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4月29日(火) 晴

11時過ぎまで眠った。
ゆで卵を作り、キャベツときゅうりと鰹節のサラダを拵え、苺を洗い、昨日買ったコロッケを網の上で温めなおす。
妻を起こし、朝昼兼用の食事を済ませ、午後はDVDを観て過ごした。松田優作『探偵物語』の第3話から第8話まで。夕食は妻が拵えてくれたお茶漬けで簡単に済ませ、それから、『快楽亭ブラック』を観て、続けて『エディット・ピアフ』を観た。10時になった。
昨日買ったCDをパソコンに取り込み、データをアイリバーにコピーして、12時過ぎには眠りに就いた。

……1時過ぎ、臭くて目が醒めたら、Pが今日2回目のウンコをしていた。普段は夜一回ウンコをするとそれ以上することはないのだが、今日は一回では出し足りなかったらしい。
うんこが終わった後はいつも、Pの肛門をウェットティッシュで拭いてやることにしている。いつものように拭いてやると、今日は異様に汚い。それでよく見ると、肛門から糸が出ていた。ウェットティッシュでつまんで引っ張ってやると、糸が出るのに合わせて、Pがにゃ~~~~(人間の発語に翻訳すると「ひゃああああああ」といった感じ)と弱々しげな鳴声を上げる。「糸食うなよ」と諭すが、たぶん分かってはいない。おれがPのお尻を処理している間に、妻がトイレを処理し、ファブリーズを撒いて、ようやく人心地ついた。中途半端な時間に起こされ、その後、なかなか寝付けなかった。
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by daiouika1967 | 2008-04-30 23:58 | 日記  

4月28日(月) 晴

10時頃まで眠る。やたらと眠たい。パソコンに向かって1時間ほど仕事をし、昼前に家を出て名駅まで歩いた。一昨日買ったCDを順番に聴きながら、『武満徹を語る15の証言』(小学館)の後半を読んだ。3時過ぎに読了し、上前津の<サウンドベイ>まで歩いた。『武満徹 映画音楽集 夢の引用』、音の波に溺れそうな心地になる。アレフワン『アレフワン』もよかった。単調なのだがずっと聴いていても飽きない。ジョン・ケージは、初期のサティのような和音の響きのなか、時々間の抜けたような音が漂って聞こえてくるのも可笑しくて素敵だった。<サウンドベイ>では、高橋悠治『クセナキス:エヴリアリ/ヘルマ メシアン:4つのリズムのエチュード』、DNA『DNA ON DNA』、ジム・オルーク『アイム・ハッピー・アンド・アイム・シンキング・アンド・ア・1・2・3・4』、ジル・トライソール『カントリー・ムーグ完全版』の4枚を買った。マックスバリュに寄って鰤と鰹の刺身を買って帰った。夕食は刺身。眠い。夜はテレビを点けたままうつらうつら。

……………………
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by daiouika1967 | 2008-04-29 23:23 | 日記  

4月27日(日) 晴

今、28日の朝に、この日記をつけているのだが、昨日の昼のことが思い出せない。1時過ぎまで何をして過ごしていたのか、すっぽり記憶が抜けている。眠っていたのだろうか。
1時過ぎからはテレビを点けて、「たかじんのそこまで言って委員会」を見た。
見終わって、3時過ぎ、妻とレンタルビデオ屋まで散歩する。「ディスパレートな妻たち」のシーズン3が出ているのを見つけ、さっそくvol.3までの3本を借りた。「探偵物語」vol.2まで、「HEROS」vol.3まで、「エディット・ピアフ」、「快楽亭ブラック」と計10本借りた。
名駅まで歩き、高島屋で夕飯の鰻を買って帰った。
帰って、「ディスパレートな妻たち」を見始める。あっ。という間に時間が経ち、3本観終わると11時を過ぎていた。ついで、「探偵物語」vol.1から2話分を観終わると、あっ。という間に1時過ぎ。
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by daiouika1967 | 2008-04-28 10:09 | 日記  

4月26日(土) 曇ときどき雨

雨がぱらついたり、陽が差してきたり、夜まで不安定な天気がつづいた。

昨日からの呆けたような気分がそのまま続いている。午前中、妻が病院に行っている間に、細野晴臣クラウンイヤーズに付いていたティン・パン・アレーのライブDVDを観る。
昼前に家を出た。名駅まで歩いたところで、ケータイを忘れたことに気づき、家に引き返した。ふたたび家を出て、近鉄の<タワレコ>へ向かった。ポイント2倍キャンペーンに惹かれて、何枚かCDを購った。『武満徹 映画音楽集 夢の引用』、高橋悠治+富樫雅彦『トワイライト』(YMO結成以前の坂本龍一が参加している)、アルヴァ・ノトのカールステン・ニコライ初の別名義のアルバム、アレフワン『アレフワン』、ジョン・ケージの3枚組『Complete works for piano&voice /Complete works for piano&violin』 、ダン・ヒックス&ヒズ・ホット・リックス『ストライキング・イット・リッチ』の5枚。ダン・ヒックス以外は、現代音楽―エレクトロよりのチョイスになった。
ずっと細野晴臣を聴きながら、ふらふらと、笹島の万博会場跡地にあるモスバーガーまで歩いた。モスバーガーでロースカツサンド、チキン、コーラの昼食。
それからまたふらふら名駅に歩き、ちょっと疲れてきたので、サウナで一眠りすることにする。駅前の<サウナグランド>に行った。サウナで汗をしぼった後、仮眠室で、音楽を聴きながら、うとうとする。音楽は『ゲッツ/ジルベルト』。

夕方、ホセから電話があった。今、名古屋に着いた、ということだったので、宿泊先の東横インまで迎えに行き、ホセ、ばきこと3人でうちの店に行った。
みんなで沖縄に遊びに行きたいねえ、などと話をする。
3時間くらい、食べながら話をして、9時過ぎに別れた。ふたりは、明日、明治村と岐阜ファミリーパークというところへ行くのだそうだ。
家まで歩くと、家に着く頃には10時を回っていた。玄関を入ると、ちょうど妻が服を脱いで、風呂に入ろうとしているところだったので、いっしょに風呂に入った。
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by daiouika1967 | 2008-04-27 13:20 | 日記  

4月25日(金) 晴

今日は夕方からすこし大きめのプレゼンがあった。朝起きて、パソコンに向かい、作っておいた資料を出力する。これで準備は終わり。準備万端にしようと思うときりがないから、おれは、7割くらいまで終わったら敢えて準備はそこまでとしている。足りないところは現場のハッタリで補えばいいのである。
それでもこのプレゼンが通るかどうかで来月の収入が2、3倍も変わってくるのだと思うと、なんとなく気持ちがそわそわして落ち着かない。そわそわしていたら神経が磨耗して疲れてしまった。立ち上がるのも億劫なくらいの気分に落ち込んでしまったので、精気を養わないといけないなと思い、ソファーに寝転んでスケッチショウのライブDVDを観る。1時間ちょっとで、気力が回復して元気になった。

午後。名駅の<アルアビス>で、カジキフライを挟んだパニーニと、サラダ、デザートにシュークリームといったランチを食べながら、『武満徹を語る15の証言』(小学館)を読み始めた。武満徹と共に仕事をした人びとのインタビュー集。尺八奏者の横山勝也、フルート奏者の小泉浩、ヴィオラ奏者の今井信子、映画監督の篠田正浩、マネージャーの宇野一朗、作曲家の池辺晋一郎と、200ページ程読み進んだ。

夕方からのプレゼンはすんなりとうまくいった。こちらの思い通りの結果となったので、来月、再来月くらいまでは生計的に安泰である。安心して、ちょっと呆けたような気分になる。
呆けたような気分のまま夜が過ぎた。
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by daiouika1967 | 2008-04-26 10:49 | 日記  

4月24日(木) 雨のち曇

昨夜から降り続いた雨は夕方まで降り続いた。午後、家を出て、名駅に向かうが、いつも歩きながら聴いている音楽が、今日はとてもいい音で響くように聴こえた。空気がしっとりしているからだろうか。耳にヘッドフォンをつっこんで聴いているのだから空気の質など関係ないようにも思うのだが、耳腔にも空間はあるのだからもしかすると関係あるのかも、と思いなおす。

午後。『KAWADE道の手帖 武満徹 没後10年、鳴り響く音楽(イメージ)』(河出書房新社)を読んだ。青山真治×大友良英の対談、小沼純一へのインタビュー、椹木野衣、佐々木敦、大谷能生、クリストフ・シャルルによる論考、武満眞樹、瀧口修造、山口勝弘、磯崎新、一柳慧、高橋悠治、吉増剛造、福永信、吉田アミ、湯浅学、近藤一弥、菊池雅晃によるエッセイ、武満徹×谷川俊太郎、×デビッド・シルビアンの対談、武満自身のエッセイをいくつか。

娘の武満眞樹による証言―「(両親)二人の新婚時代は本当にかなり貧しかったようです。でも父は、裕福だとか貧しい、という感覚のない人で、それは死ぬ間際まで同じでした。家計のやりくりは母に一任していましたし、本人は友人と酒を飲むお金、好きな本を買うお金、見たい映画を見るお金、そして終電車に乗れなかったときのタクシー代さえあれば満足な人でした。仮に、もし仮に、父が億万長者になっていたとしても、それは変わらなかっただろうと思います」。
武満徹自身は、「生活することはたいへんだ」と云う―「私は労働に慣れていないし、またそれは私に向かなかった」。
武満徹は、生活すること、金銭を手に入れたり遣ったりしながら生活するということに、死ぬまである種の違和感を感じつづけていたのではないだろうか。

武満徹は、この世界に属してはいなかった、というか、常にこの世界からはみだしていた。

椹木野衣は武満徹にとっての音楽、いや、音、について、こう語っている。
「この世界には、人間の人格とは離れて音というものがある。たとえそれが音楽と呼ばれているものであっても、それは孤絶した内なる源泉から発するものではない。『音楽が鳴る』ということ自体が、否定しがたく脱自的なものであり、結局、集団的な場でしか確認しようがないものなのだ。しかも、この場は決して一体のものではない。音が自己にとって既に他者でしかないように、そのような集団的な場にとてもなお、音は確実に各人にとって他者であるほかない。つまり音とは、常に決定的に複数的なものであり、どこまでいっても一に解消は不可能なのだ。音とは、それを作るものにとってもは、発するものにとっても、聞き取るものにとっても、ひとしく他者であるほかない。裏返せば、音が介されることではじめて、世界は複数的な他者性を開示することができる。音楽とは、そのような複数的な他者性のなかで、人と人とが、無根拠な共感によってでもなく(そこに共感はない)、教育や知識の共有によってでもないかたちで出会う、その共同の一瞬をかたちづくるための契機なのである」。

「音楽」は、「共同的」なものだが、「社会的」なものなのではない、それは、「友愛的」なものである。
武満徹は、じっさい、奇妙に社会性を欠き(異世界的でありながら)、友愛に厚かった。

武満徹自身のエッセイから―「他者との関連なしに音楽を想像することは私にはできないが、それでも音楽は<社会>という単位においては、ほんとうのすがたでは現れることがないもののように思う。音楽は人間の孤独な感情に結びついたものであり、それゆえに、社会との相関においてその意味が問われるのである。
音楽的感動、音楽的体験はつねに個人的なものであり、音楽は、生の<開始>のシグナルとして私たちを変える。そして、それらの無数の個別の関係が質的に変化しつづけ、ついに見分けがたく一致する地点に社会はあるのではないか。社会は、自己と他とが相互に変化しつづける運動の状態として認識されるべきであると思う。
私は、生きることにおいて信号の役割をはたしたい。私にとって音楽はそのために必要な唯一の手続きである」。
ここで武満徹の云う<社会>とは、制度としての<社会>ではない、「無数の個別の関係が質的に変化しつづけ、ついに見分けがたく一致する地点」が<社会>だとするなら、それはエロティックな友愛の共同体としての<社会>である。

武満徹は、常にこの世からずれた地点に佇んでいる。その佇まい、生のスタイル。谷川俊太郎の言葉をいくつか引用する。
「武満はいつでも自分に、これでいいのかと問いつづけていると思う。だが、自分を破壊してしまうほど、自分を問いつめることはしない。若いころは、ちょっとそういうスリルを感じさせたけれど。」
「非常に純粋な人間のように見られているが、武満には純粋ということへの傾斜は全くないと私は思う。そういう云い方で云えば、彼は不純だし、不純の中にしか豊かさを見出せぬタイプだろう。」
現実の物に執着しない。というよりあまりリアリティを感じないと云ったほうがいいかもしれない。本や映画でも、SFや幻想怪奇物を好むし、美術もリアリズムより抽象を好むようだ。彼はプラクティカルな世界に住んでいない。ミュージック・コンクレートの創始者のひとりである武満には、現実音すらもともと現実的に聞こえていないのかもしれない。彼の住んでいる世界は少なくとも私の住むそれにくらべて、よりイマジナリーだ。現実生活を大事にしない訳ではないが、彼にとってはその外にもっとリアルな幻視的な世界があるのだろう。彼が時々ロマンティシストに似るのもそれ故かもしれない。現実生活における知恵とか、技術については武満はむしろ余り成熟してゆかぬようだ。」
武満にとって過去は経験として蓄積されるというより、一瞬の啓示のようなものであって、それ故にこそそれは過ぎ去りはしないのではないかと、そんな風に思ったことがある。そしてまた彼は、忘れるべきことは見事に忘れ去るのではないか、とも。過去のいろんな苦労について、センチメンタルになることは彼にはない。」
「かっとなった彼を見たことがある。意外に激しい一瞬の暴力の爆発にそれはむすびついた。彼には人が殺せると、その時私は感じた。もちろん謀殺ではない、いわゆる情熱犯罪である。彼の中には、いつまでもuntamedなものがある。それが彼の魅力のひとつだ。

夕方、駅西の中古CDショップ<69>に寄って、大瀧詠一『ナイアガラCMスペシャル』の<SPECIAL ISSUE>盤が落ちているのを見つけ、急いで手に取る。ついでに、<タワレコ>で買おうかどうしようか迷っていたアタリ・ティーンエイジ・ライオットのベスト盤も見つけた。勢いがついて、トム・ウェイツ『レイン・ドッグ』(これが1985年に発売された時、たしか同じ年にジーザス・アンド・メリーチェインの『サイコ・キャンディー』も発売されて、おれは一時期この2枚のアルバムをかなり聞き込んだ覚えがある)、スタン・ゲッツ/ジョアン・ジルベルト『ゲッツ/ジルベルト』も。4枚買った。

夜。日記をつけ、ネットを周り、ときどきPをじゃらしたりしながら、筒井康隆『最後の喫煙者 ―自選ドタバタ傑作集①』(新潮文庫)の残り、「こぶ天才」「ヤマザキ」「喪失の日」「平行世界」「蔓延元年のラグビー」を読んだ。ついで、つげ義春『義男の青春・別離』(新潮文庫)を半分くらい読んだ。
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by daiouika1967 | 2008-04-25 11:21 | 日記  

4月23日(水) 曇

朝からどんよりと曇り、夜になって雨が降り出した。
午前中はパソコンに向かって仕事、午後になって家を出た。疲れているようだ。歩いていても足が重く感じる。疲れるようなことは何もしていないはずなのだが、バイオリズムが低調なのだろう。しかし、こんな日にかぎって、仕事が重なっている。
喫茶店に入ると、蒸し暑くて、首元に変な汗をかいた。それに、腹が張ったようになっていて、やたらとブウブウ屁が出る。眠い。椅子にすこし深く座って、うつらうつらした。
喫茶店ですこし時間を潰してから、クライアントの会社に向かった。似非コンサルタントとしての仕事である。適当に口から出任せを話す。体調が悪いからといって、口が回らないかというとそうでもない。自動饒舌マシーンである。逆に、体調がよくて気持ちが充実している時に、急に言葉が何も出てこなくなってしまうことがある。
クライアントの会社を辞して、次に、営業でアポイントが取れたデリヘルの事務所に向かった。顔は溶けかかって不気味だが話してみると人は良さそうな社長を相手に、WEB制作のプレゼンをした。滑らかに喋ることはできるものの、プレゼンに必要な迫力が出せない。結果は、「考えてまた連絡します」。うまくいかなかった。
夕方、家に帰った。部屋には、女が一人と猫が一匹待っている。どうやらこの猫はおれが飼っている飼い猫らしい。この女はおれの妻ということらしい。と、いうような離人症の症状が起こったので、これはやばい、なんか、こう美味いものでも食わないと、と、最近近所にオープンした回転寿司に、寿司を食べに行くことにした。
中とろ、大とろ、明太子、焼き穴子、はまち、北海ダコ、数の子、いくら、うに。茶碗蒸し。美味しくて、それで、すこし現実感が回復した。
家に帰り、日記を書いてアップし、夜、谷川俊太郎『武満徹の素顔』(小学館)を読んだ。谷川俊太郎が武満徹と生前何らかの関わりがあった8人にインタビューしている本だ。小澤征爾、高橋悠治、坂本龍一、湯浅譲二、河毛俊作、恩地日出夫、宇佐美圭司、武満眞樹の8人。
武満徹の音楽について、というより、武満徹の人となりについて、髣髴としてくるような内容だった。
武満徹のことを、火星人のようだった、と誰かがそう言っていた。武満徹という人には、アナザー・ワルールドリー(異世界的)な存在としての、現実感が希薄であるがゆえの存在感があったのだろう。
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by daiouika1967 | 2008-04-24 21:54 | 日記  

4月22日(火) 晴

今日もまた、空は明るく晴れ渡り、夏のような陽気だった。直射日光に晒されるのはきらいだが、視界が明るいのは気分がいい。

午前中、テレビを点けると、特番がやっていた。光母子殺害事件の犯人である元少年への最高裁の判決が出る、ということで、裁判所前から実況放送をしていた。まあ、今の司法の性質を考えると、たぶん死刑になるんだろうな、とは思っていたが案の定の結果だった。
宮崎学が、自分は死刑廃止論者である、として、その論拠についてこう語っていたことがある。
「死刑はいらない、その代わりにあだ討ちの権利を認めるべきだ。これが僕の死刑廃止の論拠です。
死刑というのは、いってみれば復讐したいという自分の気持ちを国家に委託するわけでしょ。それは、人の行為としてはじつに醜い。卑怯だ。
愛する人の命を理不尽に奪われたら、自分で仇を討つべきなのです。もちろん、それは自分の手を汚すことですから、苦痛も危険も伴うし、仇とはいえ人を傷つけたり殺したりすれば、法の裁きを受けることにもなります。
それでも、国家の助けなど借りず、自分の力で復讐を遂げる、これが本当の愛情表現なのではないでしょうか」(『法か、掟か ―「私」を「国家」に委託しない生き方』(ゴマ文庫))。
おれ自身、この事件の被害者である本村氏の立場になったら、と想像すると、彼の感じたであろう悲痛には同情を禁じえない。彼が、犯人の元少年に対し、「万死に値する」と言い切って容赦しないのも当然の態度だと思う。
しかしながら、おれは、どうも画面にこの本村氏が映ると、彼がとうとうと“正論”を語る姿に対して、気分的な嫌悪感を覚えてしまうのである。
彼は、「復讐したいという自分の気持ちを国家に委託する」ということを、“正義”として疑っていないように見える。おれなどは、そのことに違和感を感じてしまうのだ。
マスコミやマスコミに登場する文化人たちは、基本的には本村氏が饒舌に展開する“正論”を擁護する立場を取っているようだ。宮崎学が言う、「人の行為としてはじつに醜い。卑怯だ」という“気分”は、そこでは問題にもされない。

昼前に家を出て、名駅の喫茶店に入る。前田司郎『グレート生活アドベンチャー』(新潮社)を読んだ。主人公の「僕」は、「さしあたって悩みも仕事も将来への不安もない」という30歳。彼には若くして死んだ妹がいる。その妹、涼子との会話の回想場面を引く。
「涼子は『マジでどうすんの?』と訊いてきた。
『どうもしないよ』と答えた。
『どうもしないって、え?どういうこと?』
『今のまま』
『だってお兄ちゃん年収いくら?』
『数えたことない』
『それでよく不安にならないね』
『そうなんだよなあ』僕はなんで不安にならないんだろう。すげえなあ。俺って。
涼子はもうこれ以上言っても仕方ないと思ったようだったけど、それでもさらに言った。
『就職するにしても、歳取ればどんどん難しくなるんだよ』
『らしいね』
『もう、すでに相当難しいと思うよ』
『うん』僕はそれでもなんか平気なような気がしている。ここまで、しつこく言われるのははじめてだったからイライラしてくるかと思ったけど、意外と平気だった。それとも僕は涼子にそんな悲惨な事実を目の前につきつけられているのに一切動じない自分のよくわからない自信を見ることが出来て頼もしいのかもしれない。ゆるぎないことを確かめたいのかもしれない。それにしても、なんでこんなにゆるぎないのだろう僕は。唯一の不安はそこだ。もしかしたら病気なんじゃないだろうか。ちいさい頃からずっと、どういうわけか自分は平気だという確信があった。僕は何かを見て見ないふりをすることに長けているのだと思った。成績も悪かったし、滅多に人にほめられることもなかった、それなのにこの自信はなんなんだろうか。
涼子は良く出来た子だった。勉強も出来たし、涼子が誰かに怒られたなんて話聞いたこともない。だけどいつもどこかビクビクしているところがあった。
そして死んだ」。
作者は、この主人公である「僕」を、全面的に支持するような書き方はしていない。それでも、世間一般の視点で見るなら、あきらかにどうしようもないこんな「僕」のありようを、基本的には肯定しているように思える。

この小説は、冒頭、こんなふうに始まる。
「僕は東京に生まれた。
ちょうど魔王のいる洞窟に入ろうとしているところ。
その前に近くの町の宿屋に一泊して元気を取り戻して、旅の記録をつけてきた。これで、何かの拍子に殺されてもまたこの町の宿屋からやりなおすことが出来る。
僕は皆と洞窟に入った」。
最初の三行くらいで、ああこれはアドベンチャーゲームのことが書かれているのだなと知れる。この後、このゲームの中の「僕」の経験が、7ページを費やして書かれている。
ゲームの中の経験、現実の経験(コンビニに行ったりだとか)、マンガの中の経験、彼女の日記の中の経験、そうした経験をフラットに並列する書き方がされていて、それが30歳のプー太郎のリアリティを照射しているように思う。

2時から、駅裏の喫茶店で、K君と仕事の打合せをした。4時間、話した。6時前に店を出た。店にも迷惑なことである。

夜は、筒井康隆『最後の喫煙者 ―自選ドタバタ傑作集1』(新潮文庫)から、「急流」「問題外科」「最後の喫煙者」「老境のターザン」の4篇を読んだ。
筒井康隆の小説はすべて読んでいるはずだが、こうして昔の作品を読み返すのは、何年ぶりになるだろう。大好きだった「問題外科」、今読み返してもやはりとんでもなくぶっとんだ内容で、登場人物たちの悪逆ぶりは、いっそ爽快と言っていい域に達している。
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by daiouika1967 | 2008-04-23 23:37 | 日記  

4月21日(月) 晴

夏日。気温は26度まで上がった。上着を着ないで家を出た。街中には半袖姿の人間もちらほら混じっていた。

午後。今日もとくにやることがない。やるべきことは、ほんとうはたくさんあるのだ。ほんとうは、切羽詰っている。それでも、今日明日何もしなかったからといって、急に追いつめられるわけでもない。
とりとめのない不安を感じる。いつもにもまして寄る辺のない気分で、街を歩いていく。細野晴臣を聴きながら、歩いた。『HOSONO HOUSE』、『トロピカル・ダンディー』、『泰安洋行』、『はらいそ』と聴いていく。

午後、伏見の喫茶店に入り、アイスコーヒーを飲みながら、藤沢周『第二列の男』(作品社)を読んだ。2000年以降に書かれた藤沢周の短編が集められている。

まだ凛冽とした空気の中に、ふと頬を掠める感触の違う空気の層を覚え、顔を上げれば、ブナ林の上にナイルブルー色の空があって、眩暈を感じる。
スクリューが引き摺る流れのような、捻れた春の空気の紛れに、子供の頃は、獣のように体の奥がフツフツと沸騰してきたのに、むしろ、膿んだものを感じて、疲れるのか、寂しいのか
」。

夕方。<ジュンク堂>に寄って、リトルモアからの新雑誌『真夜中』が出ているのを見つけ、手に取った。前田司郎『グレート生活アドベンチャー』(新潮社)と、2冊買った。
名駅の喫茶店で、『真夜中』を順番に読んでいく。コラムが3篇。高山なおみ、古川日出男、内田也哉子。堀江敏幸のエッセイ、いしいしんじの連載小説、保坂和志、秦早穂子の連載エッセイ、伊佐山ひろ子の連載小説。エッセイが4篇、松尾スズキ、米沢亜衣、伊藤存、高野文子。沼野充義による翻訳小説が一篇―マグダレーナ・トゥッリ「夢の町」。連載エッセイが3篇、eri、大竹昭子、市川実和子。連作小説―小野正嗣、福永信のエッセイ、連載エッセイ桐江キミコ、宮崎誉子のエッセイ…これで100ページ。やはり古川日出男、保坂和志、福永信の文章には、読者を別次元に誘うだけの強度がある。市川実和子の文章は、擬音や擬態語の使い方も、文章全体のバランス感もよく、描写の精度が高いように感じた。

描写の精度。新しい世界を拓くような文章。
言葉。
言葉による表現ということについて考える。


家に帰って、昨日夜中にやっていて録画しておいた「松本人志のすべらない話」を観て笑う。
夜は、『大航海』のNO.63「白川静と知の考古学」を読んだ。100ページまで読み進む。
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by daiouika1967 | 2008-04-22 10:58 | 日記  

4月20日(日) 晴

10時頃に目覚め、妻とセックスしてから、再び眠りに入った妻を残しベッドから起き上がり、朝飯代わりの苺とソイジョイを食べ、ココアを飲み、パソコンに向かって日記を更新して、ついでに毎週日曜日に更新される「ほぼ日」の天久聖一「味写入門」を読んで笑い、テレビの前のソファーに移って寝転び、昨日の夜中に録画しておいた「ケータイ大喜利」を観て笑い、そうこうしているうちに昼過ぎになって妻が起きだしてきて、昼飯にもやしとメンマとチャーシューが大量に入ったラーメン(九州土産のとんこつラーメン)を拵えてくれたので、昼飯はラーメンをすすってすませた。

午後、DVDで映画を2本観た。一本目は『日本の自転車泥棒』。CMディレクターの高橋忠和という人の映画監督第一作。主演には杉本哲太が起用されている。
映画ではまず釜石の風景が俯瞰で映される。そのテレビCMと同じ質の「きれいさ」にちょっと警戒心がわく。画面が切り替わり、釜石の町、ひとりの男が頭を抱えてのたうちまわっている。競輪の打鐘が鳴り響き、しかしその音は映し出されている風景とは一致しないので、男の頭の中で鳴っている音だと知れる。男は、何か発作のようなものに苦しんでいるらしい。こののたうちまわる描写が長すぎて、観ているとなんだかいらいらしてくる。男はその発作から逃走するかのように、放置してあった自転車に跨り、激しくこぎはじめる。男は、吹雪の仙人峠を越え遠野へ、そしてさらに南下し、宇都宮を経て、最終的には池袋まで走っていく。この間7日間。この映画は、その7日間、杉本哲太が自転車をこいで走っていく姿が映し出されている。一種のロードムービーである。ロードムービーでは、魅力的な脇役との出会いと別れが、その物語の味わいの大きな要素になるが、この映画では、その脇役たちがまったく魅力を欠いていて、それはその脇役たちが何のために登場するのか、つまり彼や彼女が主人公にとってどんな必然性をもって登場してくるのか、その肝心のところがまったく描かれていないせいではないかと思う。いや、そもそもその主人公が、自転車をこいで走っている意味がまずよくわからない。別にはっきりした意味などなく走っているのだとしても、そうであるなら杉本哲太という俳優がその無意味に耐えて画面を保たせるだけの魅力を持っていないといけないと思うのだが、彼にはそんな魅力は感じられない。けっきょく、自転車をこいでいる杉本哲太が延々と映し出されているだけの、とても退屈な映画だった。途中ですこし眠ってしまった。

それにしても眠たい。朝からセックスなどしたせいだろうか。2本目は山本政志監督『聴かれた女』。これは傑作だった。観ているあいだは眠気も忘れていた。
主演は蒼井そら。たまにAV女優が深夜のドラマなんかで脇役で出ているのを見ると、そのほとんどがものすごい大根なのが笑えるのだが、AV出身者のなかには例外的に素晴らしい演技を見せてくれる女優もいて、例えば及川中監督『日本製少年』主演の嶋田加織は素晴らしかった。蒼井そらもまたそんな例外的な素晴らしい女優のひとりである。そのナチュラルな演技は、山本監督も絶賛で、映画の中では何箇所も長回しの場面があったのだが、その間、そのナチュラルさがまったく綻びないのが素晴らしかった
ストーリーは、DVDインデックスの解説を引くと―「引っ越したばかりのリョウは、隣室から漏れる女の声に気付いた。電話の声…シャワーの音…そして喘ぎ声…。薄い壁越しに、見たこともない“隣室の女”の生活が漏れ伝わってくる。次第に妄想を膨らませるリョウは、ついには想像の中の女に恋心さえ抱いていった。その頃、隣室の女=皐月は、毎日かかる脅迫電話に悩まされていた。『オマエヲ メチャクチャニ シタイ…』すべてを聴かれていることなど知らないまま、彼女は見えない恐怖に怯え続けている。一方、リョウは皐月に近付くため、徐々にその行動をエスカレートさせ始め…。聴かれた女と聴く男、そして、ふたりの間を隔てる薄い壁。その壁を超えて彼らが出会うとき、それぞれの物語は交錯し、最悪の方向へと一気に動き出すのだった…」。
最初、このリョウの妄想の場面で登場する皐は、“まだ蒼井そらではない”。別の女優が演じる皐に、声だけを蒼井そらが吹き替えている。部屋の様子も現実の皐の部屋とは違った部屋が映し出されている。つまり、後になって分かるのだが、ここで映されているのは、りょうの妄想のなかの皐であり皐の部屋なのである。山本監督得意の二人一役で、妄想と現実の世界が並置されているのだ。普通、妄想や夢の場面を画面に映したいというときには、画質をぼやけさせたり、妄想に入る人間の顔のアップから重ねるようにしてフェードインしたり、これは妄想(夢)の場面です、ということが分かるように「括弧に入れる」という見せ方をする。しかし、山本監督の映画では、そのような括弧はすべて取り外され、妄想の世界が現実と同じ強度で提示され、それが映像に不穏なリアリティをもたらしている。
本編はリョウ視点で描かれるのだが、DVDには特典映像として、皐視点の映像も収められている。それも通して観てしまった。

夕方、妻が急に「ケーキが食べたい」というので、ふたりで高島屋のデパ地下にケーキを買いに行った。ついでに夕食として、有名店のいなり寿司(わさびいなり)も買って帰った。
帰ってきて、いなり寿司を食べ、食後にケーキを食べた。おいしかった。満足して、ソファーに寝転び、うつらうつらしながら、テレビを眺め、うつらうつらしながら、諸星大二郎『私家版魚類図譜』(講談社)を読んだ。12時前後には就寝。
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by daiouika1967 | 2008-04-21 10:50 | 日記