10月6日(月) 雨のち晴

朝食は、黒糖カステラ二切れ。11時前に家を出る。朝はまだ雨が残っていたが、家を出る頃には、傘もささなくていいくらいの小雨になっていた。昼過ぎになると太陽が。
喫茶店で保坂和志『小説、世界の奏でる音楽』(新潮社)の残り半分を読み始める。ランチは喫茶店の日替わりランチ(豚バラと野菜のマスタード炒め)。没頭し、2時過ぎに読了する。

小説は、「遠い声の呼びかけ(“予感”、“胎動”)」に応えるようにして書かれる。だから、そのように書かれた“小説”は、読む者を“遠く”へ連れて行ってくれる。小説を読むということは、その小説に書かれた言葉を辿って、その小説が指し示す“遠く”へと向うことなのである。
そのことを、保坂和志は、説くのではなく、小説を読みながら、自らの行程として示してみせる。「“遠く”へと向かう」とはどういったことか。それは、自らの身体を使った体験として、わかるしかないようなことなのである(「われわれは自分自身による以外には、世界への通路を持っていないのだ。」)。
現在流通している“小説”の多くは、「求心的な力学」にまかせて、わかりやすい意味や概念、ドラマを産出し、しかしそれは書く者や読む者の自我をなぞっているだけのことにすぎず、そこに新しいもの、真なるものは何ももたらされない。本質的に退屈である。
「遠い声の呼びかけ」に応えるように書かれた小説は、自我を“緩め”、人間の外(「自然」)へと、「拡散的な興味」を持続させるような構造になっている。
統合失調症者の語り、夢、神話にも似た構造。

<ジュンク堂>で、茂木健一郎・甲野善紀『響きあう脳と身体』(basilico)、郡司ペギオ-幸夫『時間の正体 -デジャブ・因果論・量理論』(講談社選書メチエ)を買う。

喫茶店で、『響きあう脳と身体』を読む。
意識-自我は、身体-生成の能力を制限するリミッターとして作用してしまう。術とは、そのリミッターを外し、身体-生成の力(同時並列的な情報処理)を解放する精妙な手法のことである。術のヒントは、「日常の無意識の動き」のなかにも潜んでいる。
ここで書かれていることは、さっきまで読んでいた保坂和志の小説論と響きあっている。

夕食は、毎月届く冷凍食材のなかから、秋刀魚の煮付け、大根とニンジンの煮物、えんどう豆とベーコンの炒め物。ご飯、インスタントのしじみの味噌汁。

保坂和志『小説、世界の奏でる音楽』(新潮社)からの引用。

《認識として統括されて意識にのぼってくる以前の段階では、視覚・聴覚……etc.は個々に機能していて、精神病のようであったり昔話であったりするような現象が脳の中で局所的に起きている。》

《緩さ、あるいは注意の散漫さはおそらく(ジョセフ・)ロートに特殊な書きっぷりであって、それがあるから物語は妻の浮気~出産だけでは全然おさまらない転がり方をしてゆくことになる。》

《人間の思うことは言葉とともにあるから言葉で書くことにそんなに苦労はない。人間の動きも人間自体が言葉と無縁でいられないのだから言葉によって書ける。しかし自然となると言葉がない時代からあったのだから、フリークライミングの岩で指先がかろうじて掴めるところをそれぞれに手さぐりするようにしか書き手は自然に接近できない。自然を書く難しさとはそういうことなんじゃないかと思う。》

《新規の登場人物が全体にまんべんなく出てくることに注目してほしい。この小説では物語の新展開は新規の人物によって持ち込まれることになっている。閉じた人間関係が時間とともにだんだん煮つまって……という小説とはつくりが違うのだ。(中略)
小説が進行していく過程で新規の人物を出しつづけるというのは難しいことなのだ。
テクニックとして難しいのではなく、書いているときの気持ちのありようとして難しい。(中略)人物が途中から増えると小説の結構としてはどうしても緩くなるが、その緩さゆえに得られるものが当然ある。
その最大のものが、“内面との距離”ないし“内面の相対化”ではないか。ここで注意してほしいのは、内面が相対化されるのは登場人物にとどまらないということだ。登場人物たちの内面が相対化されるのは副産物のようなことであって、もっと内面が相対化されるのは書き手自身なのだ。
小説を書くという行為には、書き手自身の気持ちを集中させて一点に向かって絞り込むような求心的な力学が働きがちなのだが、新規の人物を登場させることによってその力が緩む。
小説には、「何人かの人物に出来事という力が加わるとその人たちはどうなるか?」という物理や化学の実験に似た側面があるのだが、閉じた人物群の中でそれをやってしまうと書き手自身が閉じた人間関係の原理の外に立てなくなり、その関係の中で働く力学だけがリアルであるかのような錯覚にはまってしまう。》

《人はふつうある領域を設定して、それを守るための整理をする。この人はこれこれの時間にこれこれの場所にいて、こういうことを考えている。それに至る前にはこういう時にこういう出来事があって……、というその作り方はまさに自我の作り方だ。話がいきなり自我の話に飛んでわかりにくいかもしれないが、そういうことを頭の隅にでも置いておくと、こういう小説(岡田利規『わたしたちに許された特別な時間の終わり』)を読む喜びはぐんと大きくなる。
自我とは何による産物なのか?仮説はいろいろ考えられるが、ひとつには現在の私に至る時間を因果関係に沿って配列した結果なのではないか。私には子どもの頃から辿って、こんなことがあって、こんなことがあって、それからこんなこととこんなことがあって、いまの自分になりました。それはまるで必然のように聞こえるけれど、時間(出来事)の配列を必然としたい思考法の結果だから必然に聞こえないわけがないというだけなのではないか。》

《小説の語りは一人称と三人称に大別することができるのは今さら言うまでもないが、この小説(岡田利規『わたしたちに許された特別な時間の終わり』)は三人称なのに一人称的な不確定さがある。そこに私はベケットに通じるものを感じるわけで、作者は小説に書かれる世界の全体を見渡していない。》

《「私は小学校のとき鉄棒の逆上がりができなかった。」
「私は分数の割り算ができなかった。」
「私は動物園で写生したときに、檻の線を先に描いてしまったので中の動物をうまく描けなかった。」
これらはどれもすごく似ている。一度聞けば絶対意味を取り違えようがないところが三つとも共通していて、しかしこれらの言葉自体にはそのじつ意味らしいものは何もなく、それを言った人の気持ちか何かがこちらに向かってべたっと貼りついてくるようなところが何より共通している。どれも固有の経験を装った了解可能なフィクションじみた経験であり、本当の固有の経験だったらもっとわかりにくいはずだ。
自我というのはそういうもので、「私の中の私だけの領域はかけがえがない」というその領域には基本的には同じことが書き並べられている。そうでなければコミュニケーションは成立しないわけで、「私は小学校のとき鉄棒の逆上がりができなかった」という言葉はコミュニケーションを求めている言葉でもある。しかしその言葉が求めるコミュニケーションはひじょうに安易なコミュニケーションだ。》

《小説ではふつう本筋として書きたい事件とか登場人物の心の変化があって、無用な混乱を避けるために、一人称小説でも三人称小説でも、私の行動、Aさんの行動、Aさんが見たこと、私に見えなかったこと、Aさんが感じたこと、Aさんの感じていることがBさんにはわからなかったということ……etc.という風に仕分けして書いていくことになっているけれど、もともとそれらはすべて作者一人の頭の中で想像されたことだ。
混乱を避けるために仕分けする容れ物としての人間は、世間一般でなんとなくそういうものだろうとされているサイズであって、たいてい主な人物はそのサイズから何方向かでははみ出しているが他の人物は標準的サイズの中におさまるか少し下回る。しかし繰り返しになるが、それらの人物はすべて一人の作者の頭の中で想像されたものであり、そうであるということは一人の人間の中にはそれぐらいの人間のバリエーションが生棲可能だということではないか。》

《自我も私が私のものと思っている意識も、複雑に展開しつづける運動群が一時的に収束した状態にすぎないのではないか。
水面にキラキラ反射する光に心を奪われたりしているときには自我なんか関係ない。それが何かと名前をつけることなんか問題ではなくて、そのような状態に自分が確かになったことだけを憶えていればいい。
自我という砦はひじょうに強固だから(しかしそんなことは幻想かもしれないのだが)、いろいろな攻め方を試みつづけなければならない。その試みのひとつがこの二つの小説(岡田利規『わたしたちに許された特別な時間の終わり』所収の二編)に書かれている書き方だと私は思う。ここにある書き方は、自我を構成するというのか、自我に至るというのか、自我の基盤というのか、とにかく個人の中に起こることを自我という一方向に定着させるための道具として機能しているセンテンスを空間的時間的に拡散させて-あるいは異物を紛れ込ませて-、自我でない別のところに連れていこうとしている。》

《では小説家にとって実体なのは何か?言葉。と答えるのは簡単だけれど、もしかしたら“胡蝶の夢”のような話の小さなユニットなのではないか。映画のワンシーンよりは少し長く物語よりはずっと小さい。そう言えばカフカが遺した断片もそのサイズだった。“誇張の夢”やカフカの断片、それらは物語化されないがゆえに私たちを世界へ連れていくのではないか。》

《「親といっても母親だった。家というのも母親の待つ家のことだ。家族は四人いるにはいるが、父親は仕事で毎晩帰りが遅いし兄はとっくに家を出ていた。母親が家で一人夕食を用意して待っているわけで、ごく自然なこととして夜は帰るようにしていたのである。
自宅から電車で小一時間かけて都内のマンションへ通い、だいたい夕食時までには帰宅する、という往復がくり返される。会いに行くのは週三日が限度となる。電車とはいえ交通費はばかにならない。家を出るだけでほかにいろいろと金がかかる。いまだ小遣いをもらう身で、しかも預金通帳を見られているため、彼としては急にその残高を減らすわけにはいかなかった。
支出面のことにかぎらず、いまや彼は行動全般に気をつけるようになっていた。秘密主義を貫くのには細心の注意が必要だった。
以前、出先で脱いだ靴下がなかなか見つからなかったことがある。彼がそのとき心配したのは「もしこのまま素足に靴で帰宅したら」ということだった。ドアの音を聞きつけた母親が玄関に顔を出さないともかぎらないのだ。父親の帰宅とかんちがいして廊下の端まで出迎えに。それからというもの靴下だけはどこに行っても脱がないようにしていたのだが、あるとき母親が、
「どこを歩けばこんなに裏が汚れるんだろうねえ」
とその靴下を洗面所で手もみ洗いしていた。どこをといわれ、いくら掃除をしても綿ぼこりの留まる、あのマンションルームのフローリングを歩くからだと気づき、彼はやはり靴下を脱ぐことにした。」

話がどこに向かっているのかまったく予想できない。
親の話?やっぱり女ともだちと会う話か。預金通帳?秘密主義?ということはやっぱり女ともだちか。靴下?素足で帰宅?バカか。そしてこの小説で最初の、改行されて「」で括られた会話というか声。それは母親の声だ。が話はまたまた女ともだちのマンション。
こんなこと逐一書いていったらいつまでたっても終わらないが、この本筋のつかめなさを楽しめなければこの小説はきっとできない。音楽やスポーツを考えてみればわかりやすい。まず第一に、いま起きていることは何か?だ。小説だけが読み終わった事後に全体として考えればそれでいいというのはおかしい。この小説と比べて私たちはふだん何と動きの悪い思考で生きていることか。意味というのは動きの悪い思考に生まれるんじゃないだろうか。》

《ある行為なり出来事なりが起こるときには、誰か一人が原因なのではなく(日常のワイドショー的思考ではそういう特定をしたがる)、その状況にいる全員、風景の全体がそれを引き起こしている。ワイドショー的思考につく小説は読者を得やすいが、すぐれた小説は原因が特定できる思考から離れる。》

《われわれは自分自身による以外には、世界への通路を持っていないのだ。

この断想は、「それゆえ自分しか信じるものはない」とか「世界は私の目に映るとおりのものだ」というようなことを言っているわけではない。まして、「小説(芸術)とはつまるところ“自分探し”なのだ」とか「表現されたものすべてが自分の反映なのだ」と言っているわけではない。
生物としての人間が生きるこの世界に客観的で不動の真理としての「実在」やら「存在」やら「物自体」などというものはなく、それらはすべてプラトン以来の西洋哲学が作り出したフィクションにすぎない、ということを言っている。人間は自分自身以外をもってして世界と接触することができないのにもかかわらず、存在の“第一原因”というその実在を自分自身では決して確認することができないものを空想してしまった(自分だけを特別な位置に置く思想はこの“第一原因”という思考法の変形ということになる)。
しかしそのような形而上学的世界はこの世界にはない。あるのは自分自身の力によってこの世界で拡張していこうとする生命だけである。生命とは永遠不滅の“第一原因”に根拠を持つ存在ではなく、自分自身の力で成長し繁栄し没落してゆくというサイクルを運命づけられた生成である。その生成としての生命がこの世界を満たしている。》

《『肝心の子供』で描かれる風景は言語によって解釈(翻訳)することが不可能にちかい思考、または、言語によって逐一トレースすることが不可能にちかい思考なのだ。》

《風景を書こうとすると、私たちの知っている言葉や文章はものすごく貧しい。「海は青く、波は白く……」とか「たなびく雲の晴れ間から……」というような超紋切り型のフレーズならともかくとして、実際に自分の目で見ている風景の一つ一つに焦点を合わせて書いていこうとすると、私たちはそれを書くための既成の言葉を持ち合わせていないことに気づき、一節一節そのつど時間をかけて自分で言葉をひねり出していかなければならない。私たちは「自分自身による以外には、世界への通路を持っていない」はずなのに、自分自身を世界への通路として使うことが一番難しいことを痛感する。
しかし、小説家として書くときの拠り所はここにしかない。「自分自身による以外には、世界への通路を持っていない」にもかかわらず、自分自身を世界への通路として使うことの難しさを書き手として痛感するしかないような文章を書くこと。社会ですでに問題とされている題材を書くことは既知の情報だけで思考をなぞることでしかなく、因果律矛盾律や体系を前提とする思考や<主体><私>を疑わない思考の外に出ることができない。隠喩や象徴として回収されない風景を書く作業の中で、<私>までもが未知の外界の一構成要素となってゆく。》

《この風景の中で、私は空ろだが充実している。私には言葉もないし考えもない。しかしそういうことはすべて風景の中にある感じがする。
「すべてある」って、何があるのか?
それはこうしてあの風景から離れて、自分と風景の両方を客体化したつもりになっている今の私には言うことができない。しかしあの風景には何もないのではなくて、たっぷり充満している。私はあの風景を私の思考そのもののように感じる。もちろん正確には、あの風景の中にあって主は風景であり私は従だから、「私の思考はあの風景によってなされていた」とでも言う方がいいのだろうけれど、いつか、いままで経験したことのない何かに出合ったときとか、、死が近づいたときとか、ある時の夢の中でとか、私の思考はあの風景となっているのではないか。》

《最近では、アメリカ大陸やオーストラリア大陸の先住民達の叡智と出合ったり、自然や宇宙の大いなる力と出合ったりする小説も書かれているが、それらは人間・自我・私の枠組みを問わなかった小説と同じ言葉でしか書かれていないので、<あっち側>の話にしかならない。<こっち側>はそのままだ。
<こっち側>というのは「日常」ということではない。思考が科学的合理性を基本としていること。同じ言葉・同じ論理展開で説明すれば、一定以上の理解力や知識を持っている人には共通に伝わるという、透明性の幻想を共有していること。因果律・矛盾律(同一律)による思考法。形式や体系を持った思考の方がそれを持たない思考よりもすぐれているという判断。<能動―受動>という二分法や<主語―述語>という二分法による行為者の設定。
<こっち側>がそういうものではなくなれば、<あっち側>は必然的に消えてなくなる。その道筋は風景や自然にある。私はすでにじゅうぶんに解に辿り着いたのかもしれないが、辿り着きすぎたのかもしれない。解に着くのではなく、ただ辿る必要があると思う。》

《ふつう小説を読むとき、読者はいま自分が読んでいる箇所が、(1)「全体に対してどのような役割を持つか」ということと(2)「読者がいま生きている社会に対してどのような意味を持つか」という二つのうちの、せめてどちらか一つの作為を求めてしまうものなのだ。つまり、小説というのは楕円のように(1)と(2)という二つの中心点を持つ-と、こういう風な比喩を出すと、いっそう喜び、安心する人がいるだろう。比喩といっても、この比喩でしか言えないようなことでなく、たんなる言い換えにすぎないのだが。
しかし、ルーセルの小説や『肝心の子供』には、この二つの中心点=作為のどちらもない。この楕円のずっと外(ということはすでに楕円ではない)に、制御している地点がある。それはたぶん一ヶ所で複数ではない。私は“予感”とか“胎動”という言葉を使ったが、これは他の言葉にも言い換えられるようなタイプの比喩ではなく、書き手としての実感なのだ。それゆえこれは私の経験からの言葉であり、磯崎憲一郎本人に聞けば“予感”や“胎動”でない全然違う言葉が出てくるだろう。》


茂木健一郎・甲野善紀『響きあう脳と身体』(basilico)からの引用。

《甲野:身体全体を使うためには、自分自身が意識して何かをするということ自体を、ある種制御する必要があるんです。つまり、普通なら腕を上げようとすれば、腕に対して「上げよう」と命令する。しかし、そうすると腕以外の身体がその動作に参加できなくなってしまうんです。》

《甲野:武術では、ある面の感受性をあげながら、ある面では感度を切ってしまうような、ある種矛盾した状態を要請する側面があるのだということを、武蔵は剣の極意として語ったのだと思うのです。先ほどの技もある種、意識を切る部分があるわけですが、ロボットのように無意識がよいのかといえば、必ずしもそうではない。いかに状況によって意識の状態を切り替えていくかが大切だということです。》

《茂木:たとえば仕事でも、今まで会ったことのない人に会いに行く時、どうしても「こういうことを言われるのではないか」といろいろと考えてしまい、そのことによって硬くなってしまって、結果として自分を表現できなくなってしまう、ということがあります。その時に、何かを「切る」、「あえて見ない」という操作によって、かえって自由闊達で自然なふるまいができる、ということがありますよね。
社会全体を見渡したとき、今、「切る」ということがうまくできずに悩んでいる人が多いように思うんです。ひきこもりと言われている人の中には、自分の身体を含めたさまざまなものを意識的にコントロールしようとするがゆえに、かえって不自由になっている人がたくさんおられるように感じます。》

《茂木:武術でも音楽でも、すべての人に能力は潜在していて、違いはリミッターを外せるかどうかということになるかもしれません。これは僕が普段感じている印象でもあるのですが、いわゆる「才能を発揮できていない人」というのは、いろいろな意味で制約をかけている人ということになると思うんです。逆に言えば、甲野さんももちろんそうですが、才能のある人にはリミッターをうまく外せる人が多いように思います。》

《甲野:「これはおもしろいな」という強い興味を持ち続けていれば、恐怖心や余計な予測も限りなく取り払われます。「興味」というのは、宗教や哲学が扱ってきた、人間が生きていくうえでの本質的な問いにも直結するものであり、人間が持っている力の中でも、汲めどもつきぬ無尽蔵な部分、枯渇しない「力」だと思うのです。それさえあれば、狭義の体力とか技術、あるいは知識というものは、後からついてくると思います。
「自分が生きているというのはどういうことなんだろう?」、というのは誰にとっても大きな謎ですよね。それをたとえば金儲けとか、目先の見栄に気をとられて、多くの人は忘れている。でも、どんな人だって根本にはそういう謎に向かっていく興味を持っているのだと思います。たとえば遭難してどこかに流れついた時に、常々「自分が生きているとはどういうことか」ということを考えてきた人と、金儲けや、出世ばかりに関心があった人とでは対応力がぜんぜん違うだろうと思うんです。》

《甲野:人間の命というものは限りあるものですから、言わば、「生きている」ということはそれだけでリスクを抱えているんですよね。でも、今の社会は安全を追い求めるあまり、生きていることに本質的に付随するリスクというのを忘れています。「命が一番大事」なんて身も蓋もないようなことを本気で言っていると、人生、ほんとうにつまらないことになりますよ。逆なんですよ。「二つとない命を何かにかける」から、生命が高揚するわけです。それをただただ命を安全に守る、というのでは本末転倒で、そえrでは命の輝きが鈍ってしまっても無理はないんです。》

《甲野:身体というのはある種の「制限」ですよね。もし、制限するものがなくて自由自在だったら、お茶を入れるような簡単なことでも、それを思考だけで行なおうとすると膨大な情報がいる。しかし身体という、制限された「モノ」があることによって、何をしたらいいかが見えてくる。生物の進化を見ても、細菌のようなものからアメーバみたいなものになり、昆虫のようなはっきりとした形をとるまではずいぶん時間がかかっています。さらに、爬虫類や両生類、哺乳類が登場するわけですが、いずれも、「身体」という制限が基となって、新たな生き物が生まれてくる。
限定があって初めて、無数の情報が編集され、形になるわけですね。これは逆説的といえば逆説的なんですが、身体という限定によって多様なものが生まれてくるということなんじゃないかと思うのです。》

《甲野:私が最近取り組んでいる技の要点をつきつめていくと、いかにして脳が構築しようとする因果律を止めてやるか、ということでもあるんです。技を使う時には、ある独特の「考えない状態」になることをめざしている。「さあやるぞ!」っていうのは明らかに脳が命令しているわけですから、そういうふうにやると相手に止められてしまう。でも、だからといって、何かをやることはやるわけですから、まったく無意識というわけにはいかない。潜在的にはよくよく理解しているんですが、意識にはそれが上がってこないという、言葉にするとものすごく不思議な構造に頭が働くような訓練をしているとも言えます。
理屈で言うと無茶なこと、矛盾したことを要求しているわけですが、実際にはそれは当たり前のように行なわれてこそ、術と呼べるほどのものだと思います。そういう同時並列的な技を、時系列順にしかはたらかない言葉にたくそうとすることには根本的に無理があるわけで、それをとにかく言葉にしようとすると、今回、すでに何回か言いましたが本来は精妙であった術が貧弱なものにやせ衰えてしまう。つまり、現に起きている事象より論文に書きやすい限定化された事象を歓迎するという、本末転倒なことが常態化してしまっているのでしょうね。》

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by daiouika1967 | 2008-10-07 10:41 | 日記  

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