9月27日(土) 晴

●6時頃、Pに餌を催促され、ぼうっとしたまま起き上がり、餌を与え、そのまま起床する。
うつらうつらしながら、中村彰彦・山内昌之『黒船以前 ―パックス・トグワーナの時代』(中公文庫)の残り半分を読み了えた。

●大航海時代、近代初期。日本もまたスペイン、ポルトガルを中心とする西欧の政治動向、世界の各地域を巻き込んだ新たな物流の流れのなかにあった。戦国大名たちもまた、イエズス会の宣教師たちから情報を得て、各自その動きに反応していた。
1.関ヶ原、大阪冬の陣で食いつめた連中が海外へ渡航し、フィリピンなどでスペインやポルトガルの傭兵になった。
2.メキシコ銀、日本銀を動かしていたのは、スペイン人、ポルトガル人だった。
3.イエズス会はルターやカルヴァンに対する対抗勢力として、軍隊と同じ、上意下達、絶対服従の非常にミリタントな集団だった。
4.戦国武将は、ポルトガルの風物を、「ファッション」としても受容した。秀吉はベッドで寝ていたし、細川忠興は入信もしないのに十字架の旗を立てて戦うのがかっこいいと思っていた。信長のようにビロードのマントを着た武将もいる。西洋音楽もしかり。
5.浅野長政は、スペイン、ポルトガルが攻めてくるのではないかという危機意識をもって、秀吉に進言した。
秀吉はスペイン、ポルトガル、フェリーペ2世の存在を、かなり強く意識していた。
スペインあるいはポルトガルと明が連携して日本をたたくことを、秀吉は恐れていたのではないか。
6.スペイン人、ポルトガル人は、当時の武張った日本の「武威」に、かなりの驚異の念を覚えていた。フェリーペ2世が秀吉に送った低姿勢の文書からも、そのことがうかがわれる。
7.当時の日本では、領土獲得欲が、日本を統一して、といつする国がなくなったあと、やみくもに外へ出ていくという、すさまじい無限運動になっている。
それは、日本でいう「天下」という観念と、「国家」という観念とが明白に区別されていないところに関係している。つまり、自分の支配地域の広く及んでいくところに天下観念はあった。しかし、日本という一つの独立した国家体系というものが、どのようにして他の独立世界を認めながら交わっていくのかという問題意識はない。
「天下」とは、他国のない「世界」全体のことであった。「世界」の主を目指す無限運動のなかで、秀吉の誇大妄想はどこまでも膨張していく。
8.日本では、古代から東国と西国に分かれていた世界が、応仁の乱あたりから事実上、東西のヒトの移動を通して一体化した。このとき、秀吉は、東国のダイナミクスを十二分には理解していなかったのかもしれない。貴族志向のあった秀吉は、あるいは政治地理感覚も、律令時代の京の貴族の枠を出なかったのかもしれない。

●家康、秀忠、家光の徳川三代は、当時の武断政治から文治政治への移行を、そのもっとも大きな政治的課題とした。
そんな状況の中、秀忠の子、つまり家光の異母弟であった保科正之の存在が、強い光を放っている。
徳川三代、保科正之ら、いわゆる関ヶ原の戦後世代の、それぞれの個性がいい方向に働いて「パックス・トグワーナ」の基礎ができた。

●午後、渡辺京二『アーリイモダンの夢』(弦書房)を読む。

著者は、「近代」を、ふたつの時代区分に分ける。その「早期の近代」を「アーリイモダン」と呼び、そこには現代に繋がる「西欧の近代」とは違った世界があり、違った歴史の可能性があった、と説く。
著者は、西欧圏以外に、それと同等の規模をもつ、東アジア圏、オスマントルコ圏があった、と指摘する。

《ウォーラーステインによれば、15世紀に誕生したヨーロッパ世界経済が次第に成長して今日の近代世界システムになったということになりますが、実は19世紀の中ごろに生まれた新しいシステムは(それが世界を制覇したのですが)、15世紀以来のヨーロッパ世界経済からの連続とは単純にはいえないのではないか。むろん連続の面はあるにせよ、そこには断絶があるのではないかと思われます。(中略)
15、6世紀に形成されたヨーロッパ世界経済は、18世紀まではまだ全世界を同化し統合するような力はもちませんでした。それがついに全世界を呑み込むに至ったのは、19世紀半ばに出現した新しい事態によるものです。18世紀においてはヨーロッパ世界経済が全世界的システムになるかどうかは未定であったわけで、それを初めから世界システムとなるべきシナリオで描き出すならば、なるほど悪しき西洋中心主義といわねばなりません。》

《ある時期まで多元的な展開を示していた人類の諸社会・諸文化が、加速的に西洋のモデルの近代化によって一元化されるというのは、実は大変厄介な問題を含んでおります。その一元化は十九世紀後半以降のヨーロッパ的近代が一種の普遍性をもっていることによって生じています。何らかの普遍性を想定せねば、その侵食力を理解することはできません。その普遍性は科学技術にもとづく生産・消費の効率化大量化、脱宗教による世俗化・合理化、様々な共同体を解体する個人化、近代的人権とデモクラシーにもとづく平等主義的政治システムなどにわたって認めることができるでしょうが、このようなシステムないし価値を生み出したのがヨーロッパであったこと、他の地域は自力でこのようなものを生み出すことがなかったというのは厳然たる事実です。ウェーバーの関心が、このような世界普遍性をもつ思考・制度・技術がなぜヨーロッパだけに生まれたのか、換言すれば「近代」はなぜヨーロッパに生まれてほかでは生まれなかったのかという一点に向けられていたのはご承知の通りです。
ところが、このような世界普遍性をもち、事実そのことを過激な侵食力で示している西洋近代文明が人類史の普遍的な王道であるのか、他地域はみな近代化=西洋化という力学に従わねばならぬのかという点になると、話は単純ではなくなります。先ほど私が厄介といったのはそのことです。(中略)
今日のような近代技術文明を生み出したヨーロッパの歴史は、広く人類史の見地から見ると非常に偏ったものではないか、それは人類史からの偏奇ではないかという問題意識が、かなり以前からヨーロッパ人自身によって抱かれておりました。たとえばカール・ポランニーがそうであり、オットー・ブルンナーがそうであります。ポランニーはオーストリアに生まれアメリカに亡命した経済人類学者ですが、資本主義が生み出した自己調整的市場を異常な変態とみました(『大転換』1944年)。オットー・ブルンナーは戦後のドイツ史学界を代表する歴史学者ですが、ヤン・ロメインという学者の説をひきながら、ヨーロッパ近代は「一般的な人間の型」からの「偏奇」ではないかと問題提起しています(『ヨーロッパ-その歴史と精神-』1968年)。》

《17、8世紀の全地球的アーリイモダンは文化的多様性を保持しつつ様ざまな可能性を蔵していた世界であって、それが19世紀以降現実にそうであったように西洋モデルの近代に収斂せねばならぬ必然性はなかった。これを今ばやりのタームに置き換えるなら、17、8世紀段階のグローバリゼーションはまだ環大西洋世界にしか及んでいなかったので、ポルトガルを初めとする初期海上帝国はたとえばアジア各地に貿易拠点を築いたにせよ、その貿易なるものは既存の環インド洋貿易、あるいは南シナ海貿易のシステムに便乗したにすぎず、アジア諸国家に実効的なインパクトを与えるような力は全く持っていなかった。
だとすると、わが徳川社会をその一翼とするアーリイモダンは多様な近代の可能性を胎んでいたわけで、わが国の近代アg西洋主導の近代世界システムに包含される形でもたらされず、徳川的アーリイモダンの自主的な展開の上に出現したのであったならば、一体どのような様相を呈したであろうかという想像を禁じがたい。
おそらく日本独自の近代は、徳川政権が全国を天領化する方向でしか開かれなかっただろう。もしそれが可能だったならば江戸時代人の様ざまな欲望や能力が花開いて、西洋近代のそれと異なってはいても、自由と平等という近代的理念が日本独自の形で定着していたかもしれない。》


●著者は、イヴァン・イリイチの「ヴァナキュラー」という概念を敷衍して、グローバルな価値観で統合された単一的な世界ではなく、人類という種の同質性からゆるやかに統合された、多様性を保った世界のヴィジョンを構想する。

《問題は民族間の敵意と紛争を生みだす差異としての民族文化が、同時に、主体として環境世界と他者と交わる能力を人間に与える基盤だということにある。われわれはおのれの属する文化を通じてしか世界に到達することができない。このようにナショナルなものを媒介せずにはインターナショナルに通じえないという逆説をいかに切開するか、われわれの課題はその一点にかかっている。
一切の言語は混血言語であり、文化もまたしかりという今ばやりのクレオール文化論の立場からすれば、血路は文化の混血を促進する方向に開ける。混血は確かに共存へのひとつの手がかりだろう、しかし混血の永久運動というのは夢想にとどまる。混血の結果誕生するクレオール文化とは、それ自体ひとつの新しい民族文化にほかならない。
民族紛争の激化という人類共存の夢を裏切る事態は、実は世界のボーダーレス化が招いた新しい事態であって、民族主義というふるい亡霊の仕業ではないということに気づくことが大事なのだ。民族は適当な距離を保ちつつ、それぞれの国土に棲み分けている限り、やたらと殺しあうものではない。このような棲み分けこそ相互の有益な交流と敬意を保証するのである。棲み分けを崩壊させ、民族を万という単位で集団的に流浪させているのは経済という名の化物である。風土に根ざした文化を壊滅させ、代償として古き民族主義の亡霊を喚び起しているのも、おなじ名の化物なのである。》


●ラフカディオ・ハーンについて。ハーンもまた、「ヴァナキュラー」な世界に生きることを希求した人だった。ハーンにとって、「ヴァナキュラー」な世界とは、どんな世界だったのか。ハーンにとって、それは、イマジネーションの基盤を与えてくれる世界のことであり、イマジネーションによって生を賦活することのできる世界であった。

《いわゆる「現実」だけではハーンは生きられない。そうではなくて、我々の現実の中に過去が浸透してくる。ひょっとしたら未来も浸透してくるかもしれない。あるいは人間だけの世界ではなくて、他のいろいろな異界のものたちの侵入してくるような世界、そういう想像の世界でないと、生命というものを彼は感じられなかった人だったのではないかと思います。万物と魂の交流のあるような世界、こうであるべきなんです。》
《彼はその土地、その土地に根付いている精霊というもの、霊が好きなんです。その土地その土地に風土がある。そこに根ざして生きている土俗的な世界がある。そこでさまざまな、その土地の精霊に関する話が紡ぎだされる。そういう世界に彼は引き込まれて、そこでしか生きられなかったんですね。》


●石牟礼道子について。彼女にとってもまた、「世界は世間ではなくファンタジー」だった。宮沢賢治に近い感性をもった作家である。

《彼女の作中人物は世間を超えたところ、あるいはそれからはずれた場所に生きていて、現実という膜を通してもっと永遠なものの相にふれたところがあります。彼女が狐や狸、山や海辺に棲むもろもろのあやかしどもを好んで登場させるのも、この世だけが世界だとは思っていないからです。この世はいつでもあの世に変換されうるので、そういう彼女の世界の多重性・多次元性はむしろ中世文学に近いのかもしれません。》
《ふつう作家が世界のなかの一事象を見る場合、むろんそこには一種の混沌が表れるのですが、彼はそれをコントロールして、ひとつの明確な図像にまとめあげるのですね。つまり文学的なことばの連なりになるように、複雑な要素は切って捨てるのです。わっと一斉に立ち上がってくるイメージを抑制して、文学的あるいは美的な表現に固定するのです。作家によってはそもそも、一斉に立ち上がってくるイメージをある事象から受けとるということがない、あるいはそれが弱いという人もいるかと思います。石牟礼さんは万象から一斉に混沌としたイメージが大量に湧き上がってくるタイプの作家なのですね。そしてそれを出来ることなら全部いっぺんに書こうとする。(中略)そういう書き方をするとわかりにくくなりかねないし、また混乱しているような印象を与えかねません。しかし、それがうまく行ったときは、複雑多様なものをみごとにおさえこんでゆくすごさが現れてくるわけです。》
《近代に対する石牟礼の絶望の深さ。近代の学者のことば、官僚ことば、ジャーナリストことばへの石牟礼の根源的な違和感は、海と空と大地にはぐくまれた生命の連関とざわめきを、近代の諸制度が隠蔽し破壊してきたことへの反応なのだ。生命も実在も世界もいわく言い難い。この言い難いものに迫ろうとするのが詩人石牟礼道子の言葉である。概念語に頼らない暗喩の哲学。》


●<ジュンク堂>で、渡辺京二『日本近世の起源 ―戦国乱世から徳川の平和(パックス・トグワーナ)へ』(洋泉社)、小泉八雲『神々の国の首都』『明治日本の面影』(平川祏弘編 講談社学術文庫)を買う。
渡辺京二『日本近世の起源 ―戦国乱世から徳川の平和(パックス・トグワーナ)へ』を読み始め、210ページまで読み進む。

●夜、別冊宝島編集部『僕たちの好きな京極夏彦』(宝島社文庫)を読む。155ページまで。大泉実成による水木しげるへのインタビューがおもしろかった。

《(妖怪は)見える見えない……というより、「感じ」です。これが大事なんですよ。私なんかは、妖怪を描いているときには、霊界にひたっているわけです。これは気持ちいいですよ。考えてみれば、女性の裸とかセックスやってるとこを描いているのと同じかもわからん。そういうものを描いていると、そういう「感じ」になっちゃうわけです。京極さんもそうなのかはわかりませんけどね。妖怪をいじくっていると、その世界に入ってしまうわけです。》
《妖怪というのは、非常に日本的なんですよ。ただ、これで金儲けしようとすると、妖怪は滅びるんです。だから、普通にやっていればいいんですよ。小説のように、地道にやっていれば増殖するんです。大仕掛けにすると、妖怪は消えてしまいます。》

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by daiouika1967 | 2008-09-28 10:41 | 日記  

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