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7月30日(水) 晴

来月21日から一週間ほど、仕事がらみでインドに行くことになった。インドはパスポート以外にビザがいる。ビザを取得するためには東京のインド大使館に行かなくてはならないのだが、面倒なので、ネットで調べたら、ビザ取得の代行会社というのがあるらしい。そこを利用することにし、そこのHPから申請書類をダウンロードし、記入する。そんなことをしているうちに、午前中が過ぎてしまった。

午後、喫茶店で、谷川健一『魔の系譜』(講談社学術文庫)を読む。文庫のもとになった単行本は、1971年の刊行とある。民俗学者谷川健一の、最初期の論考を集めた文集ということになる。
「怨念の序章」「聖なる動物」「崇徳上皇」「バスチャン考」「仮面と人形」「再生と転生」「地霊の叫び」「魂虫譚」を読む。206ページまで。

<タワーレコード>に行く。久保田麻琴『スピリット・オブ・ヒーリング』シリーズの『インド篇』を見つける。前に「バリ篇」は買って、ずっと愛聴している。最深のチルアウトミュージックだ。
それから、フェデリコ・モンポウの音が聴きたいなあ、あるかなあ、とクラシックの棚に行くと、高橋悠治がモンポウの曲を演奏した『孤独の響き モンポウ 沈黙の音楽』を見つけた。
ついでにエリアフ・インバル指揮・フランス国立管弦楽団『ムソルグスキー(ラヴェル編曲):展覧会の絵、ラヴェル:高雅で感傷的なワルツ、他』も買う。

夜、DVDで映画を二本観る。
中田秀夫監督、萩原聖人、中谷美紀主演『カオス』。例えば人物の何気ないバストショットが、なぜか不安を喚起する。中川信夫の映画を連想する。萩原聖人の、疲れたようなたたずまいは、やはりとてもいい。
萩原聖人といえば、黒沢清監督『キュア』の間宮役の印象がとても強く、アンソニー・ホプキンスといえばレクター博士、ボリス・カーロフといえばフランケンシュタインが思い浮かぶように、萩原聖人といえば間宮が思い浮かぶ。おれにとって、特別な俳優の一人である。
次いで、『チンソクの夏』。1970年代後半の下関を舞台に、韓国人の男の子と日本人の女の子の、ロミオとジュリエットのようなラブ・ストーリー、といったお話はおれにはどうでもいいのだが、準主役に上野樹里が出演しており、彼女に見とれているだけで、時間がもった。
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by daiouika1967 | 2008-07-31 10:54 | 日記  

7月29日(火) 晴

網野善彦『「日本」をめぐって ―網野善彦対談集』(洋泉社)を読む。対談相手は、田中優子、樺山紘一、成田龍一、三浦雅士、姜尚中、小熊英二の諸氏。

武術家の甲野善紀がその身体運用の術理を説明するとき、「身体を割る」という比喩を使うことがある。
私たちは、武道の試合をはじめとする戦闘の場面で、ある無意識の定型のなかで、身体を動かしている。
例えば、相手を殴ろうとするとき、パンチの勢いをつけるために、必ず殴る前に一瞬のタメをもたせてから、そのバネを利用して、パンチを繰り出すということをする。
その「タメ」は、時間としてはほんの一瞬のことなのだが、その「タメ」があることで、相手に次の動作の予測を許してしまう。
ボクシングの試合などで、いかに速いパンチであれ、容易にヒットすることがないのは、どれだけ速いパンチであれ、そこに「タメ」がある限り、相手はそのパンチを予測できるからということになる。
「パンチを打つときその前に必ず「タメ」をもたせてしまう」―そうした一連の動きのパターンが、さっき書いた「無意識の定型」ということである。
普通は、武道の試合においては、この定型の範囲のなかで、いかに速い、強い攻撃が可能か、といったことが競われることになる。
しかし、甲野善紀が探求する武術においては、その定型そのものを解体することが目指されている。
つまり、例えばパンチの例で言えば、まったく「タメ」をもたせることなくパンチを打つことができるなら、相手はそのパンチを予測できず、そのパンチを防御することが不可能になる。
理屈はそうなるが、しかし、「タメをもたせずにパンチを打つ」などということは、じっさいにやってみるとわかるが、ほとんど不可能なのである。
この「ほとんど不可能」な「無意識の定型」の解体、その実践が甲野善紀のいう「武術」の実践ということになる。
もちろん、それは「身体で覚える」「身体で気づく」しかないような実践ではあるのだが、甲野善紀が語る武術の術理には、武術の世界を超えて応用しうるイメージに満ちている。
戦闘の場面に限らず、私たちは、日常の所作において、あるいはまた、思考においても、「無意識の定型」に囚われた状態にあるといっていい。
甲野善紀が語る術理には、その一般的な意味での「無意識の定型」をも解体しうる可能性が含まれている、というか、その術理のイメージにはそのようにも読めるだけの拡がりが含まれている。
「身体を割る」という術理もまた、そのような拡がりを含んだイメージである。
「身体を割る」とは、身体を小さなユニットに細分化する、ということだ。
ひとつの動作を行なうとき、その動作の「無意識の定型」に沿って行なうのではなく、その都度、分割された各ユニットを組み合わせて行なうようにする。
そうすることで、無数の定型外の身体運用が創出される可能性が開けてくる。
そのことでまず、その動作は相手にとって予測不可能なものになる。
そして、相手がいない場面においても、「無意識の定型」にもとづいた動作をはるかに超える、「より合理的」な身体運用の方法を探ることもできるようになる。
例えば甲野善紀は、介護などの場面で、腕の力がない人でも、寝たきりの人を軽々と動かしたりする身体運用の方法を開発したりしている。

網野善彦の著作を読むと、私たちが漠然と無意識のうちに持っている、「日本」「民族」「歴史」といった閉塞的な観念が解体され、ある風通しのいい原野に解放されるような心地がする。
網野善彦は、《本来ならば連続していないものを連続しているように見せ、均一でないものを均一に論じくくり上げてしまう》、ある無意識の作為にもとづいた観念的な言説を、歴史的な事実を積み上げていくという方法論を通して、一切解体してしまうのである。

その「原野」には、古代と未来が出会うところに結像する、人間存在の可能性が幻視されるだろう。

夕方、横尾忠則の初の小説集『ぶるうらんど』(文芸春秋)を読む。
死後の世界の物語。
死後の世界は、時空や物体の制約がなくなり、その人の想念だけで世界が出来上がっている。
しかしそれは逆に言えば、その人の想念を超える世界が消滅する、ということになるので、その人の想念を超えることは何も起こりえない、ということでもある。
起こることはすべて自分にとっての「必然」であり、そのすべてに「意味」があるという、パラノイアックな世界。
死後の世界では、だから、つねに自分に向き合っていなければならない。
横尾忠則は、死後の世界をそのように設定することで、そこに自分の脳内を映し出そうとしたのではないか。

<三省堂>に寄り、内田魯庵『思い出す人々』(紅野敏郎編 岩波文庫)を見つける。それとマンガを一冊、白井弓子という人の『天顕祭』(sanctuary books)を買う。
『天顕祭』を読む。いわゆる伝奇ファンタジー。つまらなくはないのだが、いまひとつのりきれなかった。
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by daiouika1967 | 2008-07-30 11:01 | 日記  

7月28日(月) 曇 午後、パラパラと雨

今日は曇って涼しくなった。午後には雨がパラついて、クーラーの効いた喫茶店に入ると、肌寒いくらいだった。

午前中から午後にかけて、フリートマル・アーペル『天への憧れ ―ロマン主義、クレー、リルケ、ベンヤミンにおける天使』(法政大学出版局)を読む。
眠たくて、読んでいる最中、ときどき意識が途切れた。はっと気づくと、目を瞑っている。半醒半睡で読みすすんだ。

パウル・クレーの描く天使について。「構成に還元」された「生成途中」にある天使。
《まさに天使はクレーにおいて、あらゆる体験の暫定性を表す符牒になる。ロマン派の文学と絵画における天使は、美しく純潔な子供たちであり、子供たちがしばしば充分に持ちあわせていない未来への喜びを放っている。クレーにおいてこの希望に満ちあふれた子供らしさに関するものは、構成に還元されている。つまりその子供らしさはもはや絵像からでは見いだされえず、それは描写法のなかに取り込まれている。この還元的な方法で、天使はそれでも希望の符牒であり続けている。もちろん、将来どのようになるかを具体的に描出することを拒否している、そのような希望の符牒である。クレーの天使は、ほとんどが生成の途中にあり、彼らはたいて翼のようなものをもってはいるが、彼らが飛ぶことができるかどうかは不明である。》

リルケの定位する天使について。「目に見える存在物に捕らわれた状態の対立像」としての「おそろしい」天使―人間にとっての不可能性を体現した、「より烈しい存在」としての天使。
《ああ、いかにわたしが叫んだとて、いかなる天使が
はるかの高みからそれを聞こうぞ? よし天使の列序につらなるひとりが
不意にわたしを抱きしめることがあろうとも、わたしはその
より烈しい存在に焼かれてほろびるであろう。なぜなら美は
怖るべきものの始めにほかならぬのだから、われわれが、かろうじてそれに堪え、
嘆賞の声をあげるのも、それは美がわれわれを微塵にくだくことを
とるに足らぬこととしているからだ。すべての天使はおそろしい。》

そして、リルケの「おそろしい天使」のイメージは、時空を満たすほどの宇宙論的な広がりを描く。
天使とは、世界のことである。天使こそが、実在している。人間は、影のようなものだ。
《おんみらこそ創世の傑作、造化の寵児、
創造界の高嶺、朝日に映える
尾根―咲きにおう神性の花の花粉、
光の関節、歩廊、階段、玉座、
本質から成る殿堂、歓喜に輝く楯、魂を拉し去る
恍惚の台風、しかも個々の天使としてはたちまち静謐の
鏡、溢れ出したおのが美を
おのが顔貌の奥深くに回収する。》


地下街の本屋で、島尾敏雄『「死の棘」日記』が新潮文庫になっているのを見つける。網野善彦『「日本」をめぐって ―網野善彦対談集』(洋泉社)、岡崎武志『昭和三十年代の匂い』(学研新書)とあわせて買う。

夕方、岡崎武志『昭和三十年代の匂い』を読んだ。

夜、DVDでアメリカのテレビドラマ『ボーンズ』のVol.10、11を観た。これでシーズン1は終わりである。シーズン2は今秋DVD化されるらしい。
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by daiouika1967 | 2008-07-29 10:09 | 日記  

7月27日(日) 晴 遠くで雷

昨夜はひさしぶりに飲んだ。飲んだといってもビールだが、焼肉を食べながら、生中を5杯飲んだ。おれはアルコールに弱いので、ビールとはいえ5杯というとかなりの酒量になる。いつもなら2杯も飲めば眠たくなるのだが、昨夜は不思議と5杯飲んでも別になんともなかった。不思議である。知らないうちにアルコールに強くなったのだろうか。

自分の体がつかめない。

自分の体がつかめない、といえば、最近、よく体のあちらかこちらが痒い。虫にさされたわけではない。蕁麻疹のようなものだろうか。掻いているとかぶれてヒリヒリと痛くなり、それで掻くのをやめる。そのヒリヒリと痛くなったところが、傷になって残るときもある。全身傷だらけである。傷だらけの天使……

矢作俊彦が書いた『傷だらけの天使』はぜひ読んでみたい。矢作俊彦の小説は、そういえば一冊もまともに読んだことがない。まず『傷だらけの天使』を読んで、おもしろかったらまたまとめて読もう。

今日は10時過ぎまで眠った。熟睡したわけではない。明け方にPがゲコゲコやっている音で目が覚めた。ここ3日ほど、Pが毎日吐く。去年も、夏はよく吐いていた。クーラーのなかにずっといるから喉が渇くらしく、水をやたら飲む。それが悪いのだろうか。しかしクーラーを止めるともっとひどいことになるだろう。熱中症で死んでしまうかもしれない。ドライフードを変えてみたら、それがおいしいらしく、やたらの量を食べるようになった。過食気味のようだ。それがよくないのだろうか。猫のくせに食べる量を自分で調整できないのだろうか。いずれにしろ心配である。獣医科に連れて行こうか、と妻と相談する。今週の様子を見て、吐くのが止まらないようなら連れて行こう、と思う。

目が覚めると、自分がニンニク臭かった。

とりあえずシャワーを浴びる。

植木に水をやる。きゅうりがだいぶ育ってきて、弦が巻き始めた。
睡蓮鉢を見ると、メダカが一匹死んで浮いていた。
その死骸の上半身がなくなっている。
メダカは20匹入れてあるのだが、残りの19匹が食べてしまったらしい。しばらく見ているうちにも、何匹かがスーッと死骸に寄ってきて、肉がぶよぶよしているところを美味しそうにつついていた。
水が腐るといけないので、とりあえず死骸を取り出し(残りのメダカたちは「なぜ我々のご馳走を取り上げるのか」と抗議のデモ遊泳をやっていた)、ティッシュにくるんでおく。おれはゴミ箱に捨てようかと提案したのだが、妻は、いやぁ、それはちょっとなぁ、と言う。じゃ、公園持ってって埋めるか、ということに決まった。

午後は、クーラーの効いた部屋で、ダラッとした感じで、DVDを観て過ごした。
熊澤尚人監督、蒼井優主演『ニライカナイからの手紙』。
舞台は沖縄本島よりずっと南にあるという竹富島。その海に囲まれた南国の自然のなかを蒼井優が歩いたり、座っていたり、ご飯を食べたり、と動いているだけでも観ていて飽きない。
彼女が7歳の頃、東京へ行ってしまった母親。母親はずっと帰ってこないのだが、一年に一度、彼女の誕生日のときに、その母親から手紙が届く。14歳のときの手紙には、彼女が二十歳になったらすべての事情を話す、と書かれてあった。
映画は、彼女が高校生を卒業する18歳の頃から、20歳になるまでの2年間を中心に描かれる。彼女は写真家志望で、高校を卒業した彼女は、プロカメラマンのアシスタントとなる。後半、舞台は、竹富島から、東京に移る。
そして、いよいよ二十歳の誕生日。母親からの手紙には、待ち合わせ場所を指定する内容が書かれてあった。彼女は、母親にどんな真相を聞くことになるのか。
物語はけっこうベタな展開を見せる。おれは、人の死を語ることで安易に感傷を煽ろうとする作品は、あまり好きではない。この映画も、その例外ではなく、安易な物語の作り方してんなという苦々しさは感じた。しかし、物語とは別のところ(例えば、竹富島の自然の風景の豊かさ、蒼井優のちょっとした仕草や表情の喚起力)で、退屈はしなかった。
しみじみとした気持ちになる。

映画を観ているあいだずっと、雷が遠くで鳴っていた。夏の午後。

夕方、6時過ぎに、妻といつもの公園まで散歩に出た。歩いているうちに、夕暮れが宵闇のなかに溶け出していく。風が吹き渡って、涼しかった。
スコップを持っていき、公園でメダカの半身を埋めた。
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by daiouika1967 | 2008-07-28 09:28 | 日記  

7月26日(土) 晴

中村圭志『信じない人のための<宗教>講義』(みすず書房)を読む。

本書には、世界的な規模の各宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教、儒教、道教、ヒンズー教、神道)の、簡にして要を得た概説書といった側面がある。
啓蒙的な宗教の解説書は数多く出版されているが、そのほとんどは、外からの眼差しで、その宗教の外枠をなぞっただけのもので、読んでいて退屈してしまうものが多い。
しかし、この本は、そのような凡百の解説書とは一線を画している。
例えば、日本の鎌倉新仏教について記述された箇所を引用してみよう。
《鎌倉新仏教のシンプル化のエフェクトとして、「救われない⇒救われる」「信じられない⇒信じる」という信仰のベクトル(⇒)の神秘が純粋に取り出されたと要約することも可能かもしれません。信仰の微分係数のようなものが抽出された。それが念仏(「南無阿弥陀仏」)であり唱題(「南無妙法蓮華教」)でありひたすらの坐禅であった。これによって日本人の精神的負担の一部が軽減されました。インド以来の仏教哲学の重荷から解放されてしまった!》
鎌倉新仏教の開祖、法然、親鸞、日蓮、道元といった人びとにはもちろんそれぞれに独自の大きな思想があるわけだが、著者は、それらをすべて含めてざっくりと「要約」してしまう。
ただし、その「要約」がただ一般通念に沿って分かりやすい部分だけを繋ぎ合わせたようなつまらないものではなく、各宗教の肝要な部分を的確に抽象したものであるがゆえに、その記述は読んでいて退屈することがない。
興味深く読み進めているうちに、世界の宗教状況の「だいたいのところ」が、整理されて頭に入る仕組みになっている。
もう一箇所、日本という国の、神道、仏教、儒教、道教、民俗的な民間信仰などがチャンポンになったような宗教状況についてどう見ていけばいいのか、著者の解説するところを引いておこう。
《キリストの救いやコーランの啓示のように、単一のシステムによって当該の宗教を要約できる一神教的な世界の場合と異なり、日本の多神教的な宗教世界においては、神話も、神の由来も、死後の世界も、救済理論も、修行のしかたも、お祭りのしかたも、参加資格も、組織体系も、それぞれ微妙に異なる(仏教、儒教、道教、その他の中国的伝統、日本の民俗的伝統に由来する)無数のユニットが、時間軸に沿い、空間的広がりにしたがって、波状に断続しています。そんな複雑な万華鏡的な世界としてしか日本の民俗的宗教の地勢は描写できません。》

この本の後半では、各宗教の差異はいったん保留して、いわゆる「汎宗教的なもの、感性」が、日常の世俗的世界のなかでどのように成り立っているのか。世俗的世界と宗教的世界はどのような連関をもっているものなのか。つまり、宗教そのものの成り立ちについて考えられている。そして宗教の成り立ちについて考えるということは、そのまま日常の世俗的な世界はどんな世界なのかと考えるということでもある。
タイトルにもあるように、「信じない人」にとって、宗教とはどのようなものなのか。
本書の前半では、世界に分布する宗教の概要を知ることで、その宗教を「信じている人」たちについて考えられ、後半では、では「信じない人」にとっては宗教(「宗教的なもの、感性」)はそもそもまったく無縁なものなのか、それとも「宗教的なもの、感性」を抽象していけば、どこかで何らかの内在的な関係が見出せるものなのか、そういったことが考えられている。
《私たちはまず、「宗教」的次元(あっちの世界)のようなものが、功利的・実用的な日常世界(こっちの世界)とずれた位相に、普遍的に存在しているのではないか、と考えました。人間世界を包む大気圏の上層部に成層圏を弁別することができるように、世界空間は下層の日常圏と上層の宗教圏に分かれるかのようにイメージするのです。
しかし、よく考えてみると、この二層のあいだには深い相互関係がある。宗教圏のあり方は、日常圏における功利性のあり方、論理のあり方、生活様式のあり方によって支えられている。そうであるならば、むしろこの日常圏における地理的・歴史的相違のほうをひちまず重視して捉えるべきではないだろうか、という発想も出てきて当然です。
つまり、ここには横割りの思考(日常圏と宗教圏とを水平に分ける)と、縦割りの思考(社会ごと・時代ごとの差異を重視する)との対立があるわけです。
横割の思考においては、人間はみな平等に「宗教」的な次元に接している。キリスト教も仏教もイスラム教も神道も、あるいは種々さまざまな新宗教も、それぞれなりのやり方で超越的次元と触れ合おうとする試みであると言える。
しかし縦割りの思考においては、むしろ大事なのはキリスト教社会であれ、他のいかなる社会であれ、それぞれなりの伝統のロジックの構造なのであり、また、地域や言語や時代によって多様に異なる社会のあり方だということになります。「宗教」はそれぞれの枠組みのなかで働く一要素にすぎず、普遍的な「宗教」という次元を立てることに意味はない。
宗教的次元と日常的次元の区別、あっちとこっちの区別にどこまでこだわらなければならないのかは、疑問符がついたままということになります。
私としては、縦割り思考と横割思考とのあいだに決着をつけようとは思いません。両者の格闘技は永遠に続くでしょう。それでもちっともかまわないと感じております。》

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by daiouika1967 | 2008-07-27 23:58 | 日記  

7月25日(金) 晴

暑い。今日も昨日に引き続き猛暑だ。さすがにちょっとバテてきた。今日も妻は病院通いだ。昨日に引き続き大須でいっしょにご飯を食べる約束をする。地鶏の店でカラアゲの定食を食べた。

妻と別れ、午後。
仕事で風俗嬢二人と面談する。ひとりは19歳、ひとりは18歳だという申告なのだが、どう見ても15、6歳にしか見えない。何か身分を証明するものはあるかというと、自称19歳は1年前に家出したきりで何もない、と言う。自称18歳は、「わたしぃ、戸籍ないみたいでぇ」と言う。戸籍がない?と訊き返すと「ええ、わたしぃ、シセイジなんですけどぉ、親がテキトーな人でぇ、なんか届けたりとかしてくれなかったみたいでぇ」と言う。そういえば前にもひとり「戸籍が無い」という女の子を相手にしたことがあったな、と思い出す。本当にそうなのか、ぶっとんだ「言い訳」なのかは分からない。
ふたりともルックスは悪くないが、けっこうリスキーな人材である。某ヘルス店の店長に写メを送り、そのリスキーさも合わせて伝えておく。すぐに返事が返ってくる。採用、ということだった。できればすぐに店に連れてきてほしい、ということだったのだが、女の子たちに確かめると、今から友達と待ち合わせて買い物に行くのだと言う。来週連れて行くことにして、電話の店長と時間の都合を合わせた。

ああ、だるい。喫茶店に入って、マンゴーをシェイク状にした飲み物を飲むが、それだけではとても回復しないようなだるさが全身にとりついている。そんなわけで、サウナに行くことにする。
いやぁ、いいねぇ、サウナ。サウナ室で眼の覚めるような熱帯の世界に遊び、限界まで我慢して、おもむろに冷水にドボンと身を沈める。喉の奥がスウスウするような心地を味わって、身体が冷えたら、またサウナ室へ入る。2分、3分と経つと、冷水で閉じた全身の毛穴が、また一気に開いていくのが感じられる。うううううううううう、気持ちがいい。1時間ほど、サウナ室に出たり入ったりし、最後は湯につかって、その後仮眠室へと向う。DAKARAを飲んで、簡易ベッドでうつらうつらと1時間くらい過ごした。

夕方、喫茶店で、秋山祐徳大使『天然老人 -こんなに楽しい独居生活』(アスキー新書)を読む。おもしろい。
秋山祐徳大使は現代美術家である。おれは、種村季弘、赤瀬川源平を経由して、ずいぶん前にこの人の存在は知っていた。しかし、本人の文章を読んだのは初めてである。
いわゆる上手い文章を書く人ではないが、文章のなかに「ほんとうのこと」が捉えられている、と感じた。そこに、秋山祐徳大使本人が躍動しているのが感じられた。これはすごいことである。
言葉というのは、そもそも物事を定義して、世界を分割する働きを持っている。
文章を書いていると、そうした言葉の働きに引きずられて、べつにそう思っていたわけでもないようなことを、つい書いてしまうということになる。
自分が思っていたことは、もっと微妙で、曖昧で、多義的なことだったのに、文章のなかにその多様性を汲み取るということはとても難しい。
「自分が思っていることの全体」=「ほんとうのこと」を言葉にするのは、とても難しいのである。

<ジュンク堂>に寄り、その秋山祐徳大使の自伝『ブリキ男』(晶文社)、フリートマル・アーペル『天への憧れ ―ロマン主義、クレー、リルケ、ベンヤミンにおける天使』(法政大学出版局)、中村圭志『信じない人のための<宗教>講義』(みすず書房)を買う。

夜はひたすらWiiマリオカート。
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by daiouika1967 | 2008-07-26 10:11 | 日記  

7月24日(木) 晴

暑い。外に出た瞬間、くわぁ。なんだ、この空気。お湯か!と、ひとりで空気にツッコミをいれつつ、できるだけ筋肉を使わないようにタラタラ歩く。筋肉を使うと身体に熱が発生するので、できるだけタラタラタラタラ名駅まで歩いた。それでもその10分の道のりだけでもう胸元を汗がつたっていた。

名駅から地下鉄で大須へ向う。妻が大須の病院に通っていて、ちょうど昼時に検診が終わると言う。じゃあいっしょに飯食う?ということで、二人で昼飯を食うことになった。病院の待合室まで妻を迎えにいき、大須のアーケード街を上前津の方向に向かって歩く。
いい具合に鰻の店を発見する。でも今日は混んでるんだろうな、と覗くと、意外にそれほどでもなく、すぐに二階の座敷に案内された。ひつまぶしを注文する。土用の丑の日には、店が混むので敢えて鰻は避けてきたのだが、今年は偶々、期せずして鰻を食べることになった。

午後はさらに暑くなる。
上前津の<サウンドベイ>で4年ぶりに再開したデイジーワールドの新譜2枚、新生デイジーワールドのコンピ『daisy holiday』、細野晴臣のこれまでの作品のなかからレコード未収録の音源を集めたアーカイヴシリーズ第一弾『beyond good and evil』を買う。ついでに、ビーチェというグループの『かなえられない夜のために』というアルバムも手に取る。女の子がベッドの上でまくらを抱いているジャケットに惹かれて手に取ると、帯の推薦コメントを小西康弘が書いているのを見つけた。買い。

暑い中鶴舞まで30分くらい歩いた。汗みどろになる。脱水気味で軽く目眩がする。狂気の沙汰である。
鶴舞からJRで名駅に戻り、<三省堂>で、河合隼雄・茂木健一郎『こころと脳の対話』(潮出出版)、秋山祐徳大使『天然老人 こんなに楽しい独居生活』(アスキー新書)の2冊を買う。
喫茶店で水分を補給しながら『こころと脳の対話』を読む。脳の話はあまり出てこない。心理療法、深層心理学について、茂木健一郎が河合隼雄にインタビューするという体で対話が進む。
おれはときどき河合隼雄の言葉に触れたくなる。どこか意識が凝り固まったようになっているときである。河合隼雄の言葉には、硬直した意識を揉み解してくれるようなところがあるのだ。物事を多面的に見ることができるように、精神の柔軟性を回復してくれるような効果がある。

《河合:僕がよくいうのは、話の内容とこっちの疲れの度合いの乖離がひどい場合は、相手の病状は深い、というんです。
たとえば、こられた人が「人を殺したい。自分も死にたい」とかそんな話をしたら、しんどくなるのは当たり前でしょう。そうではなくて、わりとふつうの話をして帰っていったのに、気がついたらものすごく疲れている場合があるんです。その場合はもう、その人の病状は深い。
それはやっぱり、こちら側が相手と関係をもつために、ものすごく苦労している証拠ですね。話のコンテンツ(内容)は簡単なんですよ。それではないところで、ものすごい苦労してるわけ。(中略)
それから、話を聞いてて、向こうがこっちの腹立つことをいうでしょう。そのとき、腹の立ちようのスケールが違うんですね。なんかもう、蹴っ飛ばしたるかぁという感じで(笑)、そんなことめったに思わないのに、それはやっぱり向こうの病状ですよ。》

《河合:だからうまいこといっているときは、僕は聞いているだけで、その人が自分で考えて、自分でよくなっていかれます。
本当にそういった人、いますよ。「もう本当に、きたときに比べたら、ものすごくよくなりまして。先生のおかげといいたいけれど、おかげとは思いませんね」と(笑)。つまり、僕はなにもいうてませんからね。自分でしゃべって、自分で考えて、自分で解決されたからです。
茂木:壁に向かって話しているのとは違うわけですよね。
河合:壁に向かって話すのはだめだし、自分で考えると、絶対堂々めぐりします。ところが生きている人間が正面から聞くと、堂々めぐりが止まるんです。もうそれだけで僕を頼りにきてるんじゃないかな、と思うくらいです。》

《河合:ふつうよりすごい幻聴や幻覚で、「CIAにつけ狙われている」とか「今夜、敵が攻めてくる」とか、そういう症状でこられる方は、うっかりすると、それは統合失調症になっていきますね。
ところが、そういう人のなかで、「薬物による症状ではない」「急性である」と、このふたつの条件に当てはまる患者を治していく、ジョン・ペリーというアメリカの学者がいたんです。この方ね、黒船で有名なペリーの弟のお孫さんなんです。僕がそこへ訪ねていったら、ペリー提督の絵がありましたけれどね。
そのジョン・ペリーさんに、「どうやって治していくんですか」と訊いたら、相手がきたとき、いつもずっと端にいるんですって。ずっと端にいるんだけど、「中心をはずさずに」そこにいる。それができれば、その人は治ると。
茂木:中心をはずさずに?
河合:自分の。中心をはずさずにそこにいること。ただもうそれだけなんです。
その部屋は、くるなり、死のうと思って、壁にバーンと頭ぶつけたりするような人がいるから、壁なんか全部柔らかくしているし、それから一人で会って、飛びかかってこられたりすると困るから、必ずもう一人か二人と部屋に入っているんですけれども、ペリーさんは何してるかといったら、そこでただ、「中心をはずさずに」座っているだけですと。
茂木:座っている。聞いているだけ?
河合:ええ。そんなこと、まあ、できないですよ。そうでしょ?くるなり、「宇宙人がやってくる!殺される!」とかいっている人相手に、ジーッと座っているというのはね。》

《茂木:答えをすぐ求めすぎる傾向って、現代の深刻な病のような気がしますね。言葉とか細部に引きずられる傾向というか。
そういう意味では、先ほどの話に戻ると、われわれは「中心をはずさず」に人に接するということを忘れてしまっているともいえますね。ある人のことを判断するのでも、その人の言葉や振る舞いに引きずられて判断しちゃったりしますよね。
河合:ちょっとね、その判断がみんな早すぎるんですね。もっと悪いのは、僕はよくいうんだけれども、みんな一人ひとり違うのに、数字で順番をつけたがるんですよ。
「年収いくらですか」といったら、年収の高い人から低い人まで全部順番がつくでしょう。それは、一人ひとり分けているようで、なにも分けてないですね。お金で分けているだけなんだけれど、それでみんな錯覚を起している。
そして、ちょっとでもみんなよりお金の多いほうに行こうとしたりする。そうして頑張っているようだけど、じつは個性を摩滅させるほうに頑張っているわけですよ。
だから、そういう細部に飛びつかない、という姿勢がものすごく大事ですね。そうじゃなくて、その人を全体として見る。全体として見ていると、本当に人間というのはおもしろい。人間は誰でも、何をやらかすかわからん可能性をもっている。こう思いますね、本当に。》

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by daiouika1967 | 2008-07-25 22:34 | 日記  

7月23日(水) 晴

今日はすこし重要なプレゼンがあった。うまくいけば秋までは安泰だ。逆に結果が悪ければ早急に金策をしなければならない。のるかそるか。あいかわらずタイトロープな日々である。
昨日の夜、今日の午前中と、このプレゼンのための資料を作成した。資料を作りながら、頭の中で何度かプレゼンのシミュレーションをする。昼過ぎくらいに資料が完成し、シミュレーションの組み立ても終わった。プレゼンは夕方からである。午後は昨日途中まで読んだ田山花袋『東京の三十年』(岩波文庫)の続きを読んで過ごした。田山花袋が過ごした明治の東京、その三十年の風景、文壇の変遷が回顧的に描写されている。国木田独歩との交流の描写に明治の時代を感じた。

4時からプレゼン。某社の社長と専務を前に、プレゼンは、自分で想像していた以上に和気藹々と進んだ。うまくいった。これでこの夏は乗り切ることができる。
帰りにエスカ地下街の本屋に寄り、雨宮処凛・萱野稔人『「生きづらさ」について ―貧困、アイデンティティ、ナショナリズム』(光文社新書)、ジョージ秋山(監修:黄文雄)『マンガ中国入門 ―やっかいな隣人の研究』(ゴマ文庫)、臼井宥文『日本の富裕層』(宝島SUGOI文庫)を買う。
高島屋のデパ地下で桃を買って帰った。

夜、DVDで『FREEDOM』vol.4、5を観る。
眠る前に、雨宮処凛・萱野稔人『「生きづらさ」について ―貧困、アイデンティティ、ナショナリズム』を読む。

<生きづらさ>は、グローバル化の中で<格差社会>が進んだことからくる経済構造的な問題でもあるのだが、そもそもその経済構造のなかでいわゆる「負け組」になってしまう原因には、「今の高度化したコミュニケーションからの脱落」という問題がある。

《いまの社会では、場の空気を読んで、相手の感情や行動を先回りして、互いのコンフリクトがけっしてあらわれないようにふるまえっていう要請がすごくあるじゃないですか。そうしないと、自分のことをまわりから認めてもらえないし、自分の居場所もつくれない。そういうハードルの高い人間関係のかたちがあるから、一度それにつまづいてしまうとなかなか立ち直れない。つまり、コミュニケーションのあり方が生きづらさのもともとの原因にある。
コミュニケーションのなかで要求されるスキルや繊細さって、時代のなかでどんどん高度になっているんですよね。だから勝ち組の年長者は、いまの生きづらさのリアリティがまったくわからなかったりする。》

《いじめは、子供たちや若者たちのコミュニケーションの能力が下がって、人間関係が希薄になったから起こっているのではありません。逆に、コミュニケーション能力がここまで要求されて、何らかの緊張緩和がなされないと場を維持することができないから起こっている。そこで実践されているのは、空気を読んで、相手の出方を先回りし、まわりに配慮しながら場を壊さないようにする、という高度なコミュニケーションです。》

《何らかの共同体に所属し、そのなかで認められたり必要とされたりするというのは、いまのコミュニケーション重視型の社会のなかでは一種のアジール(避難所)としての役割をもっていますよね。
たとえば親子という共同体のなかでは、子供は何か特別な能力があったり、他の子供よりすぐれているから、親から認められたり必要とされたりするわけではありません。その親の子供である関係そのものが、子供に「無条件に認めてくれる居場所」というのを与えてくれる。共同体というのは、そうした「無条件に認めてくれる居場所」を、所属によって与えてくれるものなんです。
これと対極にあるのが、いまのコミュニケーション重視型社会です。そこでは、流動化した人間関係のなかでそのつど他人から認められるよう努力しなくてはいけない。流動化した人間関係のなかで他人から承認されるためには、たとえばイケメンだったりキレイだったり、トークが冴えていたり、あるいは他人にアピールできるような特別な能力や資格、ステイタスをもっていないといけません。つまり、最近よくいわれるコミュニケーション能力や人間力というものが備わることで、初めて人は他人から認めてもらえる可能性を手にするわけです。
こうしたコミュニケーション重視型の社会と、共同体的な承認のあり方を比べたとき、どっちがいいのかというのはたしかに難しい問題です。たとえば共同体というのは、人びとに安定的な承認をもたらしてはくれますが、同時に排他的だったり、ややこしい共同体のルールやしがらみを押し付けたりもします。だから流動化した社会のほうを「解放だ」と考える人がいるのもわからなくはありません。
ただ、確実にいえるのは、まったく共同体的な承認なしにコミュニケーション重視型の社会を生きていくのは相当キツイということです。人間、誰だって失敗するし、うまくいかないことだってあります。そんなときに「それでいいんだ」とか「大丈夫だよ」って無条件に受け入れてくれるような居場所があるとないとでは大違いですよね。そうした居場所があるからこそ、いまのコミュニケーション重視型の社会で失敗を恐れずにやっていこうという気にもなるわけですし。》

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by daiouika1967 | 2008-07-24 23:50 | 日記  

7月22日(火) 晴

柄谷行人『増補 漱石論集成』(平凡社)の続きを読み継ぎ、読了する。

《告白しうる真実などはとるにたらない。漱石が告白しなければならないがゆえに告白しえない何ものかを所有していたことは明らかである。それが何であるか、私は知らないし、知りたいとも思わない。ネタが割れたとしても、たかだか自然主義的な「真実」にすぎまい。だが、漱石が、あるいはわれわれがかかえている真実とはそんな単純なものではないはずだ。『こころ』を読んだ読者にはすでに明瞭であろう。漱石の眼が人間の心理をあばいて得意になる類のものではなく、われわれの生存を不可避的に強いている何ものかに向けられていることが。そして、こういうときに、漱石は人間の孤独というものを凝視するほかなかったのである。》

《シクロフスキーは、リアリズムの本質は非親和化にあるという。つまり見なれてしまったために、事実上見ていないものを見させることである。したがって、リアリズムに一定の方法はない。それは、親和的なものをつねに非親和化しつづける、たえまない過程にほかならない。この意味では、いわゆる反リアリズム、たとえばカフカの作品もリアリズムに属する。リアリズムとは、風景を描くのではなく、つねに風景を創出しなければならない。それまでだれもみていなかった風景を存在させるのであり、したがって、リアリストはいつも「内的人間」なのである。》


続けて、田山花袋『東京の三十年』(岩波文庫)を読み始め、130ページ程読み進む。
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by daiouika1967 | 2008-07-23 22:40 | 日記  

7月21日(月) 晴

祭日。
おれの生活には、平日も祭日も関係ないのだが、とりあえず「祭日だから」ということで、家で過ごした。
午前中、ベランダに出ると、涼しい風が吹き渡り、とても気持ちがよかった。
プランターに水をやり、しばらく睡蓮鉢のメダカが泳ぐのを眺めて過ごした。
ポンタもベランダに出てきたので、ブラッシングしてやりつつ、メダカを眺める。
ブラシに大量の毛が付いた。

午後、妻と散歩に行く。
午前中は涼しかったが、午後になってさすがに陽射しが強くなってきた。
それでも湿気が少ないので、木陰に入ると爽やかな心地がする。
散歩の目的地はいつもの公園なのだが、今日はいつもとは違った道で大回りして向った。
途中で<ブックオフ>に寄り、田山花袋『温泉めぐり』(岩波文庫)、内田百閒『百鬼園随筆』(新潮文庫)を買う。

夕方、DVDで映画、ティム・バートン監督『スウィーニー・トッド』。
ティム・バートンの世界観、美学全開の素晴らしい映画だった。
夜、DVDで、『FREEDOM』のvol.2、3を観る。
日清カップヌードルのCMとタイアップしたアニメ。キャラクター、メカニックのデザインは大友克洋。
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by daiouika1967 | 2008-07-22 10:54 | 日記