6月15日(水) 晴

昼、ランチタイムに、1時間読書。石田秀実『21世紀問題群ブックス3 死のレッスン』(岩波書店)を読みはじめる。

気の思想は一元論の思想である。
一元論的な見方をすれば、生/死の区別も、気の凝集/拡散とイメージできる。
気の拡散としての死は、虚無ではなく、解放として捉えられるだろう。
気の思想において、「気を練る」という言葉があるが、これは気という一元論的な見方を、自らの実感に落とし込んでいくプロセスのことだ。
生きながら死を実感すること。
生/死が融即する境地を観想すること。

≪かつて人は死に親しんでいたが、しばしば死者の身体や霊魂を怖れた。今、私達は死者の身体に対して、それほど怖れを懐かない。霊魂にいたっては、嘲笑の対象になることすらある。にもかかわらず、私達は「死そのもの」には、いいようのない恐れを懐く。
ちょっと考えると、死者の身体や霊魂を怖れることと、死を恐れることとは、同じことのように思える。だが、両者の間には、深い谷間がある。
死そのものはすなおに受容するが、死者の身体や霊魂を怖れるのは、死について感覚に刻まれた認識があるからだ。彼らは死に親しみ、死に意味を見出している。死者の身体が怖れられ、霊魂が畏怖されるのは、彼らがそれらに意味を見出し、その生けるがごとき軌跡を敏感に感じ取っているからだ。死者ははかり知れない虚無、知られざる領域に在る者として恐れられているのではない。生者は死者を良く知っており、彼らに身体性すら見出している。ある意味では、死者は生者とともに在り、生者と交流する存在といってよい。死者が怖れられるのは、その交流ゆえである。≫

≪他者の身体を奪うことが、日常の「生きる」を成り立たせているとすれば、日常的な「生きる」限度を越えて生き続けていくためには、更なる他者の身体、他者の死が必要となるだろう。それは、日々の食としての他者の死体、といったレベルに止まらない。もっと直接に、他者の身体のさまざまな要素を、自分の身体に変容させる営みとして表れる。
壮年のまま老いもせずに、できるうならばそのままいつまでも死なずにいたい。壮年不死と仮に名づけたこの思想は、いうまでもなく「生きる」ための思想、いわば生命の思想である。自分の生命が大事というこの思想を現実のものにしていくためには、しかし多くの他者が死なねばならない。私が生きることは、他者の死の上に成り立っているのだから、これはどうしようもない現実である。
技術としての壮年不死、現代の私達の立場からいえば、「介護がいらないような身体に戻」ったり、「正常に扱われる身体に止」まり続けるための、魔法のような技術の多くは、昔も今も、他者の身体を奪い、その生の輝きを吸収するような方法を含みもっている。いわばそれは、他者の生命を、自己に接木する技術なのだ。≫

≪私が私を「私」としてとらえる時、私は私の外側から私を見ている。逆に、内側からだけ見ているのなら、「私」という名でわざわざ区別するような事象は立ち現れない。世界は、自分の身体を中心にして、ひとつらなりに見えるだろうから。
私の外側から私を見るのは、他者のまなざし、象徴的にいえば「あなた」のまなざしだ。「あなた」のまなざしで、私は私を「私」として差異化してとらえる。同様に「あなた」は、私のまなざしによって、「あなた」を「自己」として差異化するだろう。
この外側から私を見るまなざし、「あなた」のまなざしで私を見ることから、「私」と「あなた」の位置が定まる。この位置から、私は改めて「あなた」を、そして第三者や、さまざまなものを認識しはじめる。さまざまなできごとの場では、私を「私」と呼ばせる無数の「あなた」に出会う。それら数多の「あなた」と「私」の志向の交錯の中から、言葉や法、契約の神などが生まれる。無数の「あなた」との出会いの場を、そうした「神」が「支えのあなた」として守る時もあるだろう。
だが、言葉や神は、人と人、共同体と共同体の間のところでのみ生まれるわけではない。流れ広がる気の宇宙の中で、一人瞑想する私が、私を外側から見る。その時見出される「私」を、「見出したあなた」は、必ずしも社会の中の「あなた」とは限らない。私の心身それ自体も、私にとって他者でありうる。
他者として立ち現れる「私の中のあなた」は、私という境界場に集まっている気にすぎない。彼らはこの場に凝集し、私という仮象を現象させている。私という仮象自体は、彼らの散逸によって、この場からなくなる、はかない有限な存在である。
けれども私を現象させている「私の中のあなた」、凝集している期の流れは、有限ではない。集まっては散じる父子の気の群。彼らは仮象としての私を立ち現わし、瞑想する私に「根源的なあなた」として現れる。≫

≪私達が有している限りの、延長された感覚で推し量れる「無限の」気の流れを前提とする時、私達人間の内で、最もその「無限」に近いのは、老人と子供である。子供は、無限に流れうずまく気が、さまざまな契機で凝集してはじめてその姿を現わす。老人は凝集しきった私達の身体が、離散へと向かうベクトルを取った時に、その徴候を現しはじめる。
子供には、だからまだ凝集する前や、凝集途上の、無限の気の流れのうずまきが、いくばくかうごめいている。その身体は、まだ完全には凝集体になりきっておらず、その分だけ永遠の香りがする。
一方、老人は、有限の凝集体であることをやめて、無限に戻っていこうとしはじめている。その身体のいくばくかは、すでに離散を始め、永遠の気の流れと一体化しだしている。老人の身体が、永遠との関係を漂わせるのは、そのためである。≫

≪私達は、現実には、必ず何かしら病んで、調和から遠くなっている存在である。それは、気の凝集体が有限な存在として立ち現れた時点で、ある意味では定まっていたことなのだ。有限なものが、完全な調和を保っているわけがない。私達はいつも、いくばくかの偏りと、何かしらの欠損を内に抱え、凝集か離散かの過程を歩み続けている、病んだ、はかない事象として立ち現れる。≫


夜、家で、バッハを聴きながら、2時間読書。中村秀之『瓦礫の天使たち ベンヤミンから<映画>の見果てぬ夢へ』(せりか書房)を読み始める。

ベンヤミンの云う「気散じ」という“心身の態勢”について。
≪ベンヤミンにとって気散じとは、単なる散漫な気晴らしではなく、むしろ映画の断片性やショック効果に向けて「普段より緊張した意識によって」全身を開くことである。では習得されるべき受容の方法とはより具体的にはどのようなものだろうか。その手がかりは遊動が模倣の一側面であること、しかも機械の作用と結びついた模倣であることのなかに与えられている。≫

近代の「人間」を支えるパラノイアという欲望について。
≪フーコーにとってパノプティコンの被収容者は単なる監視の客体ではなく見る主体でもある。何を見るのか?監視者の現前/不在の不確実性を、である。被収容者は「自分がそこから見張られる中央部の塔の大きい人影を絶えず目にする」が「自分が確実に凝視されているかどうかをけっして知ってはならない」。ここから自発的な服従という効果が生じるとフーコーは主張する。これがベンサムの意図でないことはすでに述べたとおりである。それにしても、なぜ「視角の内面化」や自発的な服従が生じるのか。ここでのフーコーの読みは十八世紀の窃視幻想とは異なる無意識的欲望の形式に支えられているのではないか。それは系統的妄想の組み立てとそれへの固執によって特徴づけられるパラノイアである。≫
≪十九世紀は、(中略)視覚的世界の不安定化を促進した時代だった。鉄道旅行は人々にパノラマ的視覚を与えたと言われもするが、それは、つねに逃れ去る光景という前代未聞の体験でもあった。都市は視覚的表象を絶え間ない断片的衝撃として浴びせかけ、あの「近代性」の詩人はこの衝撃に揺さぶられながら新しい叙事詩を書くだろう。臨床医の眼を持つといわれた同時代の小説家はリアリズムの窃視的視点を脱中心化し、断片化し、ほとんど後の映画を予告する作品を執筆するだろう。こうした多様な線分を具体的にたどることはもはや本章の課題を越える。いずれにせよ、見ることの能動的な力が増大する一方で、眼と対象との関係は安定を取り戻すことはなくなるだろう。そのときにこそ「可視性が罠になる」のだ。視覚的無意識の領域におけるパラノイア的=パノプティコン的な主体は、フーコーが対象として論じた時期よりも後に、そのような視覚体制の変容の主要な効果(重大な結果)として成立したのではないだろうか。≫


遊歩者は、「此処ではない何処か」ではなく、まさしく「いま、ここ」を二重化する。
≪ベンヤミンにとって遊歩者の経験とは、「土地の守護霊(ゲニウス・ロキ)」との身体的な交感とも言えるような場所の記憶の感覚による喚起である。それは「追憶としての陶酔」とも言われるが、その素材となるのは、「靴の底ざわり」、「戸口の匂い」や「タイルの感触」、「アスファルトに響く足音」、「タイルの上に降り注ぐガス灯の光」などである。のみならず、そうした感覚に吸収される「ただの知識」も想起の素材となりうる。ベンヤミンはこのような経験について次のように書いている。

「空間が行商本の挿絵めいたものになる現象」こそは遊歩者の基礎的な経験である。こうした挿絵化の現象ゆえに、当該の空間においてのみ潜在的に起こったかもしれないことが、同時的に知覚できるのだ。空間は遊歩者に向かって目配せをして、さて、私の中で何が起こったと思うかね、と言うのだ。

少なくともベンヤミンにとって、遊歩の核心はここにある。「陶酔」と言い「感情移入」と言うが、それは「想像上の別の場所で、想像上の別の時に、想像上の旅」をすることであるどころか、遊歩者が身を置いているまさにその場所の現在と過去が感覚的な想起によってオーヴァー・ラップするのである。「オーヴァー・ラップ」というのは映画に引き寄せた恣意的な修辞ではない。ベンヤミン自身がこの点について「二重になった地面」という表現を用いているのである。此処ではない何処か、今ではない何時かにおける想像的な彷徨ではなく、特定の場所を歩くことと見ることのなかでまさに今ここが二重化するという経験なのだ。もちろん、自分自身の過去ではなくその場所の記憶であるかぎりそれは実際の想起ではないのだが、ぼんやりとした夢想などではなく、むしろ視覚(ヴィジョン)の果てにその場所の潜在的な過去を召喚する幻視(ヴィジョン)ともいうべき経験だろう。≫

≪遊歩者は、都市交通がいまだ高速かつ全面的ではないためにそれから外れて街路を歩くことが可能な曖昧な逸脱者だった。それに対して買い物客たちは、鉄道の旅行者が高速で飛び去る風景に直面するように、加速化した商品流通のただなかで自らもその流れに巻き込まれつつ商品と向き合う従順な身体なのだ。その「知覚のパターン」は、まさにシヴェルブシュの意味での「パノラマ的知覚」というまったく新しい形態の知覚である。このような条件のもとでは、かつての遊歩者は街路から私秘的な内部へと引きこもらざるをえなくなり、ユイスマンスのように、あるいはプルーストのように、そこで芸術作品との結びつきだけを強めていくことになる。他方で、都市の交通すなわち商品流通から外れているという明白な逸脱性を刻印されて、いやおうなく街路に取り残される人々もいる。それは浮浪者である。(中略)
社会的カテゴリーとしての遊歩者はこのようにして消えてゆく。もし遊歩者の「知覚のパターン」を何かが継承するとすれば、それはフリードバーグの言うような女性買物客ではないのはもちろん、いかなる生身の人間でさえもなく、芸術上の「方法」や社会理論上の「理念型」のようなものであった。≫

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by daiouika1967 | 2011-06-17 22:47 | 日記  

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