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6月23日(木) 曇

暑気にやられて電車で意識が遠のく。うつらうつらとまどろむ。いい気分だ。訪問先の担当者が若い女の子で楽しかった。穏かな気分。
夕方、雑賀恵子『空腹について』(青土社)を読み継ぐ。読了。

≪つまり、こういうことだろう。わたしたち、の<わたし>というのは外部にぴっちりと貼り付いて生きているように思っているけれども、そうではない。その意識された<わたし>ではなく、身体としての丸ごとの<自己>は、<わたし>が意識するよりもはるかに多くの情報をピックアップして動いているのである。そして、入力された情報を処理しながら身体としての丸ごとの<自己>は運動しているのだけれども、<わたし>は<わたし>が意志決定をして身体としての<わたし>を運動させている、<わたし>は身体丸ごとの<わたし>である、と思いこんでいる。≫

≪日稼ぎの人間にとって、家賃は大きな負担で、月極であっても概して実際は日掛けで集められている。四畳半に二畳の小座敷があるようなのは上等の部類で、日掛け四銭、これは稀である。長屋で畳三枚、露天で膳椀を洗い、厠は共同、仕切りと言っても天幕のようなのが日掛けニ、三銭、さらに月四、五十銭くらいのものもある。日掛け三銭以上になると負担が大きく、襤褸師と屑屋、縁日小細工人は呼び売り商人と、日雇い稼ぎは車夫土方というふうに同業が呼び集まって同居している。一ヶ月十円の収益を得るものは五円が飲食費関連、残りで住居、被服、寝具、什器、履物、その他の日用諸雑品の費用でぎりぎりに生活しており、全くの余裕がなく、不慮の出費が必要になると対処のしようがない。大半はこれ以下の生活だが、車夫は一日の労銀三十銭で豊かな部類に入る。ただ、営業諸経費が日に十銭以上になるので、体力のある成年男子であれば二十二、三銭を得る土方日雇い人と結局のところ変わらない。≫
≪車夫たちが食べるものは、松原の筆によると尋常人の目には不思議に映るものである。丸三蕎麦とは、小麦の二番粉と蕎麦の三番粉を混ぜた粗製のもので、擂鉢型の丼の山のように盛り出して、一銭五厘。深川飯はバカ貝のの剥き身に葱を刻み入れて似たものを丼に盛った白飯にかけたもので、やはり一銭五厘だが、尋常のひとには磯臭くて食べられた者ではない。馬肉飯は、深川飯と同じ調理法で、種は馬肉の骨付きをこそげ落としたものであり、一杯一銭、脂の匂いが強く鼻を突いて食べられたものではないが、労働者は三四杯をかき込む。煮込みは労働者の滋養食で、屠牛場の臓腑、肝、膀胱、舌筋などを買い出して細かく切ったものを串刺しにして、醤油と味噌を混ぜた汁で煮込んだもの。一串ニ厘で、嗜み食うものは立ちながら二十串を平らげたが、生臭さが鼻の辺りまで漂い、味も異様でとても常人の口にするものではない。さらに、その調理法は不潔な汁に血液を混ぜて煮出したもので、籠城で飢えた兵士が人肉を屠り煮ているように見えてしまう。≫

≪貧困を語るとき、なによりもまず節制を保たなければいけないことは、それが抽象物ではなく、個別具体性を伴ったものであるということである。
あらゆる人間の営為は、物質の動きによって表現される。
たとえば、愛。触れ合う唇の湿り具合。絡み合う指の温度。鼓動の響き。肌の触感。あどけない笑顔からこぼれる生えかけの小さな歯。抱いたときの心地よい重み。日向くさい頬に透ける血管。留守電話に残された「お休み、いい夢を」という囁きを反芻するせつなさ。熱で苦しんでいると、ひたとも動かず凝っと見守り、時々冷たい手の肉球を唇や頬にあててくれて鼻先を近づけそっと嘗める猫の潤んだ瞳。
そういうものの積み重ねであり、個別の他者の持つ個別の記憶に支えられている。
たとえば、傷つくということ。直接受ける暴力。ひき倒され、声も出ないほどこわばった喉。皮膚を破って侵入してくる異物。信頼を預けていた人からの思いも掛けない裏切りの発覚。人前での侮辱。確かに視線は私の姿を捉えているのに、微かな筋肉の動きさえ認められない、冷ややかな無視。手酷い失恋。欺瞞。喪失。こびりついて消えない映像。
なにかが誰かに為すこと。すべては、個別の顔を持った他者とのやりとりであり、現象としてたち現れる。
ただ貧困と表象される状態も、その状態におかれていると描写されるところでは、固有の人間たちが、固有の生をそれぞれの場所で生きているのである。
朝目覚め、なにかを口にし、あるいは口に出来ない。排泄し、あるいは必要な栄養分まで消化できないまま垂れ流す。労働する、あるいは、労働の機会を奪われている。寒さや雨風、照りつける熱射を耐え、あるいは耐え得るだけの覆いを持たずに眠る。どのようなものであれ、日常行為を積み重ねつつ、ひとは孤独に死んでゆく。どれだけ統計数字の中に埋葬されようとも、数字を構成する何百万分かの一、何千万かの一は、それぞれの顔を持ち、ものを食べ、服を着、他者と交流し、笑い、怒り、涙を流し、死ぬその瞬間まで生きている何百万かの一なのである。≫

≪五~六十億人のその中で、ホームレス一億数千万人、飢餓状態にいる人八億数千万人、井戸や水道設備が整っておらず安全な水がのめない人十三億人。二千二十五年には、水不足の人口は十八億人、さらに世界人口の三分の二は日常生活に支障をきたす水ストレス下におかれる、という予想がある。絶対的貧困層は、十億人と言われている。生存に必要な最低限の衣食住を確保し得るだけの現金・現物収入を得られない層を絶対的貧困層というが、その中の三分の二は十五歳以下であり、貧困世帯の三分の一は五歳未満で死亡する。世界全体で下痢による脱水症状で一日に約七千人の乳幼児が死亡している。毎日、二万四千人が飢餓や貧困が原因で死亡している、といわれる。これは、三・六秒に一人の割合。
全世界で労働するこどもは約二億数千万人と見積もられている。労働の内容には、農園や鉱山での過酷な肉体労働はもとより、兵士、売春(男女にかかわらず)、ゴミ拾い、もの乞い、掏りやかっぱらいなども含まれる。一日の収入が五十セント(約六十円)未満の人は、一億六千万余。一ドル以下の人は十二億人以上。≫

≪重要なのは抽象化された大問題ではなく、それぞれの個人がいまここに在るということであり、どの個人(たち)と共に立つかということである。sympathy Midleidとは他者の不快や苦しみを共にする、つまり共苦することを根源的に意味している。もとより他者の苦しみや不快そのものを請け負い、理解することは不可能である。
では、いかなる手段において?
わたしはわたしの不快や苦痛を身体を通して感じる。この不快や苦痛がいかなるものかを知ること。ためらい戸惑いつつ、言語化し、すでに記述された言語を分節化し、ときほぐし、異化し撹乱していくこと。
慎ましくも必要とされるのは道徳(モラル)ではなく個人の倫理(エチック)である。正義の軸を設定し神殿に納めそれに拝脆して異教審問の過程で排除項を生み出していくのではなく、不快さを不快であると叫び続けること。システム内に繋留された倫理=道徳から身を引き剥がし、個人の身体感覚から不快を問い続ける倫理(エチック)から想像を他者に投げかけること。
そうしたエロスの投網によって他者の苦痛を新しく見いだす営みを持続させること。
それが知るということである。
他者を理解することはできない。しかし……他者を理解しようとするその試みこそが、人間の営為なのである。≫

≪コイノニア。
分け前にあずかり、共に在ること。交わり。
しかし、このことばの動詞形コイノーは、共有する、という意味のほかに、汚す、汚れるという意味をも含んでいる。
身体をもった人間の、たしかにそれは、物質として在るのだから、他者と交差し、交通し、干渉し、衝突し、そのなかで、変形し、傷つき、汚れ、汚れに塗れ、ほかならぬこのわたしとひとしく、ほかならぬこのものとしてたちあらわれてくる他者の、剥き出しにされた絶対の他者性に凍りつきながら、ときには他者が存在するということそのものの脅迫に後じさりし、ときにはなにをするか理解できるはずもない他者のなにひとつも信頼できないまま、立ち竦み、怯え、あるいは踏み出し、賭けようともし、ただ生きる、呼吸を止めることなく、生きる意志、ここに生の場所を確保すること、そのことは、絶対の他者と共に在ることであり、共に在らねばなしえないことであり、選択し、判断し、行為するなかから、いま、ここに、生きる場所に、それぞれの行為のやりとり、往還運動から、泡立ち、生起してくる、生きる仕方、共に生きる仕方。
分け前。
それは、ほかならぬこのわたしたちの生から、生きようとする意志のなかから、共に生きる仕方から、迸る恩寵、悦ばしさ、なのである。≫

by daiouika1967 | 2011-06-24 22:53 | 日記  

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