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5月20日(火) 晴

雨は一晩降り続き朝には止んでいた。今日は6時前からPの「餌~」が始まる。半覚半睡のまま、手で押しやったりしつつ抗いつづけるが、今日はPも執拗だった。けっきょく7時前には完全に目覚めてしまう。Pに餌をやり、そのまま起床。シャワーを浴び、卵かけご飯とサラダを食べ、パソコンを立ち上げ、日記つけ、ネットの周回。妻はずっと眠っている。10時前にはベッドのなかの寝ぼけた顔の妻に、「出るよ~」と告げて、家を出た。<三省堂>に寄り、植島啓治の新刊『賭ける魂』(講談社現代新書)が出ているのを発見。いそいそと購入する。喫茶店でさっそく読んだ。1時前に読み了え、今度は中村雄二郎『精神のフーガ -音楽の相のもとに』(小学館)を読む。5時過ぎまでかかって読了した。<マックスバリュ>に寄り、食材を買って帰り、夕食は買ってきたお惣菜(鶏のからあげ、マカロニサラダ、パン、おにぎり)で済ます。やはり味気ない。夜、テレビを眺めつつ、松井孝典・南伸坊『「科学的」って何だ!』(ちくまプリマー新書)を読む。12時過ぎ、読了。ミロクを聴きながら、1時過ぎ、就寝する。

植島啓治『賭ける魂』からの引用・メモ。

《人間が下す決断も、熟慮も、ためらいも、誤解も、すべて前もって決められていたことなのかもしれない。そもそも人間というのは何かと結びついて生きているという実感なしには幸せになれないものである。われわれは宇宙のなかにぽつんとおかれた孤独な存在とは思いたくないのだ。では、われわれは運命とかいう外部の大きなシステムの単なる一部分に過ぎないのだろうか。いや、そういうわけでもない。人間を包み込んでいる宇宙は、それ自身、個々の相互作用の蓄積によって大きく変化し続けてもいるのである。
現在、われわれが求めているのは「外部のシステムに当たるものをわれわれの社会内部にどういう形で取り込むことができるか」という問題である。コンピュータにおけるランダム回路みたいなものだが、それを人間の精神や社会に置き換えるのはそう簡単なことではない。われわれが偶然とかリスクとかカオスとか運命とか呼ぶものをいかにして理解可能な枠組みへと還元できるか。それこそ賭博者の抱える最終的な問題と同一なのである。》

人間もその一部であるような「外部の大きなシステム」を、人間はどのように“把捉”しうるのか。「偶然」=「リスク」=「カオス」=「運命」に、人間はどのように“対処”しうるのか。
植島は、「コンピュータにおけるランダム回路みたいなもの」を、自らのうちに組み込むことが必要だ、と云う。
それは、どのようなものか。
ギャンブルで一番強いのは、けっして自分の型をもたない人間であろう。自分でもわけがわからないまま攻めるというのがよい。しかし、これがなかなかできそうでできない。途中でわれにかえったりしてはいけない。何をやっているのかハッと気づいたときには、相手を一撃でしとめていなければならない。それが理想の攻め筋だ。
人間は心に何か意図したら、同時に、そこにスキが生まれる。どんなに完全な計画も、人間が作ったというだけで、どこかしら攻略可能な点が生じてしまうのだ。何も意図せず相手を倒す、そのためには、その人自身、他人に理解不能な生き方をしていなければならない。》
《相手に自分の心を読まれないだけではなく、自分自身にもわからないように行動しつつ、敵を倒すというパラドクシカルな戦略には、やはり高度な知性が必要となってくる。人間は何も考えないではいられないから、心に浮かぶ事柄をそのまま受け容れ、しかも同時に排除する。考えつつ、その考えを否定する。Aを目指しながらBへとたどり着く。果たしてそんなことが可能だろうか。世に氾濫する必勝法の類がいかがわしいのは、そうしたアポリアをパスしてしまうからである。論理を積み上げて勝てるような賭けはこの世には存在しないのである。》

「心に浮かぶ事柄をそのまま受け容れ、しかも同時に排除する」という身の保ち方をしなければならない。
自分をつねに、ニュートラルな位置に置かなければならない。
だがしかし、自分は自分であることにおいて、すでにニュートラルではありえない存在でもある。「自分」は、景色を見えなくする、もっとも大きな阻害要因なのだ。
そうであるなら、やはり、自分が自分のまま、賭けに勝てると思っては間違う。
自分をニュートラルな位置に置くためには、自分を二重化しなければならない。
《かつてぼくもNHKの番組で桜井章一さんと一度対談したことがある。そこで、桜井さんは、「勝とうと思う人は勝とうと思うばかりに負ける、負けそうだと思う人は負けに怯えるばかりに負ける」というような話をしてくれた。「ちょうど真ん中にいると、両方が負けてくれるから勝てるんです」。》

賭けにおいては、自分で考える“作為”は、ことごとく裏切られる。
自分に囚われていては、けっきょく、自分自身に翻弄されるだけだ。
自分を脱しなければならないのだが、それは、どのようにして為されるのか。
《意外に聞こえるかもしれないが、ギャンブルでもっとも大切なことは「信じる」ということだ。
ギャンブルでは何事でもそうなのだが、あることを信じると、別の思ってもみないことがすぐに起こる。そして、それに対抗できる別のシステムを考えると、またそのシステムから漏れるような結果が出てくる。つまり、いつまで経っても、事態はよくならない。何かを信じても必ず負けるわけだから、では何も考えないで掛けた方がいいのだろうか?
一生懸命に必勝法を考えても、なにも考えない人間と似たような結果しか出ないとすると、だれでも必死に考えるのがイヤになってくる。適当に楽しくやれればそれで十分ではないか。ギャンブルでは胴元がいるかぎり、他に勝者など出てくるはずがない。次第にそんな気になってくる。
しかし、ここが重要なところなのだが、何かを信じても勝てるとは限らないが、何かを信じないで賭ける人間はほぼ百パーセント負けてしまうのである。ギャンブルでは、とにかく何かを信じて突き進むと、自分でも想像外のことがいくらでも起こりうるのだ。
「何かを信じる」とは、最終的には、自分以外の何かの力に頼る、ということである。
人間は何か自分以外の別の力にすがらないとけっして勝つことができない。同じく、それを放棄したら必ず負けてしまうのだ。ギャンブルにおける心理はそんなところにひそんでいる。》

●上記に関連して、中村雄二郎『精神のフーガ -音楽の相のもとに』からの引用。

《ドゥルーズ&ガタリのロトルネッロ論においてとくに注目に値するのは、カオスと環境とリズムの関係を明らかにしていることである。彼らによれば、環境はどれも、その成分の周期的な反復によって構成される時間・空間的なブロックとして振動する。そういうものとして、複数の環境は相互に移行し、また通じ合っている。そして、環境はカオスのなかで開かれているから、カオスによって脅かされもするが、それに対して環境によって反撃がなされるのであり、それが秩序を持った<リズム>なのである。
カオスもリズムも二つの環境の間にあるが、カオスとリズムの中間領域たる<カオスモス>は、たとえば夜と朝との間、犬と狼の間(たそがれ時)、などに見られる。そして、そのような一つの環境から異質なもうひとつの環境の移行のうちにリズムが生じるのである。さらにそのリズムは、表現性を持つようになるとき、そこに領土(テリトリー)が生まれる。多くの鳥は単に名演奏家であるだけでなく芸術家であり、なによりもテリトリーを標示する歌をうたうからこそ芸術家なのだ、と述べたメシアンは正しい。》

松井孝典・南伸坊『「科学的」って何だ!』からの引用。

《この宇宙の知的生命体は、われわれも彼ら(宇宙人)も、知の体系は似ているはずなんです。どうしてかというと、知とは何ぞやと言えば、この宇宙や地球や生命を観測し、自然という古文書を読み解くということです。それが知の体系ということにほかなりませんから、この宇宙に存在する知的生命体は共通の古文書を読み解いているという意味で、共通の知の体系を持っているはずです。しかも文明が進むと文明のパラドクスに直面するから、その解読も長期にわたって続けることはできない。
宇宙に始まりがあるということは、われわれも含めてこの宇宙のすべてが、その歴史の中でつくられたということです。すなわち、われわれが自然と呼ぶものは、宇宙の歴史を記録した古文書なのです。》

by daiouika1967 | 2008-05-22 10:20 | 日記  

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