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3月7日(金) 晴

目覚めると11時を過ぎていた。あまり熟睡した感じがしないのは、明け方何度かPに起こされたせいだろう。5時過ぎ、枕元でニャアニャア鳴いている。それで目覚めると、部屋にウンコの匂いが漂っていた。トイレットペーパーでウンコを包み、トイレに捨て、ウェットティッシュでPの尻を拭いてやる。寒かったので、すぐにベッドに戻った。次に8時過ぎ、枕元でニャアニャア鳴いている。無視していると、布団の上に跳び乗ってきた。グフッとなって100%覚醒してしまった。餌の催促である。仕方なく起き出して、キャロットの封を開け、皿に移し、スプーンで細かく砕いてやる。その作業をしているあいだ、Pは足元でちょこんと座って、まだ?もうすぐ?まだ?、と小さくニャッ、ニャッ、と声を漏らしている。

おれはアルコールに弱いので、酩酊するまで飲むと、翌日、軽い二日酔いになる。今日は、終日、フワフワした浮遊感を感じて過ごした。
朝食に卵かけご飯、焼き海苔、塩昆布、レトルトの里芋の煮付を食べて、12時過ぎまで、日記をつけ、サイトを周回して過ごした。
それから、家を出る前に、昨日の夜中録画しておいた『墓場鬼太郎』を見た。

午後。名駅の喫茶店で、大谷昭宏・宮崎学『法か、掟か ―『私』を『国家』に委託しない生き方』(ゴマ文庫)を読んだ。
宮崎学は、「」とそれを定めた国家を、基本的に「悪」と規定している。
とりわけ日本という国家は、官僚による官僚のための国家であり、したがって日本国家の法も、官僚階級にとって、自らの権益が保護されるべく作られているものであるにすぎない。
いわば、われわれとは無関係の人間の「正義」のために、法は作られ、運用されているのである。
宮崎学は、そんな法=国家に対抗するオルタナティブな法として、われわれにはわれわれが生きている現場で、自然と生まれてこざるを得ない強い感情をともなった「」というものがあると語る。
―「僕は紛争解決のための暴力は否定しません。私利私欲ではなく、正当防衛のために暴力をふるう権利は、個人が生きていくうえで当然有している自然権だと思っているからです。
恋人とデートしているときに襲われ、恋人が傷つけられそうになったら、僕は躊躇なく暴力に訴えるし、場合によっては相手の命を奪うでしょう。
そうすれば、僕は逮捕され法の裁きを受けるだろうし、そのほかにもいまもっている多くのものを失い、社会的にも抹殺されるのは間違いありません。
それでも、僕はそこで最愛の恋人を自分の手で守ります。その場では、僕が自分の手で守るしかないからです。
そこで、自分は平和主義者だから、殴られるのが嫌だからと恋人を見殺しにして、あとで国家権力に、犯人を捕まえてくれ、どうか死刑にしてくださいと泣きつくような人間を、僕は心底軽蔑します。
僕の掟でいうなら、そういう人間こそが、最大の悪人なのです」。

喫茶店を移動し、大庭萱朗編『田中小実昌エッセイ・コレクション1 ―ひと』(ちくま文庫)を読み始めた。190ページまで読んだ。
夕方、クライアントのところに行き、ひとつ15分程度の簡単な打合せを済ませる。帰りにマックスバリュに寄り、春巻きとまぐろの刺身、蕪の漬物を買って帰った。今日の夕飯である。

夜は、疲れていて何もする気にならなかった。DVDでスケッチショウのライブ映像を観て、というか、半ば眠りながら聴いて、1時半頃、ベッドへ。

by daiouika1967 | 2008-03-08 10:33 | 日記  

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