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10月3日(金) 晴

朝食はお茶漬け。
午前中、喫茶店でコーヒーを飲みながら、谷川健一『原泉の思考 -谷川健一対談集』(富士房インターナショナル)の残り半分を読む。
腐れ縁T、やくざT、中学生の頃の友達Oと四人で、インド料理屋にカレーを食べに行く。昨夜のタイカレーに続いて、インドカレー。超スパイシーライフ。
中学生の頃の友達Yがやっているパスタ&喫茶の店に場所を移し、5人でダラダラだべって過ごす。40過ぎのオッサンが平日昼間にこんなんでいいのだろうか。オチこぼれの不良高校生が学校サボってでも何もやることもなくて、といったような無為の時間。
夕食は鯵の干物、若布の味噌汁、ご飯、たくわん、納豆。食後にみかん。純日本食。
夜はDVDで三木聡監督、三浦友和、オダギリジョー主演『転々』を観る。幼い頃親に捨てられたオダギリジョーと、つい愛する妻を殺してしまった三浦友和の同行二人。東京の街をふたりでぶらつくうちに、オダギリジョーのなかに、だんだん擬似親子のような感情が芽生えていく。
三木聡の映画は、ともあれ退屈はせずに観通すことはできる。途中から登場する小泉今日子がなかなかの好演。そういえば黒沢清監督『トウキョウソナタ』が始まってたっけ、と思い出す。観にいかなきゃ。
『転々』を観終わり、撮っておいた『K-1 WORLD MAX』、世界一決定ONEDAYトーナメントを観る。準決勝の魔裟斗×佐藤戦、決勝の魔裟斗×キシェンコ戦、どちらも身体が熱くなる素晴らしい試合だった。この間のピーター・アーツ×セーム・シュルト戦でも思ったのだが、やはり格闘技は、前へ前へと出る戦い方をしてくれる選手がいると、試合が熱くなる。前へ前へ出て戦うと、自らの攻撃力も高まる代わりに、相手の攻撃から受けるダメージも大きくなるだろう。反射的なディフェンス能力の高さ、スタミナ、そして何より相手の攻撃を怖れない心魂の強さが必要になる。それを備えた選手だけが、感動する試合を見せてくれる。

谷川健一『原泉の思考 -谷川健一対談集』(富士房インターナショナル)からの引用。

折口信夫の考えた「文学の発生」について(山折哲雄)
《仏教伝来以前の古代社会には光明がなかった、古代の人間たちにはいっさいなぐさめがなかった、無限の寂寥、孤独のなかで生きていたのだ、だから言葉が重要だったんだというわけですね。そこで発せられる叫びのような言葉、すなわち孤独のなかから発せられる言葉が文学になる。それこそが文学の発生じゃないかということを彼はいっている。これはすごい考え方だと私は思う。そういう寂寥の世界に仏教が入ってきて、光明だとか、慰めだとか、癒しという観念をもち込んだ、そのために文学の精神が衰弱したのだ、という。》

南方楽園について(谷川健一)
《「南方楽園」という場合、自分の精神も肉体も解放できるということが一つの特徴だと思うんです。解放できるということは、やはり気候的に暖かくなくてはいけない。さらにいえば、暑くなくてはいけない。それともう一つは、自然の恵みが豊富でなくてはいけない。つまり、荒涼として、ただちに飢餓にさらされるというところでは南方的なものに対する憧れは出てこないだろう。常世思想なんかでも、「ときじくの香(かぐ)の菓(このみ)」といいますか、しょっちゅう香ばしいかんきつ類が実をならせている。そのような豊かなところでなくてはいけない。
さらに季節の変化みたいなものがあまり激し過ぎると、何か楽園的な、いつも変わらない生活が感じられなくなる。ですから、春夏秋冬、季節のあまり大きな変化がない。逆にいえば、時間性というものがなくなって、むしろ無時間性といいますか、浦島太郎が籠宮に行って、向こうで三日過ごしたらほんとうは三年だったというような、時間の観念がそこでドロップしないと、南方楽園的な資格はないのではないかと思うんです。》


「日本的」ということのひとつの特徴としての「単純化」について(谷川健一)
《日本はどこかで、だんだん単純化の傾向を経て、圧倒的な自然、世界に対してそれをそのまま受けとめる力が希薄になってきたのではないか。少なくとも縄文とか、あるいは古代あたりまではまだあったかもしれないけれども。バリ島の絵画を見たときに、これは日本人はかなわんなと思った。》

「民俗学のロマンチシズム」について(谷川健一)
《民俗学のロマンチシズムは近代の個人のロマンチシズムではないのです。大地への信頼と相互扶助を土台としたロマンチシズムです。日本民俗学からロマンチシズムをのぞいたら、何が残るだろうかと、柳田や折口の民俗学にロマンチシズムが色濃く見られるから、私は民俗学に魅力を感じてきたわけで、それがダメというのなら私は民俗学に何の魅力もおぼえないのです。相互扶助の確立した社会というのは、第一次産業というか、漁業とか農業とか林業とかね、そういう大地や自然を相手にする職業であり、しかもそれは相互扶助なしにはやっていけないという、そのふたつの条件があったときに民俗学というのはそこから生まれている、また発展してきたと思うんです。》

網野史学のマルクス主義的限界の乗り越えのために。「古代との回路」=「霊的な世界への理解」(赤坂憲雄)
《『無縁・公界・楽』の最終章で、網野さんは無主・無縁の以前に原無縁の世界があり、それは天皇に繋がる前に自然のなかの神々との精神的な絆を背景として培われてきた世界であると、たぶん想定されていたと思います。ただ、網野さんはそれを中世的な言葉で表現できなかったのではないかと思います。ですから、原無縁とは何かを説明しようとすると、マルクスやエンゲルスを引用するしかなかった。あるいは、それは古代との回路がなかったためでもあり、宗教や神的なるものに対する理解が届かなかったためかもしれません。そのことが、山折さんが先ほどいわれた、網野さんが非農業民を理想化してしまうアキレス腱の要因ではないでしょうか。》

文盲の人間だけに可能になる独特の強度をもつ「語り口」について(宮本常一)
《戦前歩いていた時には、まだ文字をもたない人に逢えた。字を知らないおじいちゃんと字を読めるおじいちゃんの話では、根本的に違っていましたね。字を知った人の話・語りは、ほんとうの「話」になっていて、「語り口」ではなく散文ですね。それが、戦前の記憶のいい人というのは、自分の見聞したものでも、自分自身の語り口をもっていたでしょう。
たとえば「土佐源氏」の話を聞いた時には、文学書を読んでいるという感じがしましたね。》

by daiouika1967 | 2008-10-04 10:22 | 日記  

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