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5月30日(金) 曇

昼過ぎ、ヒルトンのロビーで悪徳弁護士と待ち合わせ、そのままヒルトンの喫茶店で仕事の打ち合わせをする。
昨日からやたらと眠たい。蒸し暑くて汗も異常なくらいかく。なんだか不快だ。午後は、県の図書館に行き、昼飯にスガキヤのラーメンとクリームぜんざいを食べた後、机に突っ伏して仮眠を取った。重心をかける方の脚が痺れるので、周期的に左右の傾きを変えつつ眠った。
本を6冊借り出す。市村弘正『「名づけ」の精神史』(平凡社)、赤坂憲雄『岡本太郎の見た日本』(岩波書店)、島尾敏夫『戦後文学エッセイ集10 島尾敏夫集』(影書房)、小島信夫『暮坂』(講談社)、サリー&ロバート・フィッツジェラルド編『秘儀と習俗 -フラナリー・オコナー全エッセイ集』(上杉明訳 春秋社)、島尾ミホ・石牟礼道子『ヤポネシアの海辺から』(弦書房)
夕方、仕事のための写真撮影をひとつ済まして、6時には家に帰った。夜飯は、小松菜と豚バラ肉の炒め物、冷凍の里芋とこんにゃくの味噌煮。
妻はミシンの前に座って、何か(たぶん寝巻きのようなもの)を拵えている。おれは、音楽を聴きながら、島尾ミホ・石牟礼道子『ヤポネシアの海辺から』(弦書房)を読んだ。1時過ぎ、就寝。
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by daiouika1967 | 2008-05-31 10:47 | 日記  

5月29日(木) 朝、雨、のち曇

朝食は、タコヤキ状のメープルシロップ入パンケーキ、イチゴ、杏仁豆腐、インスタントスープ。9時過ぎ、家を出た。
昨日から、なんとなく体がだるい。風邪のひきはじめかもしれない。
フラナリー・オコナー『賢い血』(須山静夫訳 ちくま文庫)を読む。途中何度か眠気に襲われ、10分くらいの仮眠を取りながら。「神は事実である」という信仰のあり方について想像をめぐらした。信仰者にとって、神は思想や幻想ではなく「事実」である。神は、人間の側から志向し、求められるものではなく、神の側が人間を選ぶのである。人間は、ある時神に選ばれ、いわば神に「ぶち当たって」心身を砕かれる―これが回心と呼ばれる体験である。
昼飯は、栄町ビルにある定食屋のロースカツ定食。
午後、北村薫『北村薫の創作表現講義 ―あなたを読む、わたしを書く』(新潮選書)を読んだ。
名古屋の<バナナレコード>で、サバーバン・ナイト『マイ・ソル・ダーク・ダイレクション』、『WIRE07コンピレーション』を買う。
夜飯は、豚バラ肉、もやし、しめじの炒め物、漬物、ご飯、インスタントの味噌汁。
夜、周期的にうつらうつらしながら、永井龍男『回想の芥川・直木賞』(文芸春秋社)を読む。130ページまで。ネットを周回して、12時過ぎにベッドに入った。喉がいがらっぽくて咳が出る。やばい。
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by daiouika1967 | 2008-05-30 10:12 | 日記  

5月28日(水) 曇夜になって雨

朝、パソコンを起動し、日記つけ、ネットの周回など、1時間半くらい。朝飯には、妻がオムライスを作ってくれたので、それを食べる。妻は病院へ。おれもすこし遅れて、11時過ぎくらいに家を出た。
絲山秋子『逃亡くそたわけ』(講談社文庫)を読む。主人公の女の子が喋る九州弁が可愛い。180ページくらいだったので、1時間半で読み了える。続けて、大竹伸朗『カスバの男 ―モロッコ旅日記』(集英社文庫)。大竹伸朗がモロッコを歩いた12日間の旅を、文章とスケッチで記録したもので、大竹伸朗の制作物に触れると、「自由」という感覚を思い出す。「自由」とは、生々しいリアルに触れる感覚のことである。
<三省堂>で北村薫『北村薫の創作表現講義 ―あなたを読む、わたしを書く』(新潮選書)を買う。
午後、<ジートレス>でK君と待ち合わせ、1時間くらいの打ち合わせをした後、いっしょにクライアントの会社へ行く。担当者と1時間打ち合わせ、それから、社長室に行き、社長と常務を前に30分くらいのプレゼンをした。準備もあまりしていなかったのでヒヤヒヤものだったが、なんとかうまくいった。
夜飯は、妻の作った冷やし中華。夜は、おれはパソコンに向かって、雑務の処理、妻は型紙を切っていた。1時半頃、就寝。
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by daiouika1967 | 2008-05-30 09:47 | 日記  

5月27日(火) 晴

今日もまた昨日に引続き夏のような陽気。夕方、天気予報で、30度を越える夏日であった、と報道していた。
10時過ぎから4時前まで、仕事の電話にいくつか対応しつつ、島尾敏夫『死の棘』(新潮文庫)を読み継ぎ、読了した。何か重いものを食べたような膨満感のようなものが残り、頭がうまく働かなくなった。
夕方、近鉄の地下でハンバーグを買って帰った。夜飯は、ハンバーグとつけあわせのサラダ、赤カブ。
なんだか体が鈍重になっていて、眠たい。夜はうつらうつらしながら、合間にテレビを眺めたり、『山之口獏詩集』(思潮社現代詩文庫)を読んで過ごした。11時にはベッドに寝転び、そのまま浅い夢を漂う。ソフトな悪夢。

●『死の棘』を読んで、主人公の「私」の状態、心境を綴った箇所のなかに、いくつか興味深い箇所があった。
主人公が妻からの責苦を受けつづける地獄のような状況のなかで、しかし、ただそこから逃げ出したいというのではなく、苦痛のなかにある甘味に意識が啓かれるようにして、むしろ主人公がその状況を積極的に受け入れているかのような、あるいは主人公自らがそうした状況を招来せしめたのであるかのような、そんなふうに感じられる時間が流れる、そうした箇所である。

《狭い部屋にからだを寄せ合って眠っている妻やそのいとこたちの寝顔を見ていると、つらくはかない感情に胸がつまってくる。自分のこころのほんのわずかな病み疲れが、まわりのものすべてをグロテスクな容喙にしてしまう。それ自体はなんの変化も起してはいなくても、私には青冷め、影がうすくなって見える。しかしそうさせているものはほかならぬ妻のこころの頑なな故障箇所だが、考えてみれば、彼女がいつまでも縛られていなければならぬ状況などもうどこにも無くなっているのだ。それなのになおそこに妻が引っかかって通り過ぎようともしないのはどんな理由からだろう。苦しむだけにわざとそうしているとしか思えないふしぎなこころのはたらきに、私は絶望するほかに方法もない。いったい何をそんなに!と妻の寝顔をまじまじと見つめるが、思いつめると思いかえしにきかぬいちずな気質の、無邪気で清らかな、幼い表情が認められるだけだ。すると目覚めているときの発作は幻覚ではないかと思えてきて、それに私がなぜ耐えられないのかわからない。耐える、ということではなく、私は胸を広げて妻の発作を呑みこんでしまうべきではないか。それができずに、輪をかけた発作を湧きたたせてますます妻のそれをねじれさせる自分の胸うちの狭さはなんともなさけなかった。夕方に医師が置いて行った伸一に飲ませる薬の二回目の投与の、午前の一時を待ちながら、あらぬことをいろいろ考えながら、私はふと、或いは今時分はむしろ幸福と言えるのかもしれない、などとあやしい気分になったのが不思議であった。》

痛苦には波があって、その波がすこし遠ざかったとき、痛苦に満たされている自分を省みるだけの余裕が生まれ、そんなとき、その充実をふと幸福と感受してしまうことがある。
男女の関係では、憎悪、執着、愛惜、恋着などの感情は、あるいはひとつの痛苦の、別様の顕在でしかないのかもしれない。それらすべてが綾をなし、だから幸福と不幸もまた同じように裏腹なものとして時に混ざり合いつつ“あやしく”感じとられる。

《妻をひとり病室に残して私はふたたび病院の外に出た。すると道を歩くときも、電車に乗ったときも、からだがふくらんで羽ばたくような自由がどっとばかり感じられてきたのだ。景色も人も生き生きとして目に写り、万象のすべてにふだんの確かさと親しさが含まれているようで、からだに力が湧き、仕事がしたい、と思えてきて、軽々とした気分のなかで飛びはねたくなっていたのだ。しかし私の目の底には、出入り口の扉には錠のおろされた病棟のなかの、逃亡を防ぐために窓には縦横に格子を打ちつけた、がらんとした調度品のない病室のベッドに腰かけて、寂しさをおさえてすがるような目なざしを送ってよこした妻のすがたが焼きついては離れないのだ。この世で頼りきった私にそむかれた果ての寂寥の奈落に落ちこんだ妻のおもかげが、私の魂をしっかりつかみ、飛び去ろうとする私のからだを引きつけてはなさない。妻が精神病棟のなかで私の帰りを待っているんだ。その妻と共にその病室のなかでくらすことのほかに、私の為すことがあるとも思えなかったのだ。》
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by daiouika1967 | 2008-05-28 10:15 | 日記  

5月26日(月) 晴

夏のような陽気。今日は妻が朝のうちに病院に行かなければならないということで、8時には家を出ていった。6時には起きていたようだ。おれは彼女が出て行くときに起床し、見送ってから、朝食にソーセージの入った調理パンを食べ、パソコンに向う。仕事をひとつ済ませ、日記つけ、ネットの周回。11時前に家を出た。
名駅の喫茶店で、多羽田敏夫『滅亡を超えて ―田中小実昌・武田泰淳・深沢七郎』(作品社)の残り、深沢七郎の章を読み終える。
昼過ぎ、大須~上前津~鶴舞を歩き、古本屋を周回する。島尾敏夫『死の棘』(新潮文庫)、編解説井坂洋子『まど・みちお詩集』(角川春樹事務所)、富岡多恵子『当世凡人伝』(講談社文芸文庫)、古川日出男『13』(角川文庫)、ミシェル・フーコー『言葉と物 -人文科学の考古学』(新潮社)、森敦『月山』(河出書房新社)、ヴィリエ・ド・リラダン『残酷物語』(斎藤磯雄訳 筑摩叢書)を買う。なかなか充実した買い物をした。
2時、JRで名駅まで引き返し、昼食に<ジートレス>のオムライスランチを食べた。そのまま<ジートレス>で人と待ち合わせ、打ち合わせをひとつ済ました。
島尾敏夫『死の棘』を読み始める。175ページまで。
夕方、家に帰ると、妻がアマゾンで注文したCD、ミリー・ヴァーノン『イントロデューシング』が届いていた。ミリー・ヴァーノンは、1957年、このアルバム一枚を録音して、それきり40年以上もずっと沈黙を続けていたという伝説のジャズ・ヴォーカリスト、ということらしい。向田邦子がエッセイで推薦していたアルバムで、向田邦子のファンであった妻の母親もよく聴いていたのだそうだ。そのアルバムを聴きながら、夕食は、豚バラ肉、ハム、ベビーリーフ、トマトなどがたっぷり入ったうどんを食べた。
夜、キムタクのドラマ「チェンジ」を見て、「スマスマ」を見て、その後は再びミリー・ヴァーノンを聴きながら、眠たくなるまで、『山之口獏詩集』(思潮社現代詩文庫)を読んで過ごした。1時前、就寝。

多羽田敏夫『滅亡を超えて』からの引用、メモ。

《「ただ位置だけを示し、意味を排除」するとは、つねにただ「いま、ここ」だけを示し、いかなる意味をも排除してしまうということにほかならない。いいかえれば、つねにすでに「いま、ここ」であるがゆえに、いかなる意味づけをも排除してしまうということだ。
たぶん、「自分を若いなどとおもったことはなかった」とは、この「いま、ここ」に関わっているはずだ。それは、「若い」ということが。直接まさに「いま、ここ」で感受しえないがゆえに、「若い」という概念が成り立たないということなのである。いいかえれば、つねに「いま、ここ」にあるがゆえに、「若い」とう言葉が成り立たないのである。まさしく、つねにすでに「いま、ここ」において、「若い」という言葉の意味が排除されているのだ。父が「若いころは、なんて言ったことはなかった」のは、父にとってこのつねに「いま、ここ」だけが文字通りに重要な「位置」を占めていたからにほかあるまい。いや、「若い、だけでなく、そのほかいろんな文字」が、父のなかで解体されていたのではなかったか。》

<いま、ここ>。<いま>とは、“瞬間”という“垂直の時間”のことであり、<ここ>とはそもそも時間をもたない空間的な広がりのことである。つまり、<いま、ここ>とは、時間の外部にある瞬間の広がりのことである。
人間は時間のなかに棲まっている。
<いま、ここ>は、時間のなかでは捉えることができない。時間的な構造をもつ言葉-文章においては、<いま、ここ>は、直前に書いたことの否定を通してしか指示できないであろう。田中小実昌の否定に否定を重ねていく文体は、言葉や観念を<いま、ここ>に微分しつづける運動の結果にほかならない。
ところで、<いま、ここ>は、時間のなかに棲まう人間にとっては、つねに“外部に刺し貫かれる”体験として受け取られることになる。
田中小実昌が『ポロポロ』で描き出した父親は、まさに、こうした外部に刺し貫かれた人間として存在している。

《だがそれにしても、「ポロポロ」とは一体何なのか。それは「信仰」に象徴されるあらゆる「持つ」ことにまつわる一切の「宗教的なもの」、すなわち「信念」や「イデオロギー」や「経験」や「意味」等々をなしくずしに解体する「宗教」である、ととりあえず定義することができるだろうか。
だが、このような定義もまた、「ポロポロ」によってなしくずしに解体され、無化されてしまうという思いを禁じえない。なによりも「ポロポロ」自らが不断に受けることによって、自身を含んだいかなる意味づけをも解体してしまうものにほかならないからだ。まさしくそれは「ポロポロ」なのだ。「ポロポロ」を受けること。不断に「ポロポロ」を受けっぱなしでいるがゆえに、「ポロポロはのこらない」という。
だが、不断に受けつづける「ポロポロ」において、あらゆる「宗教的なもの」をなしくずしに解体したあとに、なおもそこに残るものとはなにか。たぶん、そこに顕在するのは、つねに「ポロポロ」を受けている不断の現在、すなわち「いま、ここ」であるはずだ。逆にいえば、不断に「ポロポロ」を受けているまさに「いま、ここ」において、あらゆる「宗教的なもの」はなしくずしに解体、無化されるのだ。》

<いま、ここ>に立つ、とは、不断に「ポロポロ」を受けつづけるということである。受身を徹底して、“外部の神”に、自分の心身を晒しつづけるということである。
シモーヌ・ヴェイユの在りようを想起する。
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by daiouika1967 | 2008-05-28 09:21 | 日記  

5月25日(日) 曇のち晴

何をするでもなく、ぼんやりとしながら、ただ漠然と楽しい、という、休息が休息らしく過ごせた一日だった。
昼前に起きて、食事を適当に済ませ(もう記憶にない)、それから、300ピースのダヤンのジグゾーパズルに、妻とふたりで挑んだ。舐めてかかっていたらけっこう難しく、昼過ぎから始めて、完成するまでに3時間もかかってしまった。
3時過ぎ。午前中は雲に覆われていた空も、急速にその雲が綻んで、陽がさしはじめていた。妻と、歩いて30分ほどのところにある公園に散歩に行った。途中でコンビニに寄り、飲み物と、鳩の餌になる菓子を買っていった。公園に着き、ベンチに座って、鳩に餌をやっていたら、痩せた野良猫がどこからか現れ、寄ってきた。肩の肉がほとんどない、痩せた白っぽい野良猫だ。餌をやりたかったが、鳩用の菓子しかない。猫は食べないよな、すくなくともうちのPは絶対食べないよな、と思いつつ、試しにその菓子を砕いて与えると、ぺロッと食べてしまった。さすが野良はたくましい。
帰りに<ユニー>に寄って、パンや寿司を買って帰った。帰りついて、パンを食べ、程よく疲れを感じながら、ソファーに寝転んだ。妻が隣に寝転んできて、抱き合っているうちに、セックスになった。
夜。DVDで『キング・オブ・コメディ』。ロバート・デ・ニーロ演じるルパート・パプキン、何度観ても彼の状況を打ち破っていく突破力、というかほとんど神経症的な勘違いの力、場違いをものともしない暴力性にぐっとつかまれる。
録画してあったドラマ「おせん」を見つつ、夜飯には寿司を食べた。12時過ぎにはベッドに入り、うつらうつらする。いつのかにか入眠していた。
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by daiouika1967 | 2008-05-26 10:19 | 日記  

5月24日(土) 曇のち雨

8時過ぎに起床。パソコンで日記つけ、ネットの周回、仕事を済ませ、朝食は一昨日の残りのマカロニサラダと黒糖パンを食べた。9時半頃、家を出る。空は曇っている。今日は午後から雨になるということだったので折りたたみの傘を鞄に入れておいた。名駅の喫茶店で小島信夫『現代文学の進退』(河出書房新社)の続きを読み継ぐ。昼は栄町ビルの定食屋でランチミーティング。Z君と待ち合わせる。ミックスカツ定食(サーモン、ヒレ、エビ)を食べながら話をした。午後も『現代文学の進退』を読み継ぐ。350ページまで読んだところで集中力が切れる。小島信夫の文章は、ひとつの筋に沿って流れてはおらず、文章と文章の間、段落と段落の間に、唐突な感じのする断絶というか飛躍があって、しかししばらく読み進んでいくと、その文章が全体でたしかにひとつの意味をもったまとまりであることに気づき、場合によってはすこし後戻りして読み直したりしながら進むことになり、独特の集中力をもたなければ読めない文章なのである。読むのを中断し、<丸善>に歩く。午後から雨が降り出して、雨足はそんなに強くはならなかったが、地下街にもぐるとムンッと蒸し暑い。歩いていると、首や頭に、いやな感じの汗が滲んでくる。<丸善>では多羽田敏夫『滅亡を超えて -田中小実昌・武田泰淳・深沢七郎』(作品社)、東浩紀+桜坂洋『キャラクターズ』(新潮社)を買った。地下街を久屋大通まで歩き、喫茶店で風俗嬢の面接代行を一件済ませ、『滅亡を超えて -田中小実昌・武田泰淳・深沢七郎』を読み始める。田中小実昌と武田泰淳の章を読み終える。店に行き、カメラと商品撮影用の組み立て式簡易スタジオを借りて、地下鉄で上前津の事務所へ。カメラとスタジオを濡らさないよう気をつけて運んだ。事務所でオンラインショップで扱う商品を撮影して、K君と近くの喫茶店でカツ定食を食べながら、漠然と今後の仕事の打ち合わせをする。地下鉄で店まで引き返し、カメラとスタジオを返して、店からは歩いて帰った。今日は結果的によく歩いた。万歩計を見ると一万六千歩も歩いている。普段の倍だ。それに蒸し暑くてなんだか一日中汗をかいていたような気がする。すっかり消耗してしまった。夜は、DVDで映画を一本観た。『フィーメイル』というオムニバスの日本映画。予備知識まったくなしで観たのだが、意外に面白い。いや、かなり面白い話もあった。一本終わるたびにクレジットが流れるのだが、監督を見るとなかなか素晴らしいラインナップで、篠原哲夫、廣木隆一、松尾スズキ、西川美和、塚本晋也という名前が確認でき、そのたびに、なるほど、と思う。とりわけ、やはり廣木隆一が監督した2話目が飛びぬけてよかった。1時前、就寝した。

小島信夫『現代文学の進退』からの引用(ただ、小島信夫の文章は、ある断片が別の離れたところにある断片と共鳴し、それでひとつの体を成すといった文章なので、一部分を引用してもあまり意味がなく、また、「ひとつの体を成す」といってもそれは「ひとつのはっきりした意味に収斂する」ということではなく、だから全体を要約するということもまた難しいというか不可能なのだが)。

《自分の声は、時々よくきこえた。誰よりも自分の耳に、といってもよい。私どもは弱弱しい声を出して、世界をうつし出すことが出来ると思った。そして私はみずからを視点にしようと思った。そもそもみずからを視点にしようと思うべきでなく、みずからが視点にならざるを得ないところに、視点たるの意味があった。ところが、視点となることによって、視点たらざるを得ない意味の方が失われる。視点など仮のものだが、仮のものでないと思うとき、視点の意味が失われてしまい、このとき堕落がはじまる。堕落したときには、切実な声がきこえず、言いがかりの文句だけがきこえる。いつのまにか、その文句は世間一般の文句と近接し、世間ともども文句はいっぱいあるが、そんなものは小説世界を貧しくするだけのことである。どこで同じ車に乗り合わせてしまったのか。気がついたとき、作家も会社員も、学生もたぶん政治家さえも、自分の主張に自信を失い、あわてて仲間を求めはじめたようである。》
※どんな思考が世界を貧しくし(「文句を言う」というような、仲間への目配せをするような思考)、どんな思考が世界を豊かにするのか(思考=自己解体の意志の地点に立ち上がる思考)?

《一つの立派な新しい作品が出たということは、次にはその新しさに自分さえもついて行けない、というのは、小説の新しさの意味だし、とくに昨今はそうである。世の中とのかかわりあいと人間そのものの存在の仕方が、一層デタラメで、そのデタラメさが次の作品の中で見すえられて何らかの形で一つの要素となって来なければ、忽ち通俗化するし、次の新しいものに現れるはずがないからである。現代文学に巣食っている不安はそうしたものである。私が新しいというのは、ほんとうに新しいということで、私は新しさというものを、そんなふうに厳密に考えるのが好きである。》
《悪というものが(私もこういう言葉を口にするのは、できれば今回かぎりにしたいものだ)恐ろしくも何ともなく見えるというのは、作品の中のことである。実生活では、依然として悪事も悪も、恐ろしくないことはない。この恐ろしさを作品に描くにはどうしたらよいか。このことについては、少なからざる作家たちが意識するとせざるにかかわらず、苦労しているというのが、不思議なことだが、現状であるようにも思われる。》

《この芝居(アーサー・ミラー『セールスマンの死』)の中の二人の息子達は、自分の父親を何だと思っているのか。父親は子供を何だと思っているのか。何だってたかがおいぼれたセールスマンが、まるで神ででもあるかのように自分を扱うのか。子供がそう扱うことを期待し、子供もそうするのか。何だって子供は父親がおかした過失に、こんなに神を責めるように責めるのだろうか。何と父は子に気兼ねをすることか。
困ったことに、これがただの茶番劇であることをめいめいがどこかで知っていることだ。
その茶番が茶番だと知った瞬間に彼らは抱きあって泣くけれども、それもほんのつかの間だ。また茶番が待っている。こうして茶番であることを互いにかくしてしまう。(中略)
家をもったり、冷蔵庫をもったり、車をもったりすることは、もちろん生きるに必要なことにちがいないが、そういうことで協力してきたことも、なれあいだったのかもしれない。
私は子どもの頃から、いわゆる幸福とか、いわゆるいい暮らしというのが、好きではなかったようだ。何かしらうそ寒い気もするし、私は何かしらおそれてもいたと思う。なぜかわからない。育ちのせいだろうか。それだけではあるまい。
私は女が幸福によっている姿を見ると何か堪らない苛立ちをおぼえるようなところがあった。これをどう説明したら、自分にもわからせ、他人にもわからせることができるだろうか。》

《一言にいって、私は文章というものを非常に簡単に考えている。つまり、言いたいことが、十分にいえているかどうかということだ。というより、いいたいことがあるかどうか、ということだ。
いいたいことが大したことでなければ、十分にいわれたとしても、つまらないのだから、けっきょくいいたいことがほんとうにあり、そのいいたいことが、いうに価することであるかどうかということが問題になってくる。
それならば、いうに価することとは何であるか。本人がそう思っても、ただそれだけのことで、ハタから見て何でもないこともある。といっていうに価することかどうかは、いわれた文章を見てみなければ分からない。
私は以上述べたようなことが、文章の評価の根本だと考える。》
私はひとつのセンテンスと次に続くセンテンスとの間に少なくとも飛躍のようなものを何となく心がけている。会話と会話のかんけいの場合もそうだし、会話と地の文のつながり方にも、出来ればそうしたいと思っているようである。私は誰からそうしなさいと教わったわけでもないし、物の本で教わったわけでもなく、書いていて、そうしないと文章が死んでしまったように思え、書く喜びが感じられないのである(ほかの人達は、その人なりに、似たようなことがあるに違いない)。
飛躍といっただけでは、不十分であって、その二つのものからある意味がうかんでくるといった方がいい。それなら意味とは何であるか、というと、それは言葉にして意味内容をほかの言葉でカンタンに出来ないようなものであった方がいい。にもかかわらず、たしかに意味がかんじられる、といったものである。》
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by daiouika1967 | 2008-05-26 09:57 | 日記  

5月23日(金) 晴

7時前にPに起されそのまま起床。パソコンの前で、日記つけ、ネットの周回、仕事少し。昨日の残りのマカロニサラダと黒糖パンとインスタントスープの朝食をすませ、10時になった。着替えて家を出ようとするが、妻に「いってきます」を言おうとベッドの際にしゃがむと、彼女が暗い不穏な感じの目つきをしていたので、心配になって、再びかぶっていた帽子をとって、隣に寄り添って横になった。昨夜はすこし緩和したかと思ったのだが、やはり何か怒っているというか気分の具合が悪いらしい。軽くパニックっぽくなるのを、抱きしめて宥めているうちに欲情してきて、そのままセックスになった。セックスが終わると、妻がすこし落ち着いたので、おれも下半身だけ裸のまま、しばらく彼女を抱いてうつらうつらした。窓からは爽やかな風が流れて、ずっと浸っているとすこし肌寒くなるくらいだった。彼女の体温が心地よく、気分は晴れないまま、でもものすごく気持ちがよかった。けっきょく、家を出たのは2時を回った辺りになった。妻はまだ暗いぼんやりした顔つきをしていて、でも、パニックは過ぎたようである。午後、仕事で人と会い、そのまま喫茶店で丹下健三『青色賛歌』(河出書房新社)を読んだ。○。それから、喫茶店を変えて、小島信夫『現代文学の進退』(河出書房新社)を読み始める。145ページまで。読みながら、合間に仕事の電話を何件か架ける。夕方、家に帰ると、妻はだいぶ調子が戻ってきているようで、はしゃいだようなテンションはもちろんなかったし、テレビもつけておらず部屋はしんとしていたが、それでも朝よりはずっと穏かな感じに見えた。夜飯は妻が拵えたチキンライスとマカロニサラダ。チキンライスはかなり美味しかった。食べながら、妻がぼそっと「これ、昔、喫茶店でバイトしてた頃、作ってたやつ」と言う。「ああ、美味しいよ、これ。友達がやってる喫茶店で出てくるのよりずっと美味しい」と応える。食後、お茶を飲んでいたら、ダヤンのジクゾーパズル(100ピース)を見せてくるので、「これ、今日やったの?」と聞くと、「うん」と答える。「Mさんは、こっちの300ピースのやるの」と言って、300ピースのパズルの箱を差し出してくる。なぜジグゾーパズル?という疑問がないでもなかったが、妻のやることにいちいち細かな疑問を抱いてもしょうがないので、ジグゾーパズルの箱の封をとき、ピースを、縁のやつとそれ以外のやつによりわける作業をした。そうしているうちにも、妻はじょじょに調子を取り戻しつつあったようで、おれがピースの仕分けを終え、「でも、やるのは、日曜ね」と再度ピースを箱に戻し、パソコンの前に座ると、妻はミシンの前に座り、友達の息子が使うというピアニカのケースを作り始めた。機関車トーマスの布を縫い合わせていく。おれはすこし仕事をしてから、鶴ケ谷真一『月光に書を読む』(平凡社)を読み始めた。タイトルの連作エッセイ、岩本素白の「点描」、柴田宵曲の評伝。途中、風呂に入って、1時前には読了した。そのままベッドへ。
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by daiouika1967 | 2008-05-24 09:04 | 日記  

5月22日(木) 晴

8時過ぎに起床する。ソファーのため、眠りの質は良くない。夜中から明け方にかけて何度か目を覚ました記憶と、夢の記憶とが、曖昧に混濁している。パソコンを立ち上げ、日記をつけ、ネットを周り、朝食はパンとインスタントスープ。11時過ぎ、家を出た。喫茶店で、昨日読んだ『季節の記憶』の続編、保坂和志『もうひとつの季節』(中公文庫)を読む。<ジュンク堂>で平岡篤頼『記号の霙 ―井伏鱒二から小沼丹まで』(早稲田文学会)を購入。喫茶店で読み、読了。論じられる作家は、井伏鱒二、森敦、武田泰淳、小島信夫、吉行淳之介、阿部公房、小沼丹。夕食は妻が拵えたマカロニサラダ、小松菜と舞茸の炒め物。妻はまだちょっと暗いが昨日よりはマシな感じになっている。夜、DVDで市村昆監督『犬神家の一族』。「前作とほとんど同じリメイク」と話題になった作品である。つまらなくはないが、なんだか昔の二時間サスペンスを観ているような感じがした。ある意味、懐かしいというか。12時過ぎにベッドに入った。どうも寝つきが悪い。ミロクを聴きながら、1時前には眠っていたか。

目に見えない境界と、その境界を越えるという経験、越境のことを考える。
例えば、ルイス・ブニュエルや、川端康成のように、「あたかもそこに境界など存在しないかのように」振舞うには、どんな精神的な姿勢が要請されるのだろうか。……


壁がある。その壁は、《こわそうとしてもこわすことのできない壁なのである。というか、ひとつの壁をこわしたと思うと、その時にはすでにもうひとつの壁がその向こうに現われているといった種類の壁である。すなわち幻の壁であるが、だからといって、それが壁となってわれわれの行手を遮ることに変わりはない。それは私と他者、見る私と感じる私、書く私と存在する私、生と死等を隔てる壁である。いちばん危険なのは、まさにその壁をこわしたと思ったその時なのである。理想的なのは、壁をそのままの状態にして幽霊のように通り抜け、壁の向こう側にもこちら側にも同時にいることである。だが、それに成功したと思ったその時にも、はやくも壁はこちらの背後にまわって、その向こうを見えなくしてしまう。

「いちばん危険なのは、まさにその壁をこわしたと思ったその時なのである」というくだりは、しっかり銘記しておかねばならない。
「壁をそのままの状態にして幽霊のように通り抜け」ること、自らを二重化して、「壁の向こう側にもこちら側にも同時にいる」ような在りようをすること。
そのためには、壁の材料となっている言語を、一般的な用法からズラし、ズラしつづけなければならないだろう。
ただし、「ズラしつづける」というスタイルがスタイルとして固着してしまえば、そこからもまた逃れなければならないわけだが、ともあれ、それは、実際にどのようなテキストとして実現してきたのだろうか。
言語にとってはつねにA=Aであり、A≠非Aなのである。A=非Aを可能にする言語は果たして存在するだろうか。それが今日、洋の東西を問わず、形骸化したリアリズムの桎梏を断ち切ろうとする作家たちが、おのれに問うている最大の課題であろうが、森敦がそこにひとつの風穴をあけたような印象を受けるのは何故だろうか。
それは彼が、一語単位で勝負をせず、文の構成や記述の順序やストーリーの展開、かりにそれをひっくるめて<構造>というとすれば、作品の構造によって勝負しているからであるに違いない。一語でAと非Aとを表すことはできない。だが、<Aは非Aである>(<現実は夢である><現在は過去である><ここは彼方である><生は死>等等)と執拗に、だがそれとなく、不断に繰り返すことによって、Aは少なくとも完全にAではあり得なくなる。

一般的な用法を離れて、テキストを言語表現の自律的な運動のもとに解放することが、必要になる。
例えば、後藤明生の次のような文章を、平岡は引用する。
《舌切り雀のおじいさんやおばあさんはどうしたかな、あそこに行こう、とぼくが言うと、舌切り雀のおじいさんやおばあさん?舌切り雀のおじいさんやおばあさんはもう亡くなったのよ。惜しいことをしたわね。いまなら、なんとでもして上げられたのにね、と母が笑った。でもあれはあれで、お仕合わせだったのよ、といった気持ちが、母の表情から読み取れた。ところが、弟が横から口を出した。うん、惜しいことをした。いまなら、なんとでもしてあげられる。》
そして、この文章に頻出するくどくどしい「繰り返し」こそが、テクストを現実の次元から解放し、言語が自己増殖する磁場を創出する効果を持っている、と論じる。
《通常はこういう語り口はくどさとみなされ、実際、後藤明生がその独創性を高く評価されながらも、しばしば批判されるのもその点なのである。だが、単なる不注意からではなくて意図してこのような機械的反復が繰り返されるということは、それなくしては実現できないある積極的な態度決定、ある文学観の具象化が目指されていることを示すのであり、それを図式化すれば次のようになろう。すなわち、母親の側の「舌切り雀のおじいさんやおばあさん?舌切り雀のおじいさんやおばあさんはもう亡くなったのよ」の代わりに、単純に「あの方たちは……」とあれば、母親の科白は既存の<現実>の記述となるのにたいして、上の引用文では、「舌切り雀のおじいさんやおばあさん」の二度の反復が「もう亡くなったのよ」という記述を生み出し、したがってテクストは<現実>の記録という役割を離れて、言語表現のレベルで勝手に自己増殖するテクストとなる。(中略)
既存の意味を伝達するのではなく、新しい意味を自力で紡ぎだすことがテクストの役割となる。》

日常言語から解かれた、自律するテクストの創造。ただし、ここでも、「文学という制度」に囚われないよう、気をつけなければならない。
例えば小島信夫は、その制度から逃れるための方法として、「反完璧主義」を実践する。ある一定以上の速度をもって書き、ほとんど推敲もしない。その結果、文章のリズムは悪くなるが(いわゆる「悪文」になるが)、しかし、《既成の小説の形式の罠に陥るまいとすれば、多少の犠牲は仕方がない》のである。
《小説が文学芸術の一部門である以上、小説のなかの言葉も日常言語とは違って、芸の要素を持たねばならぬことは明らかだが、それだけに文章に凝るということは、ほとんど必然的に、今までの諸説言語を練りあげてきた小説形式の罠(=様式)に陥ることになるのではないか。そこにあらわに嗅ぎとれる芸術性という神話、「ああ、あれはだめです」という評言に端的ににじみ出す、我こそは美の女神の祭司である、芸術家であるという自負、人生の落伍者を描いて名を成したはずなのに、自分は他人と違うという劣等感がいつのまにか優越感に転化して、文学や文化の将来を憂えるのが自分の責任だとまで思いこませる不思議が、まさにこの作家(小島信夫のこと)には不思議と映っているのではないかと思う。》
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by daiouika1967 | 2008-05-23 09:34 | 日記  

5月21日(水) 晴

8時過ぎに起床、日記つけ、ネットの周回。10時に家を出る。名駅の喫茶店で保坂和志『季節の記憶』(中公文庫)。午後、北山修『幻滅論』(みすず書房)。<バナナレコード>でリチャード・ディヴァイン『アセクト:デセクト』、ark『alleluyark』購入。<69>でremixセレクション『サウンズ・フォー・ニュー・ミレニアム』、クラフトワーク『ツール・ド・フランス』購入。家に帰ると妻がムスッとしていた。電気も点けずにパソコンに向かっている。ただいま、と言っても返事もない。おれに対して何か腹を立てているのか、それとも、おれとは無関係な誰かに腹を立てているのか、あるいは、ただ体調がすぐれず不機嫌になっているということなのか、ともあれ、妻の思うところを探ろうと、「調子悪いの?」と聞いてみる。「ううん」という答えが返ってきた。こういうときの妻は、取りつく島が無い。「そう。なんか元気ないね」とだけ言って、話を打ち切った。妻は、ムスッとしつつ、それでも夜飯の準備はサクサクと済ませ、夜飯はマーボー丼。味は良かったのだが、終始無言の食卓で、喉が詰ったようになって味気なかった。いつもはおれが後片付けをするのだが、今日は、おれが片付ける前に、妻がさっさと動き、片付けてしまった。食後、妻はふたたびパソコンに向ってしまったので、おれもパソコンの前で仕事をした。ちょうどやらなければならない仕事があった。こういうふうな冷え冷えした空気のなかだと、不思議と仕事はよくはかどる。手仕事は、周りの状況を遮断できるので、そこに逃げ込むのにちょうどいいということなのかもしれない。風呂にはいっしょに入り、それからDVDで『透光の樹』を観た。根岸吉太郎監督。ほとんど男女2人で進行する映画。頻出するセックスシーンは退屈で、映画でセックスを撮るというのは、やはり難しいんだなと思う。セックスは媒介なしのコミュニケーションだが、そのような融即状態は画面には映らない。ふたりの人間が登場するとき、画面に映るのは、そのふたりの間にある「距離」の方なのである。いや、映画は全体としては良かったのだが。映画を観終え、夜、1時前。妻はソファーに寝転がって、今日はこのままここで寝る、と言う。ベッドに連れて行こうとするが頑強に動かない。仕方がないので、おれもそのままソファーで眠った。そういえば、昔はよくこんなふうに、他人の家でごろ寝したよなあ、等と思い出す。


保坂和志『季節の記憶』の一場面。文章はリニアなものだから、放っておくと、すぐにひとつの観念や物語の筋のようなものに収斂していこうとするが、保坂和志の小説では、文章を読んでいる読者の意識が、そこで描かれている「場」全体に開かれるよう、工夫されている。
《美紗ちゃんはどう言うか考え、息子はパーカーの裾をまくり上げてそれを口に押し当てて「buwwwwww……」と息を吹きつけて、生地と自分の口がすごく熱くなるのを面白がっていて、僕は沢口さんという松井さんの隣りの家に生えているアカマツを上目づかいに見上げた。
両手のひらで囲んでも全然足りない太さの幹から一メートル五十センチぐらいの間隔で二本三本の枝がほぼ水平に伸び、枝が伸びている箇所ごとに趣幹が左に十五度右に十五度という感じで折れ曲がっているのだけれど全体としては上に向かって伸びているその感じが松というよりも杉とか檜のようで、二階の屋根よりもさらに高いところで主幹といえるものがなくなってごちゃごちゃとまだ方向の定まらない枝が五本六本広がって(いずれこの中のどれもかが主幹になってもっと高く伸びるのだろうが)そこで松の緑の葉っぱを繁らせているのだが、木の形というのは不思議にきちんと憶えられないもので、こんな単純な形の木でも僕は見るたびにいままで見そびれていた枝を見つけるような気がして見上げていたが、美佐ちゃんは、
「ナッちゃん、なんか無理してたっていうか―」
と言って、また考えた。》

本来、出来事には、一義的な意味があるわけではない。出来事は、その出来事が起こる“場”全体に開かれており、その出来事にどのように関わるか、どう感じるか、ということも、人によって異なってくる。“ひとつの”出来事といっても、それが出来事である限り、万人にとって“ひとつの”意味しかもたないということはありえず、出来事はその出来事に関わる人間や物事の幅だけの多様性をはらんでいる。
登場人物のナッちゃんが、別れた元旦那のことを喋るその内容に、主人公の僕が拒絶感を覚える場面がある。
《僕はこういう話はナマナマしくてダメなのだ。
ナマナマしいといっても、それは現実が剥き出しになっているナマナマしさなのではなくて、ナッちゃんという人の感情の中の憎悪や執着という限られたものが剥き出しになっているだけで、世の中にはそういうものだけが重要だったり真実だったりすると思っている人がいるが僕はそういうナマナマしさは嫌いだし意味がないと思っている。(中略)
それにナッちゃんは別れることになった原因とか直前の生活なんかについてはまったく話そうとしないから、こっちは聞かされているのはナッちゃんの感情ばかりで事実の方は何もわからない。》
これは、《自分のいま感じていることが絶対で、だから自分の身に起こっていることは何を話しても話しはじめると実際以上の感情が噴き出てきてものすごく大変なように見える》というタイプのナッちゃんの話に対する、主人公の拒絶感である。
しかし、多くの、いわゆる「文学」は、この「ナッちゃんの話」のようなものではないか。独善的で、どうでもいいことを大袈裟に扱い、そのくせ事実を計るための重要な情報は何も含まれていない。このくだりは、そのような退屈な「文学」への批判というふうにも読めるのではないかと思った。
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by daiouika1967 | 2008-05-23 08:02 | 日記