10月9日(木) 晴

秋晴れの、気持ちのいい陽気がつづく。気持ちがいい。

11時過ぎ、朝昼兼用のお茶漬けを二杯分くらいの分量、食べて、家を出た。
名駅の喫茶店で、F・フェルマン『現象学と表現主義』(木田元訳 講談社学芸文庫)を読んだ。
「訳者あとがき」に、原著者本人による内容紹介が載っている。
《この学際的な研究においては私は、1913年の『イデーン』において盛期に達するエドムント・フッサールの現象学の観念論と、文学上の表現主義とを共通の思考形態に帰一させようと試みる。それは、第一次世界大戦直前の時代の精神史的―社会史的問題状況への応答として、この時代の現実性の概念を造形した<脱現実化的実在化>という弁証法的思考形態である。フッサールの現象学的還元の理論は、この現実性の概念の哲学的方法論への翻訳にほからない。これを証示するために私は、フッサールの思考をもっとも広義の表現主義的作家たち―フーゴー・フォン・ホーフマンスタール、ロベルト・ムージル、カジメール・エートシュミット、ヴィルヘルム・ヴォリンガー、マックス・ピカート、カール・バルトら―の思考と結びつけている構造上の類縁性を跡づける。最後に私の思考形態分析は、現象学を終局的にもう一つの大きな精神的運動、つまりジークムント・フロイトの精神分析に近づけることになった還元思想の変容を追跡する。》

1919年にクルト・ピントゥスは、『未来への発言』という論文のなかで、こう述べている―《というのも、諸君が現実と呼んでいるものは、実は現実ではないからである。ましてや思想家ならばだれしもがこのいわゆる現実なるものの実在性に疑いをもったのである》。
同時代、フッサールは、『デカルト的省察』において、現象学についてのこんな定義のしかたをしている―《普遍的な自己省察によって世界をふたたび手に入れるために、われわれはまずエポケーによって世界を放棄しなければならない》。
このふたつは、同じ時代の気分、同じ精神の在りようから発せられた言葉である。著者は、ここにある時代の気分、同じ精神の在りようの内容を、「異議申し立てと黎明」とまとめている。
《この異議申し立ては、一方では、十九世紀によって生み出された社会的世界が非現実的なものだという経験となり、他方では、欺瞞的とも抑圧的とも感じられた教養俗物たちへの伝統へ向けられることになる。黎明という気分のほうは、過ぎ去った前世紀を内的に克服することが可能なのだという一般的な信念に、フォン・カーラーの適切な表現に従って言い換えるなら「戦前の社会状況から解放されようとする」衝動に、根ざしている。》

現象学も表現主義も、その時代のいわゆる「現実」なるものを、皮相なもの、非本質的なものと感じとり、それを超える方途を探っていた。
(《仮象であり現象であるような現実を突破することによって、もっと奥深いもの、いわば<その背後>にあるもの、つまりまだ隠されており、時として突発的にしか近づきえないような真の本来的な現実に達することになる。それは、古い実在からいまようやく解放されるべきある<新たな>実在なのであり、多くのばあいそれには<本質>という概念が与えられえる。したがって、欺瞞的で硬直した、単に皮相なものでしかない、あるいは無内容なものになってしまった現象が、この真なる本質に対立することになる。表現主義者は、言ってみれば実在のプラトン的なイデアを捜しもとめているのである。》)。
現実から逃れるのではなく、現実を超え、真の現実へと至ろうとする、弁証法的でもあり、神学的(否定神学的)ともとりうる探求。この探求の形が、著者のいう、現象学と表現主義に共通する「脱現実化的実在化」という「思考形態」であるということになる。

<ジュンク堂>で、鷲田清一・内田樹『大人のいない国 -成熟社会の未熟なあなた』(PRESIDENT PINPOINT選書)、宇野常寛『ゼロ年代の想像力』(早川書房)を買う。
喫茶店で、鷲田清一・内田樹『大人のいない国 -成熟社会の未熟なあなた』を読んだ。115ページの薄っぺらい本だったので、喫茶店一軒で読了する。

夕方、スーパー銭湯<喜多の湯>へ。山王の駅まで、普通電車の一駅分を歩く。青柳拓次『たであい』を聴きながら、線路のある高架に沿った道を、歩いた。
『たであい』の柔らかな音像に、時折、電車が過ぎる音が混入してくる。
風呂に浸かったときのように、お茶を一服したときのように、気持ちがほぐれてゆき、路傍の植え込みのある土に、オオバコがたくさん生えているのを見つけ、昔買っていたウサギの記憶が甦った。
食が細ウサギで、ニンジンなどを与えてもあまり食べないのに、オオバコだけはよく食べたので、弟とよくオオバコを捜しに行った。オオバコはどこにでも生えているので、遠出をせずとも、雑草が生えているようなところなら、どこでも見つかった。
そんなことを思い出していると、似たような髪型をしたおしゃれな女の子の集団が、前方から近づいてくるのに、目を奪われた。近くに美容専門学校があるので、そこに通う生徒だろう。
5時過ぎに、<喜多の湯>に着いた。

岩盤浴で寝転び、いろいろなことを構想する。想像がどんどん伸びていき、軽い全能感がわきあがってくる。
ハーブの部屋に40分、ゲルマの部屋に40分、岩塩の部屋に10分。サラサラした汗が全身を覆う。氷の部屋に入ると、全身から湯気が立ち上った。露天風呂に入って、体を洗い、食堂で夕食をとる。まぐろの山かけ定食を食べた。
妻と並び、家まで歩いて帰った。岩盤浴の後はいつもそうなのだが、体がとても軽く感じられる。秋の夜気が心地いい。
妻は家に帰り着いて、すぐに眠ってしまった。おれはパソコンを起動し、ウェブを周回していたら、気づくと3時過ぎになってしまった。

鷲田清一・内田樹『大人のいない国 -成熟社会の未熟なあなた』(PRESIDENT PINPOINT選書)からの引用。

《働くこと、調理をすること、修繕をすること、そのための道具を磨いておくこと、育てること、教えること、話し合い取り決めること、看病すること、介護すること、看取ること、これら生きてゆくうえで一つたりとも欠かせぬことの大半を、ひとびとはいま社会の公共的なサーヴィスに委託している。社会システムからサーヴィスを買う、あるいは受けるのである。これは福祉の充実と世間ではいわれるが、裏を返していえば、各人がこうした自活能力を一つ一つ失ってゆく過程でもある。ひとが幼稚でいられるのも、そうしたシステムに身をあずけているからだ。
近ごろの不正の数々は、そうしたシステムを管理している者の幼稚さを表に出した。ナイーブなまま、思考停止したままでいられる社会は、じつはとても危うい社会であることを浮き彫りにしたはずなのである。それでもまだ外側からナイーブな糾弾しかしない。そして心のどこかで思っている。いずれだれかが是正してくれるだろう、と。しかし実際にはだれも責任をとらない。》(鷲田)

《今の日本における「未成年者」は、現実の年齢や社会的立場とは無関係に、「労働し生産することではなく、消費を本務とする人」というふうに定義できると思うんです。労働を通じて何を作り出すかではなく、どんな服を着て、どんな家に住み、どんな車に乗って、どんなレストランで食事をするか……といった消費活動を通じてしか自己表現できないと思っている。》(内田)

《自立しているというのは決してインディペンデント(独立的)なのではない。インターディペンデント(相互依存的)な仕組みをどう運用できるか、その作法を身につけることが本当の意味で自立なんじゃないかな。》(鷲田)

《「あなたがあなたの意見に固執している限り、あなたの意見はこの場では絶対に実現しないけれど、両方が折れたら、あなたの意見の四割くらいは実現するよ」と説明してみるんですけれど、どうもそれではいやらしい。自分の考えが部分的にでも実現することにより、正論を言い続けて、話し合いが決裂することのほうがよいと思っている。
和解することと屈服することは違うのに。世の中には「操作する人間」と「される人間」の二種類しかいないと思っている。》(内田)

《阪大で同僚の平田オリザさんが(劇作家)が「『ディベート(議論)』と『対話』は正反対」と言っておられた。ディベートは話し合う前と後で考えが変わったら負けなんですが、対話は前と後で変わっていなければ意味がない。自分をインボルブ(巻き込む)しないと意味がないんです。ところが、対話と言いながらディベートばかりしている。》(鷲田)

《学校に来るクレーまーのうち最悪のパターンは両親が口を揃えて怒鳴り込んでくるタイプだそうです。昔は、父親が学校に怒鳴り込むと、母親がすがりついて止め、母親が激昂すると、父親がそんなに熱くなるなよと諌めるというふうに、学校のありようについての親たちの考え方の差が抑制的に機能していたけれど、今は両親の価値観が揃ってしまっている。異性の親の間にさえ価値観の葛藤がない。それでは子どもに成熟のチャンスがなくなるのは当たり前です。
核家族であっても、せめて母性原理と父性原理がきちんと機能していて、そこに価値観の「ずれ」があれば、子どもにもある程度の葛藤は担保されます。でも、たとえば一家が一丸となっての「お受験」体制なんかでは、子どもはもう葛藤のしようがない。完全に家族の価値観に同化するか、それを全否定するか、どちらかを選ぶところまで追い詰められてしまう。》(内田)

《人が成熟するというのは、編み目がぴっしりと詰って繊維が複雑に絡み合ったじゅうたんのように、情報やコンテンツ(内容)が詰っていく、ということです。それなのに今の世の中、ジャーナリズムも単次元的な語り口でしょう。すぐに善悪を分けたがる。》(鷲田)

《肉親でも知友でもなく、私と意見を共有するわけでもなく、コミュニケーションもおぼつかなく、それどころか私の自己実現を妨害し、私の幸福追求の障害となりかねないこれら「不快な隣人たち」を国民国家の振るメンバーとして受け容れること。それが現代に残された唯一の愛国心のかたちである。
現代における国民的統治とは均質集団を作り出すことではない(それは必ず国民分断を結果する)。国民を統治しようと望むのであれば、それを等身大の親密な感情や温かい共感の上に基礎づけることをどこかで断念しなければならない。
だから、愛国心を持つことは、現代においては少しも快適なことではないし、いささかの精神的高揚ももたらしはしない。それは「私人としての不快」を押し殺して「公民としての義務」に従うことだからである。》(内田)

《「自由」の概念は、社会の因襲的なくびきから解放された「リバティ」の意識として歴史的には深い意味があったが、「自由」にはもうひとつ、「リベラリティ」という言い方がある。「気前のよさ」という意味だ。「じぶんが、じぶんが、……」といった不自由から自由になることと言い換えてもよい。「自己実現」とか「自分探し」というかたちで、より確固たる自己を求めるひとが、同時にひりひりととても傷つきやすい存在であるように見えるのは、無償の支えあいという、この「気前のよさ」へと放たれていないからかもしれない。「自立」がじつは「孤立」としてしか感受しえないのも、「支えあい」の隠れた地平、つまりは家族や地域といった中間世界がこの社会で確かなかたちを失いつつあるからかもしれない。》(鷲田)

《人々がその「かけがえのなさ」に気づかず、蔑しているものに注意を促し、その隠されていた価値を再認識させる言葉の働きを古い漢語では「祝」と呼ぶ。(中略)
歌うことによって、その対象が潜在させている霊的な力を増幅させるとき、歌い手が「誰であるか」ということには副次的な重要性しかない。というのは賦活された霊的生命の恩沢は周囲全域に漲るからである。自分のなした「祝」の効果であるから、その恩沢は私ひとりが独占すべきものである、というような排他的な心ばえのものはそもそも「祝」とは無縁である。
ネット上に行き交っているのは、残念ながら、そのような「祝」の言葉ではない。それは、「祝」とは逆に、人々がたいせつに思っているもの、敬慕しているもの、価値ありと信じているものを「貶下(へんげ)」することをめざしている。お前たちが拝んでいるのは「鰯の頭だぜ」という「恐るべき真実の暴露」をすぐれて「知的に価値ある情報」とみなし、それを不特定多数の人々に、無償で宣布している自分の努力をみずから多としているのである。
このような言葉のありようを名づけるやはり古い漢語がある。ご賢察のとおり、「祝」と同語源の「呪」というのがそれである。
「不当な利益を占有している」他者が、その不当に占有しているもの(健康、家族、財力、権勢、名誉、才能などなど)を失うことを強く念じること、それが「呪」である。》(内田)

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by daiouika1967 | 2008-10-10 23:57 | 日記  

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