12月5日(金) 雨のち曇

朝起きると、もう8時を過ぎているのに外が暗くて、しばらくベッドのなかでぼんやりしていると、窓に稲光が光った。次いで、ゴロゴロゴロゴロ、と、猫が喉を鳴らすような音。朝から珍しいな、と思っていると、Pが枕元にやってきた。おれが目覚める気配がすると、Pは必ず近寄ってくる。
しかしそれにしても、べつに音を立てているわけでもないのに、なぜPには、おれが目を覚ましたことが分かるのだろう。瞼の開く音がするのだろうか。まさか。
Pに餌をやって、英語の勉強を1時間くらいやって、卵かけご飯とインスタント味噌汁の朝昼兼用の食事をとった。

午後、名駅の喫茶店で、松岡正剛『白川静 ―漢字の世界観』の残りを読みきった。
読後、ジュンク堂に行き、白川静の本をさがし、何冊かあるなかから、まずは『文字逍遥』(平凡社ライブラリー)を選んだ。いっしょに、木田元『なにもかも小林秀雄に教わった』(文春新書)も買った。
小雨がぱらつくなか、図書館まで歩き、一階のデスクで、木田元『なにもかも小林秀雄に教わった』を読む。途中、30分くらい、机につっぷしてうつらうつらする。どうもやはり、慢性的に睡眠が足りていないようだ。

内田樹は、「白川静から学んだ2、3のことがら」というエッセイ(『昭和のエートス』(basilico)所収)のなかで、『白川先生の漢字学は、古代中国において、地に瀰漫していた「邪悪なもの」を呪鎮することが人間たちのおそらく最初の知的営為であったという仮説の上に構築されている』と論じている。
―『おそらく古代の人々は中国でも、あるいは万葉古語の日本列島でも、身体を震わせ、足を踏み鳴らし、烈しく歌い、呪い、祝ったのであろう。そのようにして人々は生命力を賦活し、減殺するために死力を尽くした。そのときに人々が発していた言葉はほとんど物質的な持ち重りと手触りを持っていたはずである。それは観想的主体の口にする「われ思う」という言葉の透過性、無重力性、非物質性、中立性と、考え得る限りもっとも対蹠的なところにある言葉である。
言葉がそれだけの重みを持った時代がかつてあった。それは白川先生のロジックを反転させて言えば、人間がそれだけの重みを持った時代があったということでもある。人間の発する烈しい感情や思いや祈念が世界を具体的に変形させることのできた時代があったということである。そして、そのような時代こそは白川先生にとって遡及的に構築すべき、私たちの規矩となるべき「規範的起源」だったのである。』


言葉は世界を分節する原理だが、その分節を促す力能の根源には、人間の抱える「呪われた部分」が存在する。
人間の知的営為は、すべて、この「呪われた部分」と、どのように折り合いをつけるのか(「身体を震わせ、足を踏み鳴らし、烈しく歌い、呪い、祝う」)という動機に基づいてなされるのである。
白川静の漢字学は、おそらく、つねにこの「根源」を見つめて構築されたものなのだろう。

そうした観念が頭にあって、木田元『なにもかも小林秀雄に教わった』を読んでいたら、「言葉は存在の家である」というハイデガーの言葉が出てきて、そこでさらに思考にドライブがかかった。
ハイデガーはこう言っている-『人間は、単に他のさまざまな能力と共に言葉をもっている一個の生物といったようなものはない。むしろ言葉は存在の家なのであり、人間はそこに住みながら、おのれの外に出で立ち、……存在の真理に帰属しているのだ。』
このことについて、木田元による解説的な文章があるので、その箇所を引いておく。
―『一般に動物は、多少の幅はあるにしても<現在>だけに生きている。しかし、神経系の分化が進み、ある域を越えると、その<現在>のうちにあるズレが生じ、<過去>や<未来>と呼ばれることになる時限が開かれ、いわば時間化が起こる。
そうなると、現に与えられている環境構造に、かつて与えられたことのある環境構造や与えられるであろう環境構造が重ね合わされ、それらがたがいに切り換えられて、そこに複雑なフィードバック・システムが形成される。
こうして、現在与えられている環境構造をおのれの可能な一つの局面としてもちはするが、けっしてそれに還元されてしまうわけではない<世界>というもっと高次のこうぞうが構成されることになる。このとき、単なる生物学的環境を越え出て、この<世界>に反応して生き、いわば<世界内存在>する現存在(人間)が誕生するのである。
それと共に、一般の動物のように、環境のうちに現に与えられている刺戟やその代理刺戟つまり<信号>にだけ反応するのではなく、そうした信号を足場にしてさらに高次の記号つまり<シンボル>を構成し、それによって行動を起したり、続行したりするシンボル行動ができるようになる。シンボル操作としての言語活動もこの段階ではじめて可能になるのである。そのシンボルとしての言語の自己分節が、世界を分節し、分化していくのだ。
<存在了解>も同じ事態に結びつく。ハイデガーは<存在了解>を<存在企投>と呼ぶこともあるが、こちらの方が分かりやすいかもしれない。<存在企投>とは、現存在が生物学的環境を<超越>して、つまりほんの少しそこから脱け出して、<存在>という視点を設定し、そこから自分がいつも生きている環境を見なおすことだと考えてよい。』


ドライブのかかった思考は、さまざまな固有名に伸び広がり、読みながら、この本に登場する、小林秀雄、保田與十郎、ランボー、リルケ、ニーチェ、ハイデガー、ドストエフスキー、キルケゴール、そしてさらにこの本で取り上げられているわけではないが、バタイユ、ブランショ、レヴィナス、そして、白川静、折口信夫といった人たちの著作を、片っ端から読みたくなる。
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by daiouika1967 | 2008-12-06 11:32 | 日記  

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