11月10日(月) 晴

朝起きるともう妻は病院へ行っていた。日記つけ、パソコンを周り、そうしているうちに妻が帰ってきた。妻がマックスバリュに寄って買ってきたコロッケ三つと芋サラダ、ゴボウサラダ、食パンを食べる。食べ過ぎた。膨満感。
午後、12時から5時にかけて、名古屋~伏見の喫茶店を周って、稲葉振一郎『増補 経済学という教養』(ちくま文庫)を読む。B.G.M.は、バッハ、モンポウなど。歩数、7989歩。
<三省堂>に寄り、鈴木大介『家のない少女たち ―10代家出少女18人の壮絶な性と生』(宝島社)、田中章雄『事例で学ぶ!地域ブランドの成功法則33』(光文社)を買う。
6時。家に帰ると、風呂が溜めてあったので、とりあえず入浴する。欲後、ハンバーグを拵え、夕食。
8時、テレビで「ヘイ!ヘイ!ヘイ!」を見て(板尾が出ていた)、そのままテレビは点けっぱなしにして、鈴木大介『家のない少女たち』を読む。12時過ぎ、読了。
ベッドの中で、眠たくなるまで、杉浦日向子『百物語』(新潮文庫)を読む。妻はおれが寝ている足下で、パソコンを打っている。Pは、うんこが出ないのか、にゃあにゃあ泣いて、部屋を走り回っている。そんななか、一時前に就寝。

●デフレーション(不況)は、需要が縮小することで起こる。つまり、消費主体である家計、企業、海外がカネを使わなくなることで起こる。
家計、企業、海外は、なぜカネを使わなくなるのか。
カネには「流動性選好」があり、カネをもっていることは、人に安心を与える。
人は、モノやサービスではなく、もともとそれらの媒介手段でしかないはずの、カネ=貨幣そのものを欲望する。
その結果、カネはあっても、人がそれを退蔵したまま消費に回さない、という、需要の縮小が起こる。
安心を求める、というのは、つまり、その背景に不安がある、ということである。
家計、企業、海外が、カネを使わなくなるのは、(将来への)不安が、その背景にある。
人びとの需要を喚起する魅力のある商品が、市場に出回らない、ということもある。

人は、何を、欲望するのか。
消費という行為において、人は、根源的には、何を求めているのだろうか。
消費が、「祝祭的な時空で行なわれる過剰の蕩尽」だとすれば、不況時には、この契機が欠けているということなのかもしれない。

《おカネ、貨幣は融通無碍の力を持つ。その「何でも買える力」はインフレによって量的に下がることはあっても、質的にはそう簡単には失われない(たとえ一万円がインフレで量的な購買力が10分の1に下がり、かつての1000円分のものしか買えなくなっても、その1000円分であれば何でも買えるという力はなお失われない)。この融通無碍な力、これは一種の権力であり、経済学のほうでは特に「流動性」と呼んだりもするようだが、人や企業は時に具体的なモノ・サービスの使用価値だけではなく、この融通無碍な力、交換価値それ自体をも欲するようである。これをケインズ経済学では「流動性選好」と呼ぶ。
この考え方に従えば、デフレ、そして不況とは、人々や企業が具体的なモノ・サービスよりも貨幣のほうを、その融通無碍な力のほうを欲するようになってしまうことによって生じるわけである。いわば「流動性の罠」に経済はかけられてしまうのだ。そしてこの場合ケインズ政策は、インフレを起して貨幣のモノ・サービスに対する相対的な価値を切り下げ、人々の貨幣寄りに偏った欲望配置を、モノ・サービス寄りの方向にシフトさせよう、という戦略として理解できる。》P79


●離婚率が高まり、母子家庭が増える。母子家庭は相対的に貧困を強いられる状況にあり、母親がその貧困への耐性をもたない場合、追い詰められた母親が、さまざまなレベルで、子どもを虐待、または育児放棄するようになる(もちろん、虐待や育児放棄の動機は貧困だけではない)。
子どもは、家庭に居場所がなくなり、街へと逃避する。その子どもが「少女」であれば、街で、少女は、自分がもつ唯一の資産である「体」を売って、生き延びようとするだろう。家出少女が体を売って生き延びるための受け皿が、街にはいくつも存在する。

子どもの頃、“自分の居場所がない”、という状況を生きるのは、どれほどきついことだろうか。
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by daiouika1967 | 2008-11-11 10:33 | 日記  

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