5月24日(土) 曇のち雨

8時過ぎに起床。パソコンで日記つけ、ネットの周回、仕事を済ませ、朝食は一昨日の残りのマカロニサラダと黒糖パンを食べた。9時半頃、家を出る。空は曇っている。今日は午後から雨になるということだったので折りたたみの傘を鞄に入れておいた。名駅の喫茶店で小島信夫『現代文学の進退』(河出書房新社)の続きを読み継ぐ。昼は栄町ビルの定食屋でランチミーティング。Z君と待ち合わせる。ミックスカツ定食(サーモン、ヒレ、エビ)を食べながら話をした。午後も『現代文学の進退』を読み継ぐ。350ページまで読んだところで集中力が切れる。小島信夫の文章は、ひとつの筋に沿って流れてはおらず、文章と文章の間、段落と段落の間に、唐突な感じのする断絶というか飛躍があって、しかししばらく読み進んでいくと、その文章が全体でたしかにひとつの意味をもったまとまりであることに気づき、場合によってはすこし後戻りして読み直したりしながら進むことになり、独特の集中力をもたなければ読めない文章なのである。読むのを中断し、<丸善>に歩く。午後から雨が降り出して、雨足はそんなに強くはならなかったが、地下街にもぐるとムンッと蒸し暑い。歩いていると、首や頭に、いやな感じの汗が滲んでくる。<丸善>では多羽田敏夫『滅亡を超えて -田中小実昌・武田泰淳・深沢七郎』(作品社)、東浩紀+桜坂洋『キャラクターズ』(新潮社)を買った。地下街を久屋大通まで歩き、喫茶店で風俗嬢の面接代行を一件済ませ、『滅亡を超えて -田中小実昌・武田泰淳・深沢七郎』を読み始める。田中小実昌と武田泰淳の章を読み終える。店に行き、カメラと商品撮影用の組み立て式簡易スタジオを借りて、地下鉄で上前津の事務所へ。カメラとスタジオを濡らさないよう気をつけて運んだ。事務所でオンラインショップで扱う商品を撮影して、K君と近くの喫茶店でカツ定食を食べながら、漠然と今後の仕事の打ち合わせをする。地下鉄で店まで引き返し、カメラとスタジオを返して、店からは歩いて帰った。今日は結果的によく歩いた。万歩計を見ると一万六千歩も歩いている。普段の倍だ。それに蒸し暑くてなんだか一日中汗をかいていたような気がする。すっかり消耗してしまった。夜は、DVDで映画を一本観た。『フィーメイル』というオムニバスの日本映画。予備知識まったくなしで観たのだが、意外に面白い。いや、かなり面白い話もあった。一本終わるたびにクレジットが流れるのだが、監督を見るとなかなか素晴らしいラインナップで、篠原哲夫、廣木隆一、松尾スズキ、西川美和、塚本晋也という名前が確認でき、そのたびに、なるほど、と思う。とりわけ、やはり廣木隆一が監督した2話目が飛びぬけてよかった。1時前、就寝した。

小島信夫『現代文学の進退』からの引用(ただ、小島信夫の文章は、ある断片が別の離れたところにある断片と共鳴し、それでひとつの体を成すといった文章なので、一部分を引用してもあまり意味がなく、また、「ひとつの体を成す」といってもそれは「ひとつのはっきりした意味に収斂する」ということではなく、だから全体を要約するということもまた難しいというか不可能なのだが)。

《自分の声は、時々よくきこえた。誰よりも自分の耳に、といってもよい。私どもは弱弱しい声を出して、世界をうつし出すことが出来ると思った。そして私はみずからを視点にしようと思った。そもそもみずからを視点にしようと思うべきでなく、みずからが視点にならざるを得ないところに、視点たるの意味があった。ところが、視点となることによって、視点たらざるを得ない意味の方が失われる。視点など仮のものだが、仮のものでないと思うとき、視点の意味が失われてしまい、このとき堕落がはじまる。堕落したときには、切実な声がきこえず、言いがかりの文句だけがきこえる。いつのまにか、その文句は世間一般の文句と近接し、世間ともども文句はいっぱいあるが、そんなものは小説世界を貧しくするだけのことである。どこで同じ車に乗り合わせてしまったのか。気がついたとき、作家も会社員も、学生もたぶん政治家さえも、自分の主張に自信を失い、あわてて仲間を求めはじめたようである。》
※どんな思考が世界を貧しくし(「文句を言う」というような、仲間への目配せをするような思考)、どんな思考が世界を豊かにするのか(思考=自己解体の意志の地点に立ち上がる思考)?

《一つの立派な新しい作品が出たということは、次にはその新しさに自分さえもついて行けない、というのは、小説の新しさの意味だし、とくに昨今はそうである。世の中とのかかわりあいと人間そのものの存在の仕方が、一層デタラメで、そのデタラメさが次の作品の中で見すえられて何らかの形で一つの要素となって来なければ、忽ち通俗化するし、次の新しいものに現れるはずがないからである。現代文学に巣食っている不安はそうしたものである。私が新しいというのは、ほんとうに新しいということで、私は新しさというものを、そんなふうに厳密に考えるのが好きである。》
《悪というものが(私もこういう言葉を口にするのは、できれば今回かぎりにしたいものだ)恐ろしくも何ともなく見えるというのは、作品の中のことである。実生活では、依然として悪事も悪も、恐ろしくないことはない。この恐ろしさを作品に描くにはどうしたらよいか。このことについては、少なからざる作家たちが意識するとせざるにかかわらず、苦労しているというのが、不思議なことだが、現状であるようにも思われる。》

《この芝居(アーサー・ミラー『セールスマンの死』)の中の二人の息子達は、自分の父親を何だと思っているのか。父親は子供を何だと思っているのか。何だってたかがおいぼれたセールスマンが、まるで神ででもあるかのように自分を扱うのか。子供がそう扱うことを期待し、子供もそうするのか。何だって子供は父親がおかした過失に、こんなに神を責めるように責めるのだろうか。何と父は子に気兼ねをすることか。
困ったことに、これがただの茶番劇であることをめいめいがどこかで知っていることだ。
その茶番が茶番だと知った瞬間に彼らは抱きあって泣くけれども、それもほんのつかの間だ。また茶番が待っている。こうして茶番であることを互いにかくしてしまう。(中略)
家をもったり、冷蔵庫をもったり、車をもったりすることは、もちろん生きるに必要なことにちがいないが、そういうことで協力してきたことも、なれあいだったのかもしれない。
私は子どもの頃から、いわゆる幸福とか、いわゆるいい暮らしというのが、好きではなかったようだ。何かしらうそ寒い気もするし、私は何かしらおそれてもいたと思う。なぜかわからない。育ちのせいだろうか。それだけではあるまい。
私は女が幸福によっている姿を見ると何か堪らない苛立ちをおぼえるようなところがあった。これをどう説明したら、自分にもわからせ、他人にもわからせることができるだろうか。》

《一言にいって、私は文章というものを非常に簡単に考えている。つまり、言いたいことが、十分にいえているかどうかということだ。というより、いいたいことがあるかどうか、ということだ。
いいたいことが大したことでなければ、十分にいわれたとしても、つまらないのだから、けっきょくいいたいことがほんとうにあり、そのいいたいことが、いうに価することであるかどうかということが問題になってくる。
それならば、いうに価することとは何であるか。本人がそう思っても、ただそれだけのことで、ハタから見て何でもないこともある。といっていうに価することかどうかは、いわれた文章を見てみなければ分からない。
私は以上述べたようなことが、文章の評価の根本だと考える。》
私はひとつのセンテンスと次に続くセンテンスとの間に少なくとも飛躍のようなものを何となく心がけている。会話と会話のかんけいの場合もそうだし、会話と地の文のつながり方にも、出来ればそうしたいと思っているようである。私は誰からそうしなさいと教わったわけでもないし、物の本で教わったわけでもなく、書いていて、そうしないと文章が死んでしまったように思え、書く喜びが感じられないのである(ほかの人達は、その人なりに、似たようなことがあるに違いない)。
飛躍といっただけでは、不十分であって、その二つのものからある意味がうかんでくるといった方がいい。それなら意味とは何であるか、というと、それは言葉にして意味内容をほかの言葉でカンタンに出来ないようなものであった方がいい。にもかかわらず、たしかに意味がかんじられる、といったものである。》
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by daiouika1967 | 2008-05-26 09:57 | 日記  

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