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5月22日(木) 晴

8時過ぎに起床する。ソファーのため、眠りの質は良くない。夜中から明け方にかけて何度か目を覚ました記憶と、夢の記憶とが、曖昧に混濁している。パソコンを立ち上げ、日記をつけ、ネットを周り、朝食はパンとインスタントスープ。11時過ぎ、家を出た。喫茶店で、昨日読んだ『季節の記憶』の続編、保坂和志『もうひとつの季節』(中公文庫)を読む。<ジュンク堂>で平岡篤頼『記号の霙 ―井伏鱒二から小沼丹まで』(早稲田文学会)を購入。喫茶店で読み、読了。論じられる作家は、井伏鱒二、森敦、武田泰淳、小島信夫、吉行淳之介、阿部公房、小沼丹。夕食は妻が拵えたマカロニサラダ、小松菜と舞茸の炒め物。妻はまだちょっと暗いが昨日よりはマシな感じになっている。夜、DVDで市村昆監督『犬神家の一族』。「前作とほとんど同じリメイク」と話題になった作品である。つまらなくはないが、なんだか昔の二時間サスペンスを観ているような感じがした。ある意味、懐かしいというか。12時過ぎにベッドに入った。どうも寝つきが悪い。ミロクを聴きながら、1時前には眠っていたか。

目に見えない境界と、その境界を越えるという経験、越境のことを考える。
例えば、ルイス・ブニュエルや、川端康成のように、「あたかもそこに境界など存在しないかのように」振舞うには、どんな精神的な姿勢が要請されるのだろうか。……


壁がある。その壁は、《こわそうとしてもこわすことのできない壁なのである。というか、ひとつの壁をこわしたと思うと、その時にはすでにもうひとつの壁がその向こうに現われているといった種類の壁である。すなわち幻の壁であるが、だからといって、それが壁となってわれわれの行手を遮ることに変わりはない。それは私と他者、見る私と感じる私、書く私と存在する私、生と死等を隔てる壁である。いちばん危険なのは、まさにその壁をこわしたと思ったその時なのである。理想的なのは、壁をそのままの状態にして幽霊のように通り抜け、壁の向こう側にもこちら側にも同時にいることである。だが、それに成功したと思ったその時にも、はやくも壁はこちらの背後にまわって、その向こうを見えなくしてしまう。

「いちばん危険なのは、まさにその壁をこわしたと思ったその時なのである」というくだりは、しっかり銘記しておかねばならない。
「壁をそのままの状態にして幽霊のように通り抜け」ること、自らを二重化して、「壁の向こう側にもこちら側にも同時にいる」ような在りようをすること。
そのためには、壁の材料となっている言語を、一般的な用法からズラし、ズラしつづけなければならないだろう。
ただし、「ズラしつづける」というスタイルがスタイルとして固着してしまえば、そこからもまた逃れなければならないわけだが、ともあれ、それは、実際にどのようなテキストとして実現してきたのだろうか。
言語にとってはつねにA=Aであり、A≠非Aなのである。A=非Aを可能にする言語は果たして存在するだろうか。それが今日、洋の東西を問わず、形骸化したリアリズムの桎梏を断ち切ろうとする作家たちが、おのれに問うている最大の課題であろうが、森敦がそこにひとつの風穴をあけたような印象を受けるのは何故だろうか。
それは彼が、一語単位で勝負をせず、文の構成や記述の順序やストーリーの展開、かりにそれをひっくるめて<構造>というとすれば、作品の構造によって勝負しているからであるに違いない。一語でAと非Aとを表すことはできない。だが、<Aは非Aである>(<現実は夢である><現在は過去である><ここは彼方である><生は死>等等)と執拗に、だがそれとなく、不断に繰り返すことによって、Aは少なくとも完全にAではあり得なくなる。

一般的な用法を離れて、テキストを言語表現の自律的な運動のもとに解放することが、必要になる。
例えば、後藤明生の次のような文章を、平岡は引用する。
《舌切り雀のおじいさんやおばあさんはどうしたかな、あそこに行こう、とぼくが言うと、舌切り雀のおじいさんやおばあさん?舌切り雀のおじいさんやおばあさんはもう亡くなったのよ。惜しいことをしたわね。いまなら、なんとでもして上げられたのにね、と母が笑った。でもあれはあれで、お仕合わせだったのよ、といった気持ちが、母の表情から読み取れた。ところが、弟が横から口を出した。うん、惜しいことをした。いまなら、なんとでもしてあげられる。》
そして、この文章に頻出するくどくどしい「繰り返し」こそが、テクストを現実の次元から解放し、言語が自己増殖する磁場を創出する効果を持っている、と論じる。
《通常はこういう語り口はくどさとみなされ、実際、後藤明生がその独創性を高く評価されながらも、しばしば批判されるのもその点なのである。だが、単なる不注意からではなくて意図してこのような機械的反復が繰り返されるということは、それなくしては実現できないある積極的な態度決定、ある文学観の具象化が目指されていることを示すのであり、それを図式化すれば次のようになろう。すなわち、母親の側の「舌切り雀のおじいさんやおばあさん?舌切り雀のおじいさんやおばあさんはもう亡くなったのよ」の代わりに、単純に「あの方たちは……」とあれば、母親の科白は既存の<現実>の記述となるのにたいして、上の引用文では、「舌切り雀のおじいさんやおばあさん」の二度の反復が「もう亡くなったのよ」という記述を生み出し、したがってテクストは<現実>の記録という役割を離れて、言語表現のレベルで勝手に自己増殖するテクストとなる。(中略)
既存の意味を伝達するのではなく、新しい意味を自力で紡ぎだすことがテクストの役割となる。》

日常言語から解かれた、自律するテクストの創造。ただし、ここでも、「文学という制度」に囚われないよう、気をつけなければならない。
例えば小島信夫は、その制度から逃れるための方法として、「反完璧主義」を実践する。ある一定以上の速度をもって書き、ほとんど推敲もしない。その結果、文章のリズムは悪くなるが(いわゆる「悪文」になるが)、しかし、《既成の小説の形式の罠に陥るまいとすれば、多少の犠牲は仕方がない》のである。
《小説が文学芸術の一部門である以上、小説のなかの言葉も日常言語とは違って、芸の要素を持たねばならぬことは明らかだが、それだけに文章に凝るということは、ほとんど必然的に、今までの諸説言語を練りあげてきた小説形式の罠(=様式)に陥ることになるのではないか。そこにあらわに嗅ぎとれる芸術性という神話、「ああ、あれはだめです」という評言に端的ににじみ出す、我こそは美の女神の祭司である、芸術家であるという自負、人生の落伍者を描いて名を成したはずなのに、自分は他人と違うという劣等感がいつのまにか優越感に転化して、文学や文化の将来を憂えるのが自分の責任だとまで思いこませる不思議が、まさにこの作家(小島信夫のこと)には不思議と映っているのではないかと思う。》

by daiouika1967 | 2008-05-23 09:34 | 日記  

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