11月14日(金) 晴

9時起床、パソコンの前で、日記をつけ、クロワッサンとスクランブルエッグ、サラダの朝食をとり、11時前に家を出た。
稲葉振一郎『「資本」論 ―取引する身体/取引される身体』(ちくま新書)を読む。
夕方、洲之内徹『帰りたい風景 ―気まぐれ美術館』(新潮文庫)を100ページほど読む。
帰りに、マックスバリュの本屋で、三浦展・柳内圭雄『女はなぜキャバクラ嬢になりたいのか? ―「承認されたい自分」の時代』(光文社新書)、大久一彦『寿司屋のカラクリ』(ちくま新書)を買う。
夕食は父の台湾土産のラーメン。スープのお湯を入れすぎて、ひどく薄い代物になってしまった。
夜、2時間テレビを眺め、10時過ぎから3時間くらい、英語の勉強をする。1時過ぎ、就寝する。

稲葉振一郎『「資本」論 ―取引する身体/取引される身体』(ちくま新書)からの引用。

《「所有」の概念を見失ってしまえば、我々は、人間以外のモノたち(生物、無生物ともに)との関係の持ち方、間合いの取り方を見失ってしまう。のみならず「剥き出しの生」として人間同士が向き合うことはともすれば危険です。何よりも個人対個人の域を超え、集団対個人の対決の場合、あるいは国家のような単なる集団の域を超えた権力体と個人とが向き合う場合に、その個人が持たざる者、「剥き出しの生」として扱われることは極めて危険です。》

《「労働力=人的資本」という観念は、ある意味では疎外です。かつて剥き出しの強制によって行なわれていた労働への動員を、形式的には対等で自発的な取引によって行なうためのフィクションとして、近代的な「労働力=人的資本」、より正確に言うなら(マルクス以前には「労働力」なることばはなかったのですから)「自由な雇用労働」の観念はできあがった、と言ってもよい。それは錯覚、ないし欺瞞である、との批判ももちろん成り立ちえます。しかしまさにその欺瞞によって、労働者は自らを守ることができる、とも言えるのです。そこで相手が直接支配しているのは、労働者の人格そのものではなく、その所有物である労働力=人的資本である、ということになっているからです。
これは一面ではもちろん欺瞞ですが、しかし単なる欺瞞ではありません。私的所有(とそれを前提とする限りでの市場経済、資本主義)の秩序は、人をまず第一に財産権の主体、財産を所有し、それをもとに他人と取引する―典型的には、財産を交換し合う―主体として扱います。そしてこのような財産所有者たちが、自らの財産権、つまり所有権とその所有する財産を取引する権利を守るために作った国家も、当然ながら人々をそうした財産権の主体として扱います。それはどういうことかと言えば、あくまでも人を財産権の行使の主体として扱い、「剥き出しの生」としては扱わない、ということです。財産権を行使し、財産というモノを使ってこの世界を生きる主体として扱うのであって、裸の動物として扱うのではない、ということです。更に極論すれば、人を「剥き出しの生」として、快楽と生存を直接追求する存在としてではなく、財産権の主体として、つまり所有している財産を守り、資産を活用する(ことを通じて間接的に生を追求する)存在として扱う、ということです。》

《語の普通の意味での無産者を、それでもなおあえて労働力=人的資本の所有者と見なすということは、身体ひとつで無一文、素寒貧の人でさえも、「剥き出しの生」とは見なさず、そうは扱わない、ということです。人に対して権力的に介入するにせよ、そうした介入はまずはその財産に対して、財産を媒介として行い、直接に「剥き出しの生」、内面、プライバシーに踏み込むことは避ける、ということです。》

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by daiouika1967 | 2008-11-15 22:16 | 日記  

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