11月4日(火) 晴

<ジュンク堂>で、萱野稔人『カネと暴力の系譜学』(河出書房新社)、町山智浩『アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない』(文藝春秋)、カフカ『断食芸人』(池内紀訳 白水社)を買う。

午後、萱野稔人『カネと暴力の系譜学』を読む。

読みながら、頭のどこかで、昨日読んだ栗本慎一郎と小松和彦の対話で言われていたことを、参照している。どう繋がっているのかは、はっきりしないまま(あえてはっきりさせないまま)、例えば、萱野稔人がカネを「富への権利」である、と書いているところを読んで、では、その「富」とはどういったものであるのか、栗本慎一郎が語るところを思い出しながら読んでいる。
-《すなわちモノではあるんだけれども、食ってうまいとか、それがないと生きられないとか、物理的に生きられないというモノではなくて、共同体の生存を象徴しているような、象徴的な価値があるもの、これが「富」なんですよ。生存を象徴するというのは、それがないと共同体が精神的に死んでしまうというものだ。具体的には金によって象徴したり、クジラの歯によって象徴したりというように文化によってちがうけれども、そういうものを「富」だというふうに私も小松さんも了解して使っている。》
「富」とは、「共同体の生存を象徴するもの」である。さて、ではその「富」は、どのような様態をもつものなのか。
ここに、「交換」という問題が登場する。「富」は、共同体が自らの内部から析出するのではなく、「外部」との交換からしか得ることができない。
―《社会でふたつの共同体、あるいはふたつの文化が何かを交換するというときに、精神的かどうかは知らないが、象徴的な欠損状態が生まれて、その欠損状態を補充してくれることも交換行為の中に含めているわけだ。べつに実際にお金をもってきたり、モノをもってきたりして埋めているとはかぎらないわけだ。何か不秩序が起きる。まあ、それをエントロピーというかもしれない。それをなだめてくれる、あるいは鎮魂してくれる、補填してくれるというようなものを含めて「交換」といっているわけです。》
ここから、「貨幣」の第一義的な経済機能は「支払い機能」にある、という話に繋がっていく。
―《さっきいった共同体の生存を象徴するような「富」が貨幣に転化する。その過程はたとえば穢れを祓い落とすというような祓い落としの手段、経済学的にいえば、支払いの手段というようふうにまず転化してくるものです。つまり、貨幣の経済的機能は第一に支払手段から入ってきている。》

萱野稔人がこの本で問題にしているのは、「国家」と「資本」との根源的な関係について、である。

萱野は、国家の根拠は、「暴力への権利の独占」にある、とする。近代国家は法治国家として存在するが、しかし、その法が法である(つまり法が強制力をもつ)ためには、国家が「暴力への権利」を独占しているということが必要になる。
では、なぜ、国家は、このような「暴力への権利」を独占できるのだろうか。それは、「民衆の総意」「正義」に基づいているのだろうか。そうではない、と萱野は論じる。
―《国家が<暴力への権利>を独占しているのは、社会における他のあらゆる暴力を圧倒し、<違法な>行為を取り締まるだけの物理的な力をもっているからにほかならない。要は、社会のなかでもっとも強いから、ということだ。
もっとも強い暴力を発動できるからこそ、国家は他の暴力を違法なものとして取り締まることができる。暴力が合法なものと違法なものに分割されるのは、暴力をめぐる力の差異によってなのである。暴力の法化は力の論理にもとづくのだ。》

ただ留意しなければならないのは、国家の「暴力」は、「合法的」な暴力であるという点で、他の一切の暴力とは質的に異なっている、ということである。
―《ドゥルーズ=ガタリは、国家の暴力は「あらゆる直接的な暴力に対立する」と言っている。逆にいうなら、国家の暴力は間接的なものだ。他のあらゆる暴力を違法化して取り締まるというかたちで他の暴力を迂回しないと、合法的な暴力を独占することはできないのである。
国家の暴力の特殊性がここにある。それは、他の暴力をみずからの行使の対象とすることで、たんなる力の格差を、権利をめぐる非対称性にかえるのである。》


貨幣は、「富への権利」であり、その「権利」は、「国家」によって保証されている。
―《<富への権利>を体現しているのはカネである。十分なカネをもっていれば、あらゆる商品を手に入れることができる。どれほどカネを所有しているかということが、どれほど<富の権利>をもっているかということを決めるのだ。
要するに、<富への権利>は所有によってなりたっている。カネで商品を買うということは、所有しているカネと交換にモノの所有権を得るということだ。カネを所有し、モノを所有する。これが<富への権利>の基礎にある。》


萱野は、各私人が「富を所有する権利」をもつ「資本主義」は、「国家」から派生したシステムであり、「国家」がなければ存続できないシステムである、と論じる。
―《資本主義が国家から派生してきたというのはこういうことである。まず、暴力の実践と労働の組織化が一体化している段階があり、そこでは暴力の実践をつうじて<富への権利>(所有)が公的なものとして確立される。次に、その<富への権利>が私的なものへと拡大し、人びとは政治的な諸関係のもとで土地やモノを所有するようになる。さいごに、私的所有が政治的な権利関係を凌駕することで、その私的所有のもとで労働の組織化がなされ、その成果が吸いあげられるようになっていく。
順に考えていこう。
国家と資本に共通する点とはなんだろうか。それは他人の労働の成果を自分のものにしてしまうという点だ。一方は暴力によって、他方はみずからの所有権を楯にとって、それをする。
これは大事なポイントである。というのも、ひとが働いた成果(富)を自分のものとして吸いあげるという運動こそが、社会を家族などの共同体をこえて構造化する最大の要因であるからだ。この意味で、収奪や奪取といった現象は社会のなりたちをとらえるうえで本質的な<問題>をなす。
そうした吸いあげの運動を最初にもたらすのは暴力にほかならない。暴力は他人から富を奪うもっとも手っ取り早い方法だからだ。
したがって、暴力とは社会を構造化するもっとも原初的なモーターだということができるだろう。もちろんそのためにはたんなる強奪ではダメだ。暴力による富の収奪は、権利関係を制定しながら制度化されることではじめて国家へと結実する。
つまりまずは国家による労働の捕獲があるのであり、資本主義的な労働の捕獲はその「効果」として成立するのである。
ドゥルーズ=ガタリは、資本主義をくみたてる三つの基本要素―労働・貨幣・私有制―が国家による捕獲の運動から派生してきたことを指摘している。

国家が土木工事を起すときには、公共のものではない独立した労働の流れが官僚機構から派生せずにはいない(特に鉱山と治金業において)。国家が貨幣形態における税を作り出すときには、貨幣の流れが流れ出て、その他の力能を(特に交易と銀行において)養い発生させずにはおかない。そして何よりも、国家が公有システムを作り出すときには、その傍に私有システムの流れが生まれ、公有システムのコントロールの外に流出せずにはいない。

ここで注目したいのは、国家が貨幣形態における税をつくりだしたといわれていることだ。ふつう貨幣は、交換や商業の要求から生まれてきたと考えられている。しかしドゥルーズ=ガタリによればそうではなく、貨幣は税から生まれてきた。「しかし貨幣形態が生まれるのは、交易からではなく、税からなのである」
つまり、貨幣は本来、交換よりも、富を吸いあげることのほうに密接に結びついているのだ。貨幣がモノやサービスの等価価値をあらわし、商品交換における共通の価値尺度となるのは、そこからの派生としてなのである。「一般的な法則として、税が経済の貨幣化をもたらすのであり、税が貨幣を作り出す」》


夕方、栄まで歩き、丸善で、KAWADE夢ムック『追悼 赤塚不二夫』(河出書房新社)を買って、喫茶店で読む。
執筆陣が素晴らしいムック本。タモリ、山下洋輔、足立正生、細野晴臣、石野卓球×宇川直宏、岡崎乾二郎、春日武彦、みなもと太郎、竹熊健太郎、長島有、金井美恵子、山本精一、深沢七郎、他。ほぼ読み漏らさず、ほとんど全部の記事を読んだ。
赤塚不二夫のマンガも、「クソばばあ!」「鉄腕アトムなのだ!!」「サイケ・サイケ ビーチにて」と、ドラッギーな名作が再録されている。
読んでいて、過剰と逸脱、そのことからくる笑い、恐怖に満ちた世界を夢想する、酔ったような軽躁状態になる。

夜、軽躁状態の反動で、不安感と苛立ちが混ざったような気分になる。youtubeで、細野晴臣のデイジーホリデー、坂本龍一のサウンドストリート(戸川純がゲストの回)を聴いたり、昔のアニメソングなんかを検索して過ごした。
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by daiouika1967 | 2008-11-05 21:47 | 日記  

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