5月26日(月) 晴

夏のような陽気。今日は妻が朝のうちに病院に行かなければならないということで、8時には家を出ていった。6時には起きていたようだ。おれは彼女が出て行くときに起床し、見送ってから、朝食にソーセージの入った調理パンを食べ、パソコンに向う。仕事をひとつ済ませ、日記つけ、ネットの周回。11時前に家を出た。
名駅の喫茶店で、多羽田敏夫『滅亡を超えて ―田中小実昌・武田泰淳・深沢七郎』(作品社)の残り、深沢七郎の章を読み終える。
昼過ぎ、大須~上前津~鶴舞を歩き、古本屋を周回する。島尾敏夫『死の棘』(新潮文庫)、編解説井坂洋子『まど・みちお詩集』(角川春樹事務所)、富岡多恵子『当世凡人伝』(講談社文芸文庫)、古川日出男『13』(角川文庫)、ミシェル・フーコー『言葉と物 -人文科学の考古学』(新潮社)、森敦『月山』(河出書房新社)、ヴィリエ・ド・リラダン『残酷物語』(斎藤磯雄訳 筑摩叢書)を買う。なかなか充実した買い物をした。
2時、JRで名駅まで引き返し、昼食に<ジートレス>のオムライスランチを食べた。そのまま<ジートレス>で人と待ち合わせ、打ち合わせをひとつ済ました。
島尾敏夫『死の棘』を読み始める。175ページまで。
夕方、家に帰ると、妻がアマゾンで注文したCD、ミリー・ヴァーノン『イントロデューシング』が届いていた。ミリー・ヴァーノンは、1957年、このアルバム一枚を録音して、それきり40年以上もずっと沈黙を続けていたという伝説のジャズ・ヴォーカリスト、ということらしい。向田邦子がエッセイで推薦していたアルバムで、向田邦子のファンであった妻の母親もよく聴いていたのだそうだ。そのアルバムを聴きながら、夕食は、豚バラ肉、ハム、ベビーリーフ、トマトなどがたっぷり入ったうどんを食べた。
夜、キムタクのドラマ「チェンジ」を見て、「スマスマ」を見て、その後は再びミリー・ヴァーノンを聴きながら、眠たくなるまで、『山之口獏詩集』(思潮社現代詩文庫)を読んで過ごした。1時前、就寝。

多羽田敏夫『滅亡を超えて』からの引用、メモ。

《「ただ位置だけを示し、意味を排除」するとは、つねにただ「いま、ここ」だけを示し、いかなる意味をも排除してしまうということにほかならない。いいかえれば、つねにすでに「いま、ここ」であるがゆえに、いかなる意味づけをも排除してしまうということだ。
たぶん、「自分を若いなどとおもったことはなかった」とは、この「いま、ここ」に関わっているはずだ。それは、「若い」ということが。直接まさに「いま、ここ」で感受しえないがゆえに、「若い」という概念が成り立たないということなのである。いいかえれば、つねに「いま、ここ」にあるがゆえに、「若い」とう言葉が成り立たないのである。まさしく、つねにすでに「いま、ここ」において、「若い」という言葉の意味が排除されているのだ。父が「若いころは、なんて言ったことはなかった」のは、父にとってこのつねに「いま、ここ」だけが文字通りに重要な「位置」を占めていたからにほかあるまい。いや、「若い、だけでなく、そのほかいろんな文字」が、父のなかで解体されていたのではなかったか。》

<いま、ここ>。<いま>とは、“瞬間”という“垂直の時間”のことであり、<ここ>とはそもそも時間をもたない空間的な広がりのことである。つまり、<いま、ここ>とは、時間の外部にある瞬間の広がりのことである。
人間は時間のなかに棲まっている。
<いま、ここ>は、時間のなかでは捉えることができない。時間的な構造をもつ言葉-文章においては、<いま、ここ>は、直前に書いたことの否定を通してしか指示できないであろう。田中小実昌の否定に否定を重ねていく文体は、言葉や観念を<いま、ここ>に微分しつづける運動の結果にほかならない。
ところで、<いま、ここ>は、時間のなかに棲まう人間にとっては、つねに“外部に刺し貫かれる”体験として受け取られることになる。
田中小実昌が『ポロポロ』で描き出した父親は、まさに、こうした外部に刺し貫かれた人間として存在している。

《だがそれにしても、「ポロポロ」とは一体何なのか。それは「信仰」に象徴されるあらゆる「持つ」ことにまつわる一切の「宗教的なもの」、すなわち「信念」や「イデオロギー」や「経験」や「意味」等々をなしくずしに解体する「宗教」である、ととりあえず定義することができるだろうか。
だが、このような定義もまた、「ポロポロ」によってなしくずしに解体され、無化されてしまうという思いを禁じえない。なによりも「ポロポロ」自らが不断に受けることによって、自身を含んだいかなる意味づけをも解体してしまうものにほかならないからだ。まさしくそれは「ポロポロ」なのだ。「ポロポロ」を受けること。不断に「ポロポロ」を受けっぱなしでいるがゆえに、「ポロポロはのこらない」という。
だが、不断に受けつづける「ポロポロ」において、あらゆる「宗教的なもの」をなしくずしに解体したあとに、なおもそこに残るものとはなにか。たぶん、そこに顕在するのは、つねに「ポロポロ」を受けている不断の現在、すなわち「いま、ここ」であるはずだ。逆にいえば、不断に「ポロポロ」を受けているまさに「いま、ここ」において、あらゆる「宗教的なもの」はなしくずしに解体、無化されるのだ。》

<いま、ここ>に立つ、とは、不断に「ポロポロ」を受けつづけるということである。受身を徹底して、“外部の神”に、自分の心身を晒しつづけるということである。
シモーヌ・ヴェイユの在りようを想起する。
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by daiouika1967 | 2008-05-28 09:21 | 日記  

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