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10月28日(火) 晴

午前中から午後にかけて、カフカ『審判』(池内紀訳 白水社)を読んだ。

夕方、<三省堂>で前から読もうと思っていた松岡正剛『誰も知らない世界と日本のまちがい ―自由と国家と資本主義』(春秋社)を買う。
夕方から、夜にかけて、ずっと読み耽った。380ページまで読み進んだ。

《カフカが描いたことは、「世界とのかかわり」は説明できないということです。「世界の枠組み」なんてあやしいもんだということです。
また、自分のことも説明できないという状景を書いている。そこにはなんらかの「変化」はあるけれど、それが社会的な意味をもつとはかぎらない。自分の実存はあるけれど、それしかないということです。》


第一次大戦後のドイツで、文学においては、カフカやトーマス・マン、ブレヒトらが表現し、哲学・思想においては、フロイトやハイデガー、アドルノを初めとするフランクフルト学派が表現した、ひとつの思考形態がある。
《第一に、近代社会は人間の「心理」という領域を侵していたということです。
第二に、しかし、人間は世界の全体を理解したり了解したりしきれないんではないかということです。それならむしろ、世界を理解しきれない「存在」や「実存」という視点から出発して、さまざまな「現象」に向かうべきだろうということです。
第三に、このようなことを確認する方法は、哲学でも文学でも美術でも音楽でも可能だろうということです。けれども、その表現は、従来の芸術を一変してしまうような様相になる可能性がある。それがカフカやブレヒトの表現になったということですね。
第四に、世界も社会も自分も、安易な「中心」をもつべきではないということです。いったん中心から離れてみてはどうかという提案です。グレゴール・ザムザは悲しい姿にはなりましたが、それによって家庭や社会の中心から「脱自」することができたんです。
第五に、存在や意識を見つめるためには、そこにまつわる夾雑物を捨てなさいということですね。存在が当初からまとうつもりもなかったものが、たくさんくっついているからです。しかし、そういうシャツを脱ぐには、そもそも空間や時間のなかに挟まれている自分というものを、その自分の場からはずしてかからないと、何も始まらないということでした。》


文学、思想、美術、音楽といった表現のジャンルを横断して、ある強力な思考形態、思考を促す磁場が働いている。
もっとも、同時代において、この磁場にあくまでも鈍感な表現も数多くあったに違いない。
あるいは、こうした思考の磁場に鈍感な表現の方が、量としては多かったのかもしれない。
現代産出される様々な表現においても、時代の現実に開かれた、それに触れることで思考の磁場に誘われるタイプの表現と、そうした磁場に鈍感な、むしろ思考の広がりを封殺するようなタイプの表現とがあるように思う。
そして量としては、圧倒的に、後者のタイプの表現が多く、優れた表現は少数でしかない。
例えば、文学においても、まるでカフカやカミュなど存在しなかったかのように書かれている作品が、いかに多いことだろう。

今日は終日読書だった。
夜、ワインを一本、風呂に入れて、ワイン風呂に入った。けっこう高級なワインで、もったいない気もしたが、どうせ飲まないのだから、取っておいても冷蔵庫の場所塞がりになるだけなのだ。
強烈な酒の匂いが立ち込める浴室で、ゆったりと浴槽に浸かる。浴後、肌がテカテカになっていた。

by daiouika1967 | 2008-10-29 09:34 | 日記  

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