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9月4日(木) 曇ときどき雨

●今日もまた、蒸し暑く鬱陶しい天気だった。
仕事で人と会う予定をしていたのだが、急に先方の都合で流れてしまい、ぽっかりと午後の時間が空いた。
夕方からもうひとり、面談の予定があったので、それまでのあいだ、本を読んで過ごすことにする。
<ジュンク堂>で、吉本隆明・芹沢俊介・菅瀬 融爾・今津芳文『還りのことば ―吉本隆明と親鸞という主題』(雲母書房)、茂木健一郎・黛まどか『俳句脳 ―発想、ひらめき、美意識』(角川ONEテーマ21)を買う。

●『還りのことば』を読み、次いで『俳句脳』を読む。

●俳句は今、国際的に広がっている。
その際、海外(外国語)においては、俳句の特徴である「有季定型(季語+五・七・五のリズム)」の決まりごとは、そのままの形では通用しない。
それでは、そうした決まりごとがないところで作られた「俳句」は、はたして俳句と言えるのだろうか。それは「ただの一行詩」に過ぎないのではないか。
黛まどかは、「有季定型」がないところで作られた「一行詩」であっても、その詩に「切れ」が挿し込まれていれば、それは「俳句」と見なしていいのではないか、と言う。
「切れ」とは、例えば「古池や蛙飛び込む水の音」という句で、「古池や」と流れを「切る」表現技法のことである。この句の意味としては「古池に蛙飛び込む水の音」でもいいわけだが、この「古池に」の「に」を、「古池や」と「や」を使って切り込みを入れることで、その切り口の断面から、ある広がりが生まれる。「古池」はただ目の前にある具象物の古池であることを超えて、悠久の境域に遊出していくのである。そのような広がり、すなわち具象物を超えて広がっていく余白のようなものが、「わび・さび」や「幽玄」といった味わいとして感受される。
その詩を読んだとき、そうした味わいが感受できるものになっているなら、それは「俳句」と呼んでかまわないのではないか、ということである。

●俳句は、自然との「挨拶」である、と、黛まどかは言う。
そうした自然との感応をより鋭敏にしていくために、日々、「畑をたがやすようなこと」をしているのだ、と言う。そうした日々の積み重ねからしか、佳い句は生まれない。
茂木健一郎は、俳句を作る、読むといった契機は、現代の資本主義社会に対抗する、本質的なカウンターカルチャーとして位置づけられる、というような意味のことをいう-《現在の非常に高度に発達した資本主義に対して、強烈な対抗軸を持っていた方が人間の存在としては立体的になるということです。自然を所有する必要などない。ただ、思っていれば良い。そうすれば、現代社会のさまざまなやっかい事に対抗するための相対的な視点を抱ける。》《今の時代に俳句を生きるとは、大変な独創性が要ります。小さくて弱いものも忘れないで、それと向き合おうと思うことですから。政治家や経営者には、こういうことを忘れている人がいっぱいいます。》
黛まどかは言う-《日常の中に降る雨が、「詩の雨」であるということが俳句的な生活だと思います。歳時記の花鳥風月と、百科事典の花鳥風月では違うのです。俳句を生きていると、雨にも四季折々の匂いがあり、色があり、雨音も違うんです。「今日はどしゃぶりの予報だから傘を持って行こう」という雨には、降り方の強弱くらいしかないかもしれません。でも、「この芽雨」と言ったとたん、雨の向こうに芽吹きの野山がイメージできるじゃないですか。実際、目の前に野山がなくても。この豊かな瞬間を日常に育むことが、俳句を生きる素晴らしさだと思います。》

●言葉は、コミュニケーションの手段という側面と、もうひとつ、価値の表出という側面をもつ。俳句は、もちろん、価値の表出としての言葉ということになるだろう。
価値の表出としての言葉とは、長い沈黙のなかで育まれた言葉である。
考え抜かれた言葉のことである。
それは、相互に分かったような気になっているだけの「日常のコミュニケーション」を、切断する。
《たとえば、こんな会話。「落ち込んでいるようだけど、どうかしましたか?」「恋人と別れました」。私は納得し、相手の事情を了解した気になるのであるが、実はどのような感情の襞も手に入れてはいない。了解したばかりに、「これ以上は立ち入らない」という壁のようなものが相手との間に生まれてしまうというのが、日常におけるコミュニケーションの罠である。
「人の心はなぜわからないのか」。コミュニケーションはなぜ、ディスコミュニケーションでもあるのか。こうした感覚を持ち続けているほうが、一瞬のクオリアを長く留めさせることができ、人生をより深く感じられるような気がする。そして良質な文学や名句というものは、このテーゼを壁の存在とともに気付かせてくれるものであり、同時に、自分自身の違和感というものを明示してくれるものだと思う。》


南インド、ケララ州で乗ったハウスボートの動画。ふたりでこの広いボートとスタッフ3名(船長、副船長、コック)を貸切り、ずっとこんな調子でゆったりとクルージングするのである。午後から乗船し、ランチ、ディナーを食べ、船上で一泊し、朝食を食べて、岸に着く。船の上はひたすら気持ちがいい風が吹き渡っている。個室もホテルと何ら変わりない、シャワー付きの豪華なものだった。この贅沢さで、食費を入れて、ひとりたった三万五千円。安い。

by daiouika1967 | 2008-09-05 09:33 | 日記  

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