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3月27日(木) 晴

午前中、名駅の喫茶店で、鈴木宗男・宮崎学・西部邁『日本と戦う』(講談社)を読んだ。3人に共通するのは、小泉政治に象徴される「ポピュリズム」への対抗意識である。
政治家がなぜ「ポピュリズム」に流され、大衆に受けのいい軽佻な言葉をしかしゃべることができなくなるか。それは、その言葉を裏づける身体性(西部の言葉で言えば「根本感情」)を、その政治家が持っていないからそうなる。

―「西部:僕みたいに六十何年も生きてきてつくづく思うのは、やっぱり人間にとって、根本感情というものがいかに大事かということなんです。揺るがぬというか、そう簡単に動かない感情というものを、その人がどういう風に持っているかということが、本当に決定的で致命的だなと。その点で信頼が置けない、納得できない人間とはですね、付き合っていても無駄だなと思うことが、もう頻繁にある。
苦労知らずで育った人間のセリフとか、あるいは保育器に入れられたようにして育った学者の言い分とか、あるいは世論の人気に支えられているような政治家の話なんていうものは、たちどころに化けの皮が剥がれるんです。ただ世論そのものや、学会も含めて日本社会そのものがどこか上調子ですから、せっかくその重い感情、揺るがぬ理屈を述べたてても、ものすごく歩留まりが悪い。一万人に一人くらい覚えていてくれるかな、というぐらいのもんで」。
たとえば、宮崎学の言い分には、それに組するかどうかは別として、いつもその発言をこの「根本感情」が支えている。だから、彼の言葉には、論理的というだけではない身体的な一貫性があり、おれなどはそれで説得されてしまうところがある。

―「西部:地頭とはね、地面の地という字にひっかけまして、『経験の大地』とでも言えばいいんでしょうかね、つまり、経験世界とか感情世界というものが大地のように存在する。むろん、必ずしも肥沃な大地だけじゃありませんからね、荒涼たる不毛の大地も含めて、そういうところで人間は生きている。そして言葉も、そこに広く深く根を張りながら植物のように成長していく。その経験の大地に根ざした言葉を、佐藤優さんなんかも地頭と表現したんだと思う。
だから地頭がないというのは、やっぱり人生の経験がないというか、人生の中で社会の広さ、複雑さということを感じる機会がないということなんじゃないですか。そういう人たちが政治の世界にも増えている」。
政治とはこの地頭で勝負する者同士がぶつかりあう権力闘争のことであり、だからそこには切迫したドラマがあるはずなのに、今国会中継を見ていてそんなドラマを感じることは微塵もない。今の国会は、地頭のない政治家が、空疎なおしゃべりをしているだけの、退屈な場所になってしまった。

午後。丸の内の喫茶店で古い友人のK氏と待ち合わせ、K氏はランチを食べながら、おれはダイエット中なので野菜ジュースを飲みながら、1時間ほど雑談をした。
K氏と別れ、県図書館に寄った。2Fの雑誌コーナーで、何冊かの雑誌のなかから気になる記事を選んで読んだ。『文学界 4月号』から、中原昌也・滝本誠一の映画評、高橋源一郎が司会で岡田利規、河上未映子、車谷長吉、島田雅彦、諏訪哲史、田中弥生、筒井康隆、中原昌也、古井由吉、山崎ナオコーラが出席した文芸座談会。
島田雅彦と中原昌也が同席している。中原昌也は『KKKベストセラーズ』のなかで、島田雅彦を実名をあげて攻撃している。その二人がどう絡むのかな、とちょっと興味があったのだが、思いのほかあっさりとした、むしろ和気藹々とした雰囲気で拍子抜けしてしまった。座談会は、議論が戦わされるというより、「小説の現状について」「今後の自分の創作について」といったテーマについて高橋源一郎が順番に聞いていく、という感じで進行していた。
『中央公論 4月号』から養老孟司・藤原智美の「キレ老人はなぜ増えたか」という対談、雨宮処凛・佐藤優の「プレカリアートの悲惨な現状」についての対談。『談 4月号』から、春日武彦のインタビュー。物事の細部に注目することを通して、世界の意味の多様性が開けていく、その快感について語られていた。

名駅まで歩き、<ジュンク堂>に行って、安富歩『生きるための経済学 ―<選択の自由>からの脱却』(NHKブックス)、内山節『戦争という仕事』(信濃毎日新聞社)を買った。
喫茶店で安富歩『生きるための経済学 ―<選択の自由>からの脱却』を読み始めた。105ページまで読み進んだ。

帰りにマックスバリュに寄り、妻が作るスープの具材を買って帰った。
夕食はスープとサンドイッチ。
夜、中沢新一・波多野一郎『イカの哲学』(集英社新書)を読んだ。12時過ぎ、就寝。
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by daiouika1967 | 2008-03-28 09:36 | 日記  

3月26日(水) 曇

昼前に起き出して、とりあえずパソコンを起動し、サイトを周って、日記をつけ、朝昼兼用でソーメンサラダ(キャベツの千切りときゅうりの小口切りのサラダに茹であげたソーメンを乗せてゴマドレッシングをかける)を拵えて食べ、…それから、リクライニングチェアに凭れて、柴崎友香『次の町まで、きみはどんな歌をうたうの?』(河出文庫)から、表題作の「次の町まできみはどんな歌をうたうの?」を読んだ。

登場人物は視点人物の「おれ」と、おれの友だちの「コロ助」と「恵太」、そして「恵太」の彼女で、「おれ」が思いをよせている「ルリちゃん」の4人。おれは今これを本を調べることなく書いたのだが、記憶力の悪い(忘却力を誇る)おれが、一読しただけで虚構の人物をこれだけ覚えているということは、それだけ各キャラがくっきり描けているということだ。4人は、際立った特徴があるわけではない、ごく普通の若者たちである。そのごく普通の若者たちを、これだけ「くっきり」した印象を残すように描くというのは、とても高度なテクニックが必要なのではないかと思う。この小説は、ほとんどが、この4人が大阪から東京へ向かう車中の場面で展開する。大仰なドラマは何も起こらないのだが、人物がしっかり書き分けられていることで、それぞれの人物同士の関係性もクリアになり、そこには既に豊かな「ドラマ」が潜在している。何か「衝撃的な事件」が起こることがドラマなのではなく、人物同士の関係性がしっかり描かれていることこそが、真の意味での「ドラマ」なのである。

夕方。妻と名駅からJRに乗って岐阜へ向かう。中国障害者芸術団による公演『千手観音 My夢Dream』を観に行った。名古屋公演のチケットは売り切れて買えなかったので、岐阜の長良川国際会議場での公演のチケットを取ったのだ。
客層は中高年中心の老若男女。けっこう広いホールだったのだが、客席は満員になっていた。公演は6時半から、約2時間。内容は舞踏、歌、器楽演奏、京劇。こうした構成のレヴューは、こちらの興味を牽引してくれる筋立てが何もないので、ただそれぞれの場面のスペクタクルに目を奪われていればいい。綺麗といえば綺麗、退屈といえば退屈な2時間だった。
名駅に帰ると、9時過ぎになっていた。高島屋のレストラン街に行き、<トラジ苑>で焼肉を食べた。家に帰ると、11時前になっていた。
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by daiouika1967 | 2008-03-27 10:35 | 日記  

3月25日(火) 晴

腹が減って目が醒める。ダイエットを始めて、2日目、3日目辺りは、空腹感がきつい。ただ、どこか気分は爽快で、空腹感を感じるのも悪くないな(飢えまで行かなければ)、と思う。
今日は、妻が通っている婦人科におれの精子を持っていかなければならないということで、朝から精液の採取作業をした。できるだけ直前に採取するのが望ましいので、妻が出かける9時まで15分となったところで、採取作業を開始する。出支度を済ませた妻に、ペニスを手でしごいてもらった。おれは眉間に皺を寄せて集中し、10分くらいで射精に成功した。
妻が出かける前に昨日のスープを温め直してくれた。朝食はスープと黒糖パン2個。
パソコンを起動して、1時間仕事をこなし、10時半頃に家を出た。

名駅の喫茶店に入り、3件ほどハシゴしながら、斉藤環『心理学化する社会 ―なぜ、トラウマと癒しが求められるのか』(PHP研究所)を読んだ。
読みながら、「なんだか以前に読んだことがあるような…」と思い始め、最後まで白黒分からないまま読み了えた。おれはときどき、昔読んだ本を、読んだことを忘れて再度買ってしまうことがある。読み始めてすぐに「あ」と気づく場合もあるし、最後まで読んでも「なんとなく読んだような気もする…」と判然としないこともある。かなりのめりこんで読んだ本でも、その記憶がすっぽり抜けているようなこともある。江戸学者の田中優子に『江戸の恋』という名著があるのだが、おれはその本を、そんなふうにして2度読んでいる。おれは、読書中気になった箇所があると、ページの端を犬耳折りにするようにしている。『江戸の恋』を読んだときは、気づかないまま、2度とも全く同じページを犬耳折りしてあった。

さて、『心理学化する社会』。これは、俗流心理学の図式的な説明によって、さまざまな現象を分かったような気分になってしまう、という風潮への批判の書である。

―「フィクションならフィクションでのトラウマの扱い方が、あまりにも直接的かつ図式的になっているのではないか、という懸念があるのだ。悪いのは『トラウマ』ではない。その取り扱いが、一種の紋切り型としてパターン化されていく過程のほうが問題なのだ。そして、予測可能なパターンのこれほどまでの蔓延は、それが作家の怠惰でなければ、物語の堕落以外の何ものでもないだろう」。
物語の堕落」。本田透が「ケータイ小説」を批判するのも、「ケータイ小説」が、この「予測可能なパターンの蔓延」に侵されているという点に対してであった。どんな現象にも「わかりやすい説明」を求め、誰にでも性急な「共感」を求めようとする人びとの心性。その心性に媚びて創作する作者が、「物語」を「堕落」させる。
これは純粋なフィクションに限った話ではない。例えば日々起こる事件に対して、心理学者がそれらしい説明を与える。そのことも、「物語の堕落」に加担しているのではないか。

―「トラウマを扱う際の最大の原則は、『トラウマそのものを直接に描いてはいけない』ということに尽きるだろう。なぜならトラウマが効果を発揮するのは、それが常に『覆われた状態』において、であるからだ」。

2時過ぎに読み了え、喫茶店を移動し、車谷長吉『物狂ほしけれ』(平凡社)を読んだ。喫茶店を2件ハシゴして読み了えた。
「徒然草」を引きながらの随想「徒然草独言」と、「反時代的毒虫の作法」と題された人生論的なエッセイ。何箇所か、抜粋する。

―「早く死にたいな。私はそう思う。いま私は六十一歳であるが、数年前からそう思うている。この先、長生きしても『いいこと』など何もないのである。昔、文学賞をもらったりすると、それまで私のことを小馬鹿にしていたやつばらを見返してやったような気分にもなったが、併しみんな死んでいくのである。それが自然の摂理である。とは言うものの、人に殺されるとか、自殺するのは厭である。事故死も厭である。自然の理にかなった形で死にたい」。

―「我われがこの世でお金を得る手段としては、次ぎの六項目がある。
①労働力を金に換える。この中には売春もふくまれる。労働力を金に換えるということは、働くということである。時間をつぎ込み、時間を失うということである。
②財産・不動産を運用する。郵便貯金・銀行貯金の利息、株券の配当、家賃など。
③人から贈与される。人から金をもらうこと。たとえば子供は親から金をもらって学校へ行く。九割九分の場合。
④人が所有している金を横奪する。つまり強盗・泥棒になること。また合法的、非合法的に人に金を出させること。つまり詐欺事件。ピンハネ、やくざ組織の上納金なども。道に落ちている金を警察に届けない。猫ばば。
⑤賭博に勝つ。競馬、競輪、競艇、オートバイ・レース、麻雀、パチンコ、賭け将棋、賭け碁などに勝つ。宝籤。
⑥人から借金をする。普通は返済の義務が付いて回るが、中には車谷さんのように返せない人もいるし、返す意志がない人もいる。
いずれにしても、これは自己と他者との関係性の問題に帰着する。①の労働力を金に換えるというのは、雇い主と雇われ者との関係性になって、労働組合があっても、給与が少ないとかどうとか言うて、揉め事になる。⑥の人から借金をすれば、逆に言えば人に金を貸せば、半分以上は揉め事になる。③の人から贈与されるというのも、子供の頃、親から金を出してもらって学校へ行っている間は揉め事は起こらないが、これが学校を出て十年近くが過ぎ、三十歳くらいになって、親に『五万円くれ。』と言うと、しばしば揉め事が起こる。そして親を殺して、金を奪ったなどという事件が起こる。
金に纏わる揉め事は、切りなくある。小説はこの①から⑥までの、金に関する揉め事を書くのである。自己と他者との関係性、会社の上司と下役、夫婦関係、友達関係、その他の関係、電車の中でたまたま隣に座った者同士の関係、そういう関係性の中で、金にきれいな人、金に汚い人、金に無頓着な人、金に無関心な人、さまざまな人が出て来るのである。
生活に必要な銭の高は、誰にあってもおぼろげながら、併しおのずからはっきりした額で知れており、その額よりは『少し多め』か『少し少なめ』かのあわいを漂うているのが、大部分の人の生活である。『少し多め』をいいと思うている人もいれば、『少し少なめ』の方がいいと感じている人もいる。何をいら立つことがあろうか、と思うのは、浅はかな考えであって、人はその『少し多め』『少し少なめ』の生活を維持するために齷齪(あくせく)し、いや、齷齪せざるを得ないのである」。

―「人間の関係性というものが、スムーズに行くわけがない。だいたいぎくしゃくする。なぜぎくしゃくするかと言えば、人間の中には欲望、煩悩というものがあって、こうしたい、ああしたい、という欲望が誰の中にもある。それがそれぞれの中で、てんでばらばらにあるから、うまく行くわけがない。そこで衝突が起こる。そういうことを書くのが小説です」。

―「私はこと金に関することでは、嫁はんに愚痴、小言、泣き言、注意、苦情、指導、文句を言うたことは一度もない。嫁はんもこと金に関しては、愚痴、小言、泣き言、注意、苦情、指導、文句を言うたことは一遍もない。金に関しては『正しい意見』を言うと、関係が破壊されるのである。破壊されないまでも、気まずい関係になる。だから、たがいに言わないで来た」。

―「うちの嫁はん(高橋順子)の『時の雨』『貧乏な椅子』を読んでいただければ、よく分かるのだが、その八割は私のことをモデルにして、詩を書いている。結婚するまでの詩に較べて、深み、奥行きが出て来た。なぜそうなったか、と言えば、他者が生まれたのである。他者性が出て来たのである。他者とは何か、と言えば、決して自分の思うようには動かない男、または女、ということである。それが他者である。だから嫁はんは私と同居していて、絶えずいら立っている。『漬物を食べなさい。』『お風呂に入りなさい。』『くうちゃん、ちっとも私の言うことを聞いてくれない。もうッ。』絶えず愚痴、小言、泣き言、注意、苦情、指導、文句、嫌がらせ、を言うている。そういう『日常』を詩にしているのである。つまり私を『芸のこやし』にして、文学賞をもらっているのである」。

文学者のエッセイと、学者のそれでは、なにが違うか。文学者のエッセイには、幾つもの無根拠な断定、飛躍、過剰な描写や例示などが含まれており、そこに書いている人間の身体性が突出している。文章に身が備わっている。その身の不透明な厚みが、読んでいるこちらに独特の味わいをもたらしてくれる。学者の書く文章は、なめらかだが、そのような味わいが感じられることは少ない。

夜飯は、スープと冷奴、パンを一個。腹筋、腕立てをやった。
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by daiouika1967 | 2008-03-26 12:37 | 日記  

3月24日(月) 雨のち晴

9時過ぎ、起床。朝食はキャベツ、キュウリ、ハムのサラダ、インスタントスープ、黒糖パン。10時半に家を出た。朝降っていた雨も、おれが家を出る頃には止んで、涼しい風が吹いていた。

午前中は、クライアントとの打ち合わせがあった。広告屋としての仕事である。広告屋としてのおれは、自分がチンドン屋の成れの果てであるという自覚のもと、普段より温度の高いアッパーキャラを装っている。
2時間も打ち合わせがつづくと、最後の方では、自分で自分のキャラに疲れて、提案もかなり投げやりなものになる。
しかし、本当はこの投げやりになってからの提案が一番面白いのである。その場では馬鹿笑いが起こるのだが、いつも「でもムリだよねえ」とあえなく却下、無難な案が通ることになる。

打合せを終え、さて、と一息ついていると、妻からメールが入ってきた。「今病院が終わったところ」とのことだったで、落ち合っていっしょに昼飯を食べることにする。
蕎麦屋に入り、とろろせいろを食べた。
食べ終わってから、妻が、持っていた紙袋からガサゴソ、「これ、買ってきた」と、夏用のハンチングをくれた。内側がメッシュ仕様になっていて、かぶってみると確かに通気性がいい。妻にはプレゼントの才能があって、「そういえば、気づかなかったけど、ちょうどこういうのが欲しかったんだよな」―彼女からプレゼントを貰うと、いつもそう思う。

午後。喫茶店で、本田透『なぜケータイ小説は売れるのか』(ソフトバンク新書)を読み了えた。

ケータイ小説でくりかえし描かれる紋切り型の物語―主人公は、どこにでもいそうな“リアリティのある”私。その私が現代の社会によくあるような“等身大の”イベント(売春、レイプ、妊娠、薬物、不治の病、自殺)を経巡り、しかし最終的には「真実の愛」によって「救済」される。
ケータイ小説とは、けっきょくのところ、「自己救済」を求める長ったらしい「私語り」にすぎない。
「私によって語られる私の救済の物語」―そこには「私=物語」を疑い、相対化する「自意識」というものがない。
そこには、「自己愛」に満たされた「自己救済の物語」があるだけだ。
だから、ケータイ小説は、主に「自意識と社会との葛藤」をめぐって書かれてきた近現代の「文学」とは、まったくその性格を異にする。
「自意識」とは「私」を「他者」の眼差しで見ること、すなわち、「私」をひとりの「他者」として捉える視点を持つことを意味する。
ケータイ小説のなかには、そのような「他者」は存在していない。

ケータイ小説に存在するのは「私という物語」のみ。その世界には、「私」に親和的な事象、観念のみが存在することを許されている。
なんて、息苦しい閉塞感!―しかし、ケータイ小説を求める少女たちは、その自己愛に閉塞した世界を、息苦しさを覚えることなく、むしろ癒しを与えてくれるものとして享受しているようなのだ。

著者は、そのような少女たちのありようを否定するスタンスは取らない。
「自意識」を突詰めれば、そこにあるのはニヒリズムの世界でしかない。
ケータイ小説をバカにする、自意識旺盛な、例えば2チャンネラー達は、ケータイ小説を愛好する少女たちよりマシな人生を歩んでいると言えるのだろうか。
ケータイ少女にのめりこむ少女たちは、2チャンネラー達が言うように、「ただバカだから」ケータイ小説にのめりこむのではない。
彼女たちはケータイ小説にのめりこむことで、この現代社会を覆い尽くしているニヒリズムから逃れようと欲しているのである。
彼女たちが抱える、その欲望そのものは、否定されるべきものではない。

ケータイ小説を支える欲望のありようは否定されるべきものではない。
「私」を「語りたい」という欲望。「私」を「語る」ことを通して、「世界」を再編成したいという欲望。その欲望を生きることは、ニヒリズムを克服し、人間の生を意味で満たすことに繋がるものなのだ。
しかしながら、と著者は批判する―ケータイ小説は、今のところ、紋切り型の物語を再生産して自足しているだけの代物でしかない。
ケータイ小説は、今のところ、既成の価値観、既成の物語を縮小再生産するだけの、「小さな物語」しか生み出していない。
―「この『小さな物語』は、過去の『大きな物語』の反復再生産であるから、テーマもプロットも常にワンパターンの反復になる。ゆえに『文学的』にはほとんど価値がない。しかしそれでも、『小さな物語』は求められ続ける。その理由は、
1 崩壊しつつある過去の『大きな物語』を延命させるため
2 その延命により、各個人の『私の物語』が崩壊することを防ぐため
この二つである。
つまり、文学的に見れば『現状維持』『保守回帰』のための物語である。
だからこそ、ケータイ小説では『七つの大罪』(売春、レイプ、妊娠、薬物、不治の病、自殺、真実の愛、といった“等身大の”イベント)が繰り返され、『真実の愛』が最後にとくとくと語られてヒロインは救われなければならない。
とりあえず、読んだ人間だけが一時的に救われた気分になれれば、それでよしとするジャンルなのだ。小乗仏教的といえば小乗仏教的なのだ」。
しかしこれでは、例えば「『人格改造セミナー』を受けて一時的にポジティブな自分を味わえました」といった体験と、なんら変わりがない。

文学や哲学の本来的な使命、機能とは、どのようなものなのか。「閉塞した社会を一挙に回復させるための、まったく新しい物語を生み出すこと」である、と著者は言う。
「新しい物語」など、そう簡単には生まれるものではないが、すくなくとも、それを希求しつづける意志を持つことが大切なのである。
紋切り型に自足するケータイ小説の作者―読者は、いまのところ、そのような意志は持っていないのではないか。

夕方、<マックスバリュ>に寄り、キャベツ、セロリ、玉ネギ、ホールトマト、ニンニク、ピーマンを買って帰った。
最近体重が際限なく増えていくので、今日からダイエットすることにしたのだ。妻特製の野菜スープを拵えてもらい、夕飯はそのスープのみ。
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by daiouika1967 | 2008-03-25 09:27 | 日記  

3月23日(日) 曇のち雨

10時半まで眠った。起きて、うどんを拵えて、妻とふたりで食し、昨日借りてきたDVDを観る。
まず、『M』。廣木隆一監督の映画は以前に寺島しのぶ主演の『やわらかな関係』を観ている。その時も思ったのだが、この監督の映画は、画面の切り取り方に絶妙の味わいがある。田舎の県道のようなつまらない景色が映っていても「いい」のである。
次に、『インベーション』。監督は『es』のオリバー・ヒルシュビーゲル。ジャック・フィニィ『盗まれた町』の4度目の映画化である。『ボディ・スナッチャーズ』のリメイクということになる。前3作については、おれはまず、2作目になる1978年公開のドナルド・サザーランド主演『ボディ・スナッチャーズ』を、リアルタイムで観た。これは、人間の体が他の生物と溶け合うように変容するSFXが衝撃的で、強く印象に残っている。それから、かなり後、DVDが普及した頃になって、ドン・シーゲルが監督した1956年公開の1作目を観た。前後の記憶が定かではないのだが、この1作目を観たのと同じようなタイミングで1993年アベル・フェラーラ監督『ボディ・スナッチャーズ』を観ている。1956年の1作目と、約40年を経て製作された1993年の3作目とでは、特撮技術はもちろん比べるのも馬鹿馬鹿しいほど3作目の方がすぐれているのだが、では映画としてどちらが面白かったかといえば1作目の方なのだ。ドン・シーゲルとアベル・フェラーラという二人の監督の才能の差によるものである。それで、4作目になるこの『インベーション』だが、ううん、観ていてちょっと眠たくなってしまった。この眠気が、映画が退屈だったから、ということなのか、おれの体調的なものなのかはよく分からない。今もまだちょっと眠たい。
続けて、タランティーノ監督『デス・プルーフ』。これは文句なく楽しめた。観ているあいだは眠気もふっとんで、映像に没頭してしまった。CG一切なしのカー・アクション。70年代によくあったスタントマンによるカー・チェイスのスリルがそのままに再現されていた。

3本映画を観たら、あっという間に夕方5時過ぎになってしまった。近所のスーパーで助六寿司、鉄火巻き、ししゃものフライを買ってきて、夕食にした。
夜は、テレビを眺めて、ネットを周って、ぼんやりと過ごした。12時過ぎ、就寝。
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by daiouika1967 | 2008-03-24 00:05 | 日記  

3月22日(土) 晴

午後。<タワレコ>に行き、SEEDA『HEAVEN』を買う。ついでに、ジューシィ・フルーツ『ゴールデン・ベスト』DVD鈴木清順監督『ツィゴイネル・ワイゼン』
それから単行本半額キャンペーン中の栄向の<ブックオフ>に行き、車谷長吉『物狂ほしけれ』(平凡社)、中野翠『小津ごのみ』(筑摩書房)、丹下健太『青色賛歌』(河出書房新社)、DVD『ホステル』。
ついでに<GEO>にも寄って、DVDを3枚借りた。タランティーノ監督『デス・プルーフ』、ニコール・キッドマン主演『インベーション』、廣木隆一監督『M』
その後、<マックスバリュ>まで歩き、ギョーザを買って帰った。
昼過ぎに家を出て、5時過ぎに家に帰るまで、音楽を聴きながら、ブラブラして過ごした。なんとなく集中力がなくて、読書する気分にもならない。音楽が気持ちいい。
夜も、ぼんやりとテレビを眺めたり、Pと遊んで過ごした。
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by daiouika1967 | 2008-03-23 21:55 | 日記  

3月21日(金) 晴

今日は久しぶりに仕事がいくつかある。10時半頃家を出て、ヒルトンのロビーに向かった。上着を着ていると暑いくらいの陽気だった。昨日買った鈴木慶一『ヘイト船長とラヴ航海士』を聴きながら歩いた。素晴らしい!アルバムだ。
ヒルトンのロビーで、健康関連商品のブローカーをやっているAと会った。胡散臭さを煮詰めた煮凝りのようなおっさんだ。
以前おれはこのおっさんとの仕事のなかで、50万円くらいの損失を被っている。「話が違うだろう」と詰め寄ると、おっさんは、「申し訳ない、いやっ、ほんとうに申し訳ない。すいませんっ」と、唐突にフロアに座り込んで土下座をしたのだった。場所はヒルトンのロビー。周りは見て見ぬ振りをしている。それでも何かざわめいた気配が広がっていくのが分かる。おれはスポットライトを浴びているような恥ずかしさと、奇妙な高揚感を感じながら、精一杯冷静な口調を装って、「謝ってもらってもなぁ。何か埋め合わせしてくれないと」と告げたのだった。
その後、不本意な形ではあったが、一応「埋め合わせ」はされた。だから、とりあえず、現在も付き合いが続いている。あくまでも、とりあえず、である。
コーヒーを飲みながら、1時間くらい話した。胡散臭さの煮凝りが、胡散臭い息を吐きながら、胡散臭い話をするのに、おれは、話に乗ったり、逸らしたりしながら、のらりくらりと受答えしておいた。コーヒー代は相手持ち。

昼飯にエビピラフを食いながら、『ミュージックマガジン』に目を通す。もうすぐ7年ぶりで電気グルーヴの新作が発売される。あと、SEEDAという日本人ラッパーが気になった。聴いてみたい。鈴木慶一と曽我部恵一の対談も載っていた。今回のアルバム、鈴木慶一が歌詞、音の素材を作って、それを曽我部恵一に投げ、楽曲編成などの編集作業は、すべて曽我部恵一が担当したのだそうだ。鈴木慶一が、「俺の作る曲が、A、B、C、D、Eくらいまで行っちゃうのを、曽我部君が全部バッサリ切って、Aに帰るように再構築してくれた」と言っていたのが、さっき聴いた印象と照らして、なるほど!と思われた。

午後は、3時からK君との打ち合わせがあった。待ち合わせている名駅西口の喫茶店に行って、待ち合わせまでの1時間、本田透『なぜケータイ小説は売れるのか』(ソフトバンク新書)を読んだ。120ページまで読み進む。
3時から5時半まで、打ち合わせ。6時前には、家に帰った。

夜。南部ヤスヒロ+相原コージ『4コマ哲学教室』(イースト・プレス)を読んだ。相原コージの四コマ連作を題材に、南部ヤスヒロが哲学的なレクチャーを加える、というもの。漫画は面白かったが、レクチャー部分は退屈だったので、最高速度の速読で読み飛ばした。

眠い。11時半頃から、リクライニングチェアーに凭れて、Pを抱きかかえ、ブラッシングしてやった。春は冬毛が抜ける季節である。ちょっとブラッシングするだけで、ブラシにゴソッと毛が付いてくる。ブラッシングされている間、Pはお尻をモゾモゾ動かして、ちょっと落ち着かない様子だった。
Pを膝から下ろし、本を手に取る。中勘助『中勘助詩集』(岩波文庫)をペラペラめくった。十数篇の詩を読み、1時前には就寝。
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by daiouika1967 | 2008-03-22 10:45 | 日記  

3月20日(木) 雨のち曇

午前中降っていた雨も、昼過ぎにやみ、家を出るときは傘をささずにすんだ。

名駅周辺の喫茶店を移動しつつ、春日武彦『残酷な子供、グロテスクな大人』(アスペクト)を読んだ。
―「世の中には性善説とか性悪説といった考え方があるようだが、わたしは精神科医としての経験に照らしても、個人的な思い出に照らしても、そのような分類の仕方に則って言うなら『性グロテスク説』といったものに落ち着かざるを得ない。ヒトは自分の内面をきちんと覗き込み正確に把握することなど不可能なのであって、さまざまな自己欺瞞の産物として少なからず不自然さや違和感や落差を抱えた存在として生きていかねばならない。そのような歪みがときとしてヒトを非常にグロテスクな存在とさせる。ことに内なる子供性については、大人であることとの折り合いのつけ方を間違えると、いよいよ人間をグロテスクな方向へと導きかねない」。
人間の本来の性質を、善でも悪でもなく、「グロテスク」だというのは、おれの実感に照らしてもそうだとしか思えない。
この本には、多くの精神疾患患者の症例、文学作品に、その「グロテスク」な人間の姿が取材されている。
とりわけ、「内なる子供性」の内実に、「イノセント」と「残虐性」というキーワードを与え、それをめぐって考察が加えられている。

さて、「イノセント」とは、どのようなものか。「あえて簡単に言い切ってしまうなら」と春日武彦は云う―それは、「暗黙の了解で世の中が成り立っていることをいまだ知らない状態」ということになる。
―「暗黙の了解とは常識や約束事といったもののみならず、経験を基盤にして培われなければ決して発揮されない類の想像力などをも包括しており、それらはマニュアルとして子供たちに提示されることなどないから、彼らはさまざまな体験(というよりも失敗や絶望)を通して身につけていく他にない。世の中という文脈は隠喩やほのめかし、二重否定や反語で形作られており、禁句は決して表面には出てこないのである」。
イノセントとは、「世の中という文脈」を未だ読み取ることができない=そこに取り込まれていない状態のことを指す、ということが云われている。
そうだとすれば、イノセントとは、それを体現する人間(子供は多かれ少なかれ誰もがそうだ)にとって、けっして歓迎しうる状態ではないだろう。
世の中の文脈から外れているという自覚は、必然的に、孤独感と無力感を伴っているものだろうから。

「イノセント」な人間に特有の自他への残虐性―。春日武彦は、石原慎太郎の「弟」という小説に描かれた一場面、少年の頃の「弟」が自らの未熟な行為によって子犬を死なせてしまう、という場面を例にとって、こう語っている。
―「ここに語られたエピソードの変奏とでもいうべき類似の体験を、ほとんどの読者は幼い頃に味わってきている筈である。すなわち妬みや嫉み、甘えや強がり、未熟であるがゆえに突出する全能感や自尊心といったものが本人を衝き動かし、しかもいまだ因果関係におけるバランスや限度といったものを体得していないがために、思いの外過激で無謀なことをしでかしてしまう、といった経験である。そしてその結果として、不意打ちのように自然や運命の暴虐ぶりや無情さに直面させられ、出来した事態もさることながら自分の置かれているこの世界に秘められた恐ろしさや酷薄さにたじろぎ、不安に満ちた孤独感を覚えるに至るといったプロセスのことである。換言すれば、所詮自分は世の中という文脈に当てはまる存在ではないかもしれないという疑念である」。

夕方。パッセの9Fのタワーレコードで、すべての棚をつぶさに見て周り、鈴木慶一『ヘイト船長とラヴ航海士』(プロデュースに曽我部恵一!)、前から買おうと思いつつ保留していたクリスチャン・フェネス『エンドレス・サマー・デラックス・エディション』を購入した。
夕方の風が気持ちよかったので、栄向のブックオフまで歩いていくと、単行本半額フェアというのがやっていた。ブックオフでは、大体一律半額の値付けがされている。その半額だから、定価からすると4分の1くらいになる計算だ。町田康『猫のあしあと』(講談社)、柴崎友香『ショートカット』(河出書房新社)『また会う日まで』(河出書房新社)、南部ヤスヒロ+相原コージ『4コマ哲学教室』(イースト・プレス)、鈴木宗男・宮崎学・西部邁『日本と戦う』(講談社)を買った。5冊でたった1700円。

家に帰ると、妻がアマゾンで買った文庫本が数冊届いていた。吉本隆明が3冊、河合隼雄が一冊。妻が読むとは思っていなかった名前なので、ちょっとびっくりした。
夜、そのうちの1冊、吉本隆明『なぜ、猫とつきあうのか?』(河出文庫)を読んだ。読み終え、次いで、河合隼雄『猫だましい』(新潮文庫)を読みはじめ、87ページまで読み進んだ。
2時過ぎ、就寝。
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by daiouika1967 | 2008-03-21 19:24 | 日記  

3月19日(水) 雨

朝から雨。終日雨だった。
昼前に起床し、春日武彦『問題は、躁なんです』(光文社新書)の残り数十ページを読んで、1時頃、傘をさして家を出た。
RCサクセションの『ラプソディー・ネイキッド』を聴きながら、<ジュンク堂>まで歩いた。

午前中読み終えた春日武彦の本に、精神病診断マニュアルICDからの引用で、軽躁について定義されている箇所があった。
―「気分は患者がおかれた状況にそぐわないほど高揚し、愉快で陽気な気分からほとんど制御できない興奮にいたるまで、さまざまに変わりうる。通常の社会的抑制は失われ、注意を保持できず、著しい伝導性の亢進(ひとつのことに注意を集中できず、次々に新しい対象へと注意が移っていく状態)をみることが多い。自尊心は肥大し、誇大的あるいは過度に楽観的な考えが気軽に表明される。実現不可能な途方もない計画に熱中したり、浪費を重ねたり、攻撃的となったり、好色であったり、あるいはふさわしくない場面でおどけたりすることもある」。
ほとんどおれである。そうか、おれは軽躁を患っていたのだ。うっすらと病識はあったが、なんだ、そうだったんだ、と納得する。
おれは、(軽い)躁病である。そう思い至ると、自分の行動傾向―言いっ放しやりっ放しの無責任、何でも途中で投げ出してしまう飽き性、ハッタリまじりの大言壮語といった、人間としてもう救いようのない自画像が、改めてはっきり浮かんでくる。

誰もが自分のネガティブな姿から眼をそらそうとし、自分で自分のことがはっきりと捉えられなくなる。
自分は、卑小で、愚劣な、救いようのない人間だった。
そう気づくことで、自分の全体像が、はじめて明晰に浮かんでくる。
自分だけではない、周りのものすべてが、明晰に観察できるような心地に至る。

自分も含めてなにもかもが、ただありのままそこにある。
その体験は、いっそ清々しいといってもいいような、高揚した気分をもたらしてくれる。
自分の救いのなさを認めればいい。
そのことがそのまま救いにつながっている。
…いやそうではない。
この世のどこにも救いなどないのだ、というあたりまえの認識を得ることができる。


<ジュンク堂>で、『雨宮処凛のオールニートニッポン』(祥伝社)、斉藤環『「負けた」教の信者たち ―ニート・ひきこもり社会論』(中公新書ラクレ)、本田透『なぜケータイ小説は売れるのか』(ソフトバンク新書)を買った。
喫茶店に入り、『雨宮処凛のオールニートニッポン』を読んだ。雨宮処凛が、ニートだけで運営するインターネットラジオ「オールニートニッポン」で、さまざまな「生き難さ」を抱えた人々をゲストに迎え、対談している。
ここに登場するのは(ホストの雨宮処凛も含めて)、社会制度や法律の改革の運動、革命運動、文筆表現、オルタナティブなライフスタイルの創出といった、様々な回路をつくることで、自分の「生き難さ」を乗り越え、あるいは何とか折り合いをつけつつ生きている人びとだ。
自分自身をふりかえってみると、おれもまた、自分は無理に生きているのだ、という「生き難さ」の感覚をつねに持っている。だから、ここに登場する人びとの語る言葉は、読んでいるとバシバシ響いてくる。

帰りに、マックスバリュに寄り、本屋で、春日武彦『残酷な子供 グロテスクな大人』(アスペクト)、斉藤環『心理学化する社会 ―なぜ、トラウマと癒しが求められるのか』(PHP研究所)を買った。
夜は、なんだか疲れていて、何もやる気にならず、ずっとテレビを眺めて過ごした。1時頃、就寝した。

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by daiouika1967 | 2008-03-20 12:30 | 日記  

3月18日(火) 晴

朝、クライアントのひとりから、クレームの電話が架かってくる。おれに対して腹を立てているわけではなく、おれといっしょに担当しているK君に対して、「動きが鈍い」と文句を言っている。遠まわしに、「きみがもっと積極的に関わってくれ」と注文をつけているようでもある。「そうですね、じゃあ、これからときどき寄るようにします(あんたの愚痴を聞いてやるためにね)」と応えておく。ああでもないこうでもないと彼女の社内の愚痴ともなんともつかない話を聞き、適当に受答えしているうちに、30分くらいの時間が過ぎた。

11時半、家を出て、名駅の喫茶店で、山岸俊夫『日本の「安心」はなぜ、消えたのか』(集英社)を読んだ。
山岸俊雄の著作は、以前に2、3冊読んでいる。仮説の裏づけとして、つねに統計学的な実験による検証が行われていて、議論に公平性、説得性がある。
山岸俊夫は、この地球上には、ふたつのタイプの社会がある、という。集団主義的な「安心社会」と、個人同士の連帯に基づく「信頼社会」である。
―「メンバー同士の相互監視や制裁といった仕掛けを通じて、人間同士の結びつきの不確実さを解消していこうとするのが安心社会のあり方です。
このような社会に生きる人たちにとって、集団の外にいる人たち、つまり『よそ者』との関係を持つことは歓迎されません。外部の人間は彼らにとっては『他人』であり、『泥棒』同然の存在というわけです。
集団主義社会に暮らす人たちにとっての最優先事項は、集団内部の安定を維持することにあります。すなわち、身内と波風を立てずに生きていくことが何よりも大切だというわけで、集団内部の人間関係をうまく感知する能力も自然に発達していきます。また、こうした社会では他の仲間から排除されないために、なるべく控え目に行動するという行動原理が自然と身についていくことになるでしょう。
これに対して、信頼社会とは社会が提供する『安心』に頼るのではなく、自らの責任で、リスクを覚悟で他者と人間関係を積極的に結んでいこうという人々の集まりです。
このような社会で生きて行くには、他人から裏切られたり騙されたりするリスクはつきものなのですが、そのリスクを計算に入れても、他者と協力関係を結ぶことによって得られるメリットのほうが大きいと考えるのが信頼社会の人々の発想です」。
日本は、長い間、「安心社会」を維持してきた。しかし今、その「安心社会」は、崩壊しつつある。日本人は今、崩壊しつつある「安心社会」を懐かしむのではなく(著者は「武士道」や「○○の品格」といった著書がブームになるのも「安心社会」へのノスタルジアでしかないと喝破する)、新たな「信頼社会」へと移行していかなければならない。……

第三章「日本人の正体は『個人主義者』だった!?」のくだりを読んでいて、「みんな(世間)は」という主語で考えられ、予想されることの多くが、誤った予想にしかならない、ということに改めて気がついた。
「みんな(世間)は」と考えるとき、その考えから、「私はそのことについてどう思うのか」という要素が、なぜか抜け落ちてしまいがちになる。「私」が「そのこと」について、「どうでもいい」「よくわからない」と思っている場合に、それは顕著になる。「私」が「どうでもいい」「よくわからない」と思っていることなら、「みんな(世間)」も、同じように感じているのではないか、とは、「私」はなぜか考えない。「私にはどうでもいいことだが、みんな(世間)はそう思っていないのだろう」、と、なぜかそんなふうに考えるのである。
「私」と「みんな(世間)」とは違う、という根拠のない信憑を、日本人は持っているのだ。
山岸俊夫は、ある実験から、日本人の多くは「他人は集団主義的だけれども、自分は個人主義だ」と考えてる、と論じている。もちろん、それは錯覚である。多くの人が「自分は個人主義的だ」と考えているならば、「他人」は「個人主義的」ということになるからだ。
山岸俊夫は、その錯覚を解くひとつの鍵を、社会心理学の実験で観察される「帰属の基本的エラー」という現象に求めている。
「帰属の基本的エラー」とは、他人がやった行為について、「そうした『事情』があってのことではないか」と思わずに、その人が「そういうことをする『心の持ち主』だからだ」と考えてしまう、人間の心の傾向のことをいう。
―「たとえば、たまたま買い物に入ったお店で、とても愛想よく懇切丁寧に接客をしてくれた店員さんがいたとします。そういう経験をしたときに、きっと、あなたはその店員さんのことを『いい人だ』『親切な人だ』と思ってしまうのではないでしょうか。
客観的に、冷静に考えてみれば、店員さんがあなたに丁寧に対応してくれたのは、接客のプロとして立派であったということにすぎません。
その店員さんは、仕事だからあなたに対して愛想よくしていただけのことで、本当は内心『早く決めてくれないかなあ』『面倒くさい客だなあ』と思っていたかもしれないのです。しかし、多くの人はその店員さんの態度を見て『この人は心優しい、いい人だから、私に親切なのだ』と思ってしまうし、場合によっては『私(お客)に好意を持っているから、こんなに親切にしてくれるのだ』とまで思ったりしてしまうものなのです。
このように相手の行動から『相手の意図』を推しはかる性質が人間にあるために起きる認知の間違いを『帰属の基本的エラー』というわけです」。
この「帰属の基本的エラー」という現象を前提に考えると、日本人の多くが「他人は集団主義だが、私は個人主義的だ」と考える理由がわかる。
―「あなたが『自分だけは個人主義的な心の持ち主だ』と思っているのと同様、他の人たちも『自分だけは個人主義的な心の持ち主だ』と思っているのです。
ただ、周りの人たちは―そして、実はあなたも―、人が見ているときには集団主義的に振舞っているので、その態度から推定した結果、あなたは『私とは違って、周りの人たちは集団主義的な心の持ち主だ』と思ってしまっているというわけです。
こう考えてみれば、『みんなは集団主義的だが、私は違う』と思っている人が日本では多数派であるという話は、何の矛盾も来たさないというわけです」。
さて、この話は、商売のことを考えるうえでも役立ちそうである。「みんな(世間)は」何を欲しているのか、何を望んでいるのか、と予想するとき、つねに「私は何を欲しているのか、望んでいるのか」という視点を繰り込んで想像していかなければ、予想を誤るのではないか。

喫茶店を移動しつつ、3時頃読み終え、<三省堂>に行った。山形浩生『新教養としてのパソコン入門』(アスキー新書)、春日武彦『問題は、躁なんです ―正常と異常のあいだ』(光文社新書)を買った。
喫茶店で、山形浩生『新教養としてのパソコン入門』(アスキー新書)を読んだ。
この本の中で、山形浩生は、なぜコンピュータのネットワークが実現されえたのかという疑問に、「それはコンピュータのネットワーク自体が持っていた、共有したいな/共有させてね、という、ある意味で貧乏くさい欲望の発露だという気がしてきている」と答えている―「その欲望が実感できるかどうかで、相性がかなり変わってくるんじゃないか―ぼくはそう思うのだ」。

高島屋のデパ地下で鰈の煮付けを二切れ、鶏肝の煮付け、九条葱入り卯の花をそれぞれ200gずつを買って帰った。
夕飯を食べ終え、パソコンに向かって、1時間くらい、仕事。軽い躁状態になっていて、次々とアイデアが浮かぶ。
その後、テレビを点けて、春日武彦『問題は、躁なんです ―正常と異常のはざま』(光文社新書)を読み始めた。
約5分の4、160ページまで読んで、2時過ぎ、就寝した。
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by daiouika1967 | 2008-03-19 11:55 | 日記