6月25日(土) 晴

午前中、大谷純『摂食障害病棟』(作品社)を読む。3時間読み耽り読了する。著者は心身医学者。著者のことは知らなかったが、植島啓司の推薦文に惹かれて読んだ。後書きを読むと、著者は大学で植島啓司の同僚であったということだ。

午後、福田和也『現代人は救われ得るか ―平成の思想と文芸』(新潮社)を読む。4時間で読了する。扱われている作家は野村秋介、村上春樹、舞城王太郎、佐藤友哉、保坂和志、島田雅彦、長島有、堀江敏幸、川上弘美、江國香織。

≪さまざまな他者との接触、親交、対立などをつうじて、人格なり見識なりを育んでいけるような「社会」などというものは、もはや、存在しないのかもしれない。すくなくとも一部の人々にとっては。それはただ、社会的訓練が出来ていないなどと非難される若い人たちだけのことではないだろう。市場とネットワークに適応し、分かりやすい成果を追求する人々にとっても社会などないのかもしれない。いわゆる経済小説のたぐいに、市場の幻影以外には人らしい人が出てこないことを考えれば、舞城作品は、むしろ「社会」の不在を忠実に表現しているともいえる。
すくなくとも舞城王太郎は、自作の幼児性については、意識的である。それはいわば作り込まれた幼児性であり、成熟の不可能性を認識するはるか以前、ただ子供として癒され、慰められ、満足させて貰うことを求めている、そういった欲望しか抱きえない存在として「俺」は造形されている。しかしまた、同時に「俺」は、それが安っぽくなさけないことだということを熟知している。≫

≪いかに独自な議論であっても、大声で発せられ市場で売られるのであれば、結局「正しい」ものでしかない。万人の正義でしかない。哀しいかな文芸は、万人の正義の側にではなく、ひとりぼっちの消沈にしかないだろう。「道徳」は、日とを元気にさせ、人を興奮させるが、「いい加減で、無責任」であることは、呆れられ、馬鹿にされるのみだ。けれども、非常時において「いい加減で、無責任」であった作家たちによってこそ、戦後文学が可能であったことを私たちは知悉しているはずではなかったのか。戦前において、ちゃらんぽらんであるということは、ただ時流との距離からだけで計られているのではないだろう。必然でなく、選択でもない、使命としての無責任こそがかけがえがない。≫

≪堀江作品の登場人物たちは、先見的に魅入られている。音に、響きに、直接的でありまた微妙にして深淵なトーンとニュアンスに憑かれている。けれど、その追求と固着について、人物の人格なり、境遇なり、背景なり、人生といったものは何の関係もない。ただ、「彼」は、そういう存在なのだ。≫
≪たしかに堀江作品の、静かで穏かで注意深い人たちは、みな市井で生活する者として描かれている。けれども、本質的に「趣味」に、響きと彩りのなかに生きている彼らの家計簿は、どうしたって黒字には見えない。「趣味」を追求するためには、もとより生計の杖とはなり様のないものを背負うにあたっての、悪戦苦闘なり、屈託なりがあるはずだが、そうしたバランスシートは、堀江作品のなかからは排除されている。というよりも一顧だにされていない。≫
≪堀江敏幸を、その非人間的な審美主義において、平成の川端康成と規定した。だが「仏界易入、魔界難入」と語った川端が、市民社会どころか人間たちの世界からもはみ出していたのに対して、堀江はあきらかに市民社会のなかにいる。ある視覚から見れば、堀江は魔界のものであった審美主義を市民のものにしたともいえるだろう。堀江作品は、穏健な生活をする読書好きの人々に強く支持されている。だが、人間的感情にほとんど関心をもたない審美主義に根ざす堀江作品の甘美さは、それほど安全なものなのだろうか。むしろそれは善良な人々の、自らを善良と思い、他人からも善良と思われている人々の、温度が低いがゆえに根強く、意識すらされないがゆえに際限のない、邪悪さを肯定している。≫

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by daiouika1967 | 2011-06-27 00:14 | 日記  

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