10月8日(水) 晴

昨夜食いすぎたので、今日は朝飯抜きにする。11時前に家を出て、喫茶店で、『文藝 冬号 特集:柴崎友香』の特集箇所を読む。
元SUPERCARのいしわたり淳治との対談、写真家の佐内正史との対談(グラビア付)、行定勲との携帯往復メール(写メ付)、ロングインタビュー、柴崎友香の友だち加地猛くんを迎えて保坂和志と三人での鼎談、小説「宇宙の日」(ROVOのコンサート会場のことが書いてある。ものすごい臨場感。すごい!)、青山七恵、浅野いにお、鹿島田真希、上條淳士、佐野四郎によるエッセイ、古谷利裕による論考。

ロングインタビューから引用する。
《私の小説について「日常にもドラマがある」と言われることがあるんですけど、それはちょっと違うなと思うんです。ドラマは別にないんです。ドラマを見つけて書いてるわけじゃなくて、ただ面白いと思って書いている。
言葉でくくっちゃうと「日常」になっちゃうんですけど……、ほかに言い方がないから。自分の目の前にあることが面白い。それは「日常にも隠れたドラマがある」ということではなくて、なにに近いかというと、昆虫を見た子どもが「昆虫の羽がこうなってる、楽しい!」みたい感じかもしれない。昆虫を見て楽しい人はそこにドラマがあるわけでもなくて、「こっちは羽が透明、こっちは緑、すごい!」と感動するわけですよね。それと同じで電車から外見ているだけでも面白いし、楽しいんです。そのものがそこにあること自体が、ただ、すごい。そのことが書きたい。》

まず、そのものがそのように在る、ということへの驚嘆が、ずっと持続して、ある。「そのものがそこにあること自体が、ただ、すごい」のだ。
「そのこと」を書くためには、つまり「そのものがそこにあること自体への驚嘆」を表現するには、「そのもの」をただ事物として描写しても、伝わらない。その「驚嘆」を伝えるためには、そうした眼差しをもった自分自身の、その厚み、すなわち身体性を書かなければならない。
自分自身の身体性を書くとは、自分がそこを生きる時間を書く、ということであり、それは他者、自然との関係を書くことでもある。
ただ、それは、ドラマとして収斂するのではなく、つねに、世界がこのようにあることへの驚嘆という、その地点に向けて(その地点に牽引されて)、書かれることになる。

昼飯は、喫茶店のランチのスパゲッティ。サラダ、フランスパン、コーヒー付き。

午後、生松敬三・木田元『現代哲学の岐路 -理性の運命』(講談社学術文庫)を読む。
すべての事象が因果律-理性によって解読可能だとする、啓蒙の世紀から始まる近代の索漠たる世界観のなかで、ニーチェはその世界観に対抗して、考え始める。
ニーチェは、プラトンが、事象を、形相と質量に分割した時点まで遡り、そこにこの索漠とした世界観の起源を見た。
事象が、形相と質量が分割されることで、質量は、それ自体生成変化する力をもたない、無機的な内容物としてとらえられることになる。
ニーチェは、このようなプラトンの世界観を「アポロン的」と名指し、しかしギリシャには「アポロン的」な原理と対抗する「ディオニュソス的」なるものの伝統が存在することを指摘する。
「ディオニュソス的」なるものとは、生命の生成変化を原理とする世界観のことである。そこには形相と質量の区別はなく、すべての事象が生成変化の諸相として味わわれることになる。

ハイデガーの「世界内存在」という概念、ユクスキュルの「環境世界理論」、ベルグソンの「生命論」、コフトらの「ゲシュタルト心理学」、ヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」、これらにはすべて、「われわれは自分自身による以外には、世界への通路を持っていないのだ」というニーチェの言葉が木霊している。

夜飯は、ししゃもとかぼちゃを炒めて酢で〆たもの、ご飯、たくわん、インスタントのしじみの味噌汁。
妻がネット通販で買った、竹内まりやの4枚組のベストアルバムをかけて、うつらうつらする。
12時頃いったんベッドに入ったのだが、なんだか目が冴えてしまい、起き出して、宇野浩二『芥川龍之介』(筑摩選書)を読み始める。76ページまで読み進み、2時過ぎに就寝した。
[PR]

by daiouika1967 | 2008-10-09 10:54 | 日記  

<< 10月9日(木) 晴 10月7日(火) 曇 >>