6月12日(日) 晴のち曇

朝。溜まっていたダンボールを車に積み、市指定の古紙回収業者のところに持っていく。帰りにドラッグストアに寄り、洗濯用洗剤やら、足りなくなった日用品を買って帰る。11時過ぎにはパソコンの前に座る。日曜はいつも、朝何となくテレビを眺め、午後は雑用をこなしているうちに夕方になってしまうのだが、朝から動くと、一日が長い。

youtubeでENOを聴きながら読書。椎根和『平凡パンチの三島由紀夫』(新潮社)を読む。著者は元『平凡パンチ』の編集者。1967年から4年間、三島が自決するまでの間の担当だった。当時の三島はメディアのスーパースターだったと著者は回顧する。その「スーパースター」としての三島の晩年数年間を、著者は、あの時代の空気のとともに、高い再現力で描き出している(『平凡パンチ』という“時代のエッジ”にあった媒体の編集者だからこその、その高い再現力)。
その時代の“空気”のある側面を、著者は、当時流行ったスーザン・ソンタグの「キャンプ」という概念を援用しつつ、こんなふうに描き出している。
≪S・ソンタグが1964年に“ひどいからいい”と書いた頃から、先進国の若者の趣味の分野では新しいダンディズムともいえる審美主義が注目を集めるようになった。もちろん、このおとなからみればとるにたらない感覚は、60年代後半のアナーキーなヒッピームーブメントに代表される意識の大変革にまで発展した。
映画『勝手にしやがれ』(1959年)のゴダールを中心とするヌーベルバーグ映画の台頭、1968年のフランスの五月革命、英国でのポップアートの発生、オスカー・ワイルドの服飾的末裔のようなエドワーディアン族の出現、労働者階級の息子達のつかのまの悪夢のようなモッズ族。三島は1967年にHEIBONパンチ・デラックス誌のために金持ちモッズ・ファッション姿を撮影させている。ロンドン・ポップ・ファッションの発祥地カーナビー・ストリートの世界的観光地化、ビートルズが国威のシンボル、ロールスロイスにサイケデリック・ペインティングして乗り回したこと。ニューヨークではアンディ・ウォーホルがただ二十四時間以上もエンパイア・ステート・ビルを移し続ける映画を製作し、公開したこと、ボブ・ディランがフォークソングにエレクトリック・ギターを使用して、ひんしゅくを買ったりしたこと。中国では十二、三歳の紅衛兵たちが、“造反有利”という四文字で政府高官たちをストリートでつるしあげ、自殺に追い込んだりした。日本では、1960年からの安保反対闘争で、日常的に三十万人以上の若者が国会のまわりをとりかこんだり、銀座中央通をうずめつくし、政治闘争でのゲバルト戦線を強化していた。三島はこのゲバルト学生たちのファッション、あたまにヘルメット、口に手ぬぐいでマスクにし、ゲバ棒を持つという姿を、“引越し姿”といって嫌悪した。
すでに存在するあらゆる分野の体制側に文句をつける、いわゆるカウンター・カルチャー運動の本質は、“ひどいからいい”と、マスメディア時代に育ったふつうの若者たちが大きな声で発現し勝手なことをやりはじめた時代だった。≫

三島由紀夫は、そんな時代のなか、反動的な言辞を弄しつつ、同時にその時代を象徴する“スーパースター”でもあるといった、アンビヴァレンツな在りようをしていた。
この時期、三島はしょっちゅう「デモ見物」に出かけていたようだ。1969年、前年までの大衆を巻き込んだ“激しく明るい”運動は、大衆から遊離した学生たちだけの閉じられた運動になりつつあった。デモ見学に同行した著者に、三島が漏らしている次のような感想は、その時代の潮目の変化を、とても明確に捉えていて興味深い。
≪「ボクがモッブのなかに入っていて、だれかひとりがミシマをぶっ殺せと言いだしたらコワイけど、きょうはみんなの焦点の定まらない、フラフラした顔をしているからコワくない。そんなことを考えるのは自信過剰かなあ。今晩実際に石を投げたりしているのは三十人ぐらいしかいないなあ。その少数で、大人数にみせかけているだけなんだ。きょうはどっちも決定的打撃を与えない戦いだ。それにしても機動隊は、ガス弾を気持ちよく打ってるネ。花火大会だよ。きょうは学生が小銃を持ちだしたり、バクダンを持ってくると思ったけど、なんにも持ち出さないネ……。フシギだネ、なんいもでてこないというのは。都市の重要機能がぜんぜんおそわれていないというのもヘンだしネ……。それにしてもデモにつきあうっていうことは、ハラがヘルなあ」≫

3時過ぎ、妻と散歩がてら、公園、参道を歩く。丼屋で適当に昼食を済まして、部屋に戻る。夕方以降はテレビを眺めて、ぼんやり過ごした。
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by daiouika1967 | 2011-06-13 22:28 | 日記  

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