲しい老成でもない。外部から差し込む他者の光を、厳しい内省によって分析し、再び他者へと個体的に分配することだ。所有と殺生の入り乱れる交換関係の中心に、受肉した言葉として自己を差し出すこと。それが、自他の区別、主客の対立、殺生の絶対を回転させる地平を、信じて。すでに死んでいたこの体に、復活の力を送り込んだ、その人への感謝と約束において。それは放蕩と雅美の否定ではない。むしろその徹底としてある。あまりに弱い、此岸に彼岸を見なければ生きられぬほど弱い哄笑それ自身を微笑する、ただそこにあるものとして。≫

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by daiouika1967 | 2011-06-10 23:09 | 日記  

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