10月21日(火) 晴

今日もまた11時過ぎまで眠る。秋も深まって、朝晩すこしだけ肌寒くなり、眠るのにちょうど心地がいい。
水木しげるは、幸せになるためには、ないものを求めちゃいかん、ないものはないのだと気づかなきゃいかん、と語る。ないものはないと気づけば、同時に、あるものはあると気づくことができるだろう。「ないものはない、あるものはある」―そのことに気づけば、毎日は、「あるもの」との新鮮な出会いに満ちるようになる。
起き抜けに、水木しげるの言葉を思い出す。こんなに寝坊してばかりいるのはまるで水木さんみたいだな、とふと思い、それで思い出したのだろう。

昼飯は、オムレツとクロワッサン、コーヒー。食べて、家を出る。
井上陽水『バレリーナ』を聴きながら、県図書まで歩いた。今日までが貸出日になっていた本を返却しなければならない。商店街を抜けていくと、ランチに出たサラリーマンやOLがぞろぞろ歩いていた。
図書を返却し、3Fの棚(文学書、美術書、哲学書)を、一時間くらい流した。平出隆『遊歩のグラフィスム』(岩波書店)、ジョン・アンダーソン『エドワード・ヤン』(篠儀直子訳 青土社)、永嶺重敏『<読書国民>の誕生 ―明治30年代の活字メディアと読書文化』(日本エディタースクール出版部)を借り出す。
棚を流している時、中国の作家、残雪のカフカ論を見つけた。残雪の小説も何冊かあった。借りようかどうしようか迷ったのだが、とりあえずカフカの長編三部作を読み返してから、このカフカ論を借りて、ついで小説を借りよう、と読書計画を立てる。
ついでに、2Fの雑誌コーナーで『文学界』の柄谷行人、津島祐子、黒井千次の鼎談を読んだ。鼎談の中で、柄谷行人は、最近、ヘロドトス『歴史』を初めて読んで感銘を受けた、と言っていた(この時代に自民族中心主義ではなく、世界の動きを冷静に見据える視点が持てたことは、すごいことである)。
流動化しつつある現在の世界を捉えるためにも、どこにも中心点を置かない、という視点をもつことができればさぞかし有効だろう、と、読んでいてそう思う。
歴史学者や社会学者の書くものは途中で退屈になるのが常なのだが、これは最後までおもしろく読めた、と柄谷。今度読んでみよう、と思う。

伏見まで歩き、伏見のカフェ・ド・クリエで、平出隆『遊歩のグラフィズム』を読みはじめる。久保田麻琴のインド風ヒーリング音楽を聴きながら、アイスコーヒー(250円)を飲みながら、1時間くらい。
伏見から、名駅まで歩き、名駅のカフェ・ド・クリエで、続きを読み継ぐ。Tape『ルミナミウム』(北欧の哀愁のあるエレクトロニカ)を聴きながら、ブレンドコーヒーを飲みながら、1時間くらい。

《宿題のとりかかりが遅い、勉強の手順も悪い、夜更かしをする、朝、すっきりと起きられない、本を最後のページまで読まない、コーヒーを最後の一滴まで飲まない、複数のことに同時に手を染める、受信した便りへの返信が遅い、あるいは、無沙汰のままいつか失礼してしまう、机辺の整理整頓ができない、街を徘徊しはじめたら止まらない、エトセトラ。》
著者は、《そんなこんなが、大人になってからもつづいている》と言い、この資質を《直したい》と書く。冒頭で、そう書いている。
しかし、そのような資質には、相応の内実があるので、その内実を消去することはできない。その資質はそのまま、そこから詩や散文を産出する方法はないものか、と著者は歩を進める。標題にもなっている「遊歩のグラフィズム(書法、描法)」とでも呼ぶべき方法はないものか。
「遊歩のグラフィズム」は、この資質を「直す」ための方法ではない。むしろ、この資質をそのまま保つ、安易な整理を禁じるための方法でもある。
《それはゆきあたりばったりで行くという覚悟であり、金銭を使わずに目で物を買い、代わりに時間はたっぷりと浪費するという覚悟である。しかし、実際にその生活に入ってみると、ゆきあたりばったりにもまた、道筋がついてくると分かった。たえず道を逸れていくことを心掛けなければ、それは遊歩とさえならない。遊歩は危険なものである。これもまたゆきあたりばったりの原理、とばかりに決断して、誘いに乗ってついた職が、安全をもたらし、結果、あたらしいゆきあたりばったりがもたらされなくなれば、それは遊歩の終わりとなる。》

夕方、中古レコード屋69に寄って、電気グルーヴ×スチャダラパーが、2005年のサマーソニックでやったライブのDVDが出ていた。買おうかどうしようか迷っていた『石川ひとみベスト』も見つける。
さらに、栄向のブックオフへ歩く。ブックオフでは何も買わず、家に帰った。

夕飯はまたもや鍋、豚しゃぶ。毎日のように食べても、飽きない。豚の肩ロース、もやし、ささがきごぼう、豆腐、しらたき、しいたけ、最後にうどん。
食後、テレビで「さんま御殿」などを眺めて、電気×スチャのライブDVDを観た。

夜、アファナシエフによるショパン、有田正弘によるブラヴェを聴きながら、シュペンヴィエル『海に住む少女』(永田千奈訳 光文社古典新訳文庫)を読んだ。なんだか、あまり、のれないまま終わった。だが、一篇、「バイオリンの声の少女」には、成熟を前にした少女特有の複雑な魅力が詩的に表現されており、読後奇妙な味わいが残った。
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by daiouika1967 | 2008-10-22 20:47 | 日記  

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