<   2008年 08月 ( 21 )   > この月の画像一覧

 

8月30日(土) 雨

●終日驟雨。室内に入ると湿気がこもって蒸し暑い。胸元が汗でベトッと濡れる。気持ちが悪い。月末は雑然とした処理仕事が溜まる。汗をぬぐいつつ仕事にかかる。不快だ。

松岡正剛『17歳のための世界と日本の見方 ―セイゴオ先生の人間文化講義』(春秋社)を読む。第四項の途中(226ページ)まで読み進む。
松岡正剛は、「人間文化」をわかるためには、ひとつは「世界と日本を歴史観をもって見ること」、もうひとつは「社会と文化はどのように成立しているのかをよく知ること」だと説く。おれは、このふたつのうち、とりわけ「世界と日本を歴史観をもって見る」ための基礎的な教養が欠けている。この本は、だから、とても勉強になる。

●夜、DVDで『てれすこ』。中村勘三郎と柄本明が“やじきた”を演じ、小泉今日子がヒロインで絡む。味のある役者たちが、読本的な人情味、落語的な洒脱を演じている。映画より芝居で見たほうがおもしろいかもしれない。
[PR]

by daiouika1967 | 2008-08-31 09:26 | 日記  

8月29日(金) 曇ときどき雨

●昨夜は大豪雨。各地で被害が出たらしい。今日訪問した会社の担当者は、住んでいるマンションの地下が浸水したという話だった。地下は駐車場になっている。駐車してあった車はすべて全滅したのだそうだ。彼の車もその駐車場に置いてあった。車を失ったショックが後を引いているのか、徹夜で疲れているだけなのか、彼は話をしていていても時々遠い目になって放心していた。彼が住んでいる所とおれの住居と、歩いて十五分くらいの距離しかない。微かな土地の高低、排水の具合の違いで、明暗が分かれた。

●27日にインドから帰ってきて、昨日は丸一日うつらうつらしていた。インドの5日目にものすごい下痢をして、昨日はまだすこしその状態が後を引いていた。今日はもうすっかりよくなって、飯が美味しい。おれは食に関しては、まったく保守的であることが、今回のインド旅行でよく分かった。

●<ジュンク堂>で、ユリイカ9月号『特集:太宰治/坂口安吾』、松岡正剛『17歳のための世界と日本の見方 ―セイゴオ先生の人間文化講義』(春秋社)を買う。
ユリイカ9月号『特集:太宰治/坂口安吾』を読む。町田康、吉本隆明のインタビュー、井口時男の批評。

●《安吾は若いころ、文学青年というよりも愚直で求道的な青年だったのだが、人生において「意味なし(ナンセンス)」に逢着するのは、ただ真剣に人生に「意味」を求める人間だけである。「意味」への切実な希求が、最後に、堅固な岩盤のような「意味なし(ナンセンス)」の虚無に突き当たって、それでも、宗教や国家といった「意味」を回復するための大きな物語装置にすがりつくことなく、なおも、この人生を「よし」と肯定できるかどうか。安吾のファルス論には、そういうほとんど人を狂わすような問いが賭けられている。
「文学のふるさと」も同じなのだ。「赤頭巾」などはただの童話である。たわいもない童話に「意味」を欲してしまう読者だけがこの結末に「突き放される」(シャルル・ペローの「赤頭巾」においては、赤頭巾は狼に食べられたまま最終的に救い出されることがない。その結末の尻切れトンボな感じのする後味をさして、「突き放される」と表している。安吾は「文学のふるさと」をその「突き放される」感じのなかに見出した)。たしかに、そんなものはただの童話だ、といってしまえる人間は、けっしてそこに「文学のふるさと」を見出したりはしない。文学は人生経験のない若者にも人生をわかったような気にさせる。つまり文学は人をすれっからしにする。しかし、安吾の「ふるさと」は、すれっからしにではなく、文学の初心に呼びかけるのである。無邪気な女の子は狼に食われるし、最愛の伴侶は鬼瓦のような、つまりはまったく無縁の他者としての不気味な顔を見せるし、貧乏な百姓夫婦は赤ん坊を殺して石油缶に入れて土に埋めるし、三年越しの恋を実らせて駆け落ちした男は知らぬ間に女を鬼に食われてしまう。世界は人間の悲願など裏切って平然としている。この世界に「モラル=意味」はなく、人は救いのないまま「絶対の孤独」を抱えて生きねばならない。これが人生だ。それでも君は、この人生を「よし」といえるか。
実のところ、安吾は「文学のふるさと」では、もう「肯定」という言葉は使わない。世界の悲惨を簡単に肯定することなどできはしないのだ。彼はただ、ここが「ふるさと」だという。》-井口時男P79


●夜、DVDで犬童一心監督、嵐主演『黄色い涙』。漫画家永島慎二の自伝的な漫画を原作とした、昭和30年代後半の“青春群像”。
犬童一心はどう評価していいのか微妙なところのある監督だ。説明過剰なカットは極力省かれ、編集に抑制が効いていて、ところどころで鮮明なショットもある。そうかと思えば、平然とした様子で、役者に白々しい台詞を口にさせたり、ひどく凡庸で退屈な場面をくだくだしく撮ったりもする。

●ベッドで水木しげる『鬼太郎の天国と地獄』(小学館)。世界の地獄、天国、他界をめぐってイラストとテキストで解説されたページ、鬼太郎とねずみ男が地獄めぐりをする漫画のページで構成された、幼い頃よく読んだような子供向けの本である。読んでいると、とても幸せな気分になる。
[PR]

by daiouika1967 | 2008-08-30 08:42 | 日記  

8月18日(月) 晴

なんだかひどく疲れている。昨日涼しかったから、初秋にいつもそうなるように夏の疲れが出たのだろうか。午後、サウナへ行き、1時間サウナに入った後、2時間ほど仮眠室でうとうとする。うとうとしながら、吉本隆明講演集から、「源実朝について」の前半を聴いた。
夜、DVDで『変身』。東野圭吾原作、玉木宏、蒼井優主演。脳移植された主人公の玉木宏が、だんだん人格が変わっていってしまう、という物語。物語自体にもちょっと無理があるのだが、演出がベタベタでまったく話に入り込むことができない。
[PR]

by daiouika1967 | 2008-08-19 09:44 | 日記  

8月17日(日) 晴

今日も、ぼんやり過ごす。
午後、DVDで『ミッドナイト・イーグル』を観る。大沢たかお主演。藤竜也が総理大臣役で出ている。初老の男の弱さと強さを演じさせると、いま藤竜也がとてもいい。
夕方、六時半頃、妻と中村公園まで散歩に出る。涼しい風が吹きわたり、いくら歩いても汗が滲んでくることのない、とても気持ちのいい夕方。宵闇が濃くなるにつれて、空に光る満月が明るくなっていく。
デニーズで夕食を済ませ、家に帰ると、8時半を回っていた。
夜、DVDで『28週後』を観る。『28日後』の続編。走るゾンビ。疲れて、半分眠りながら観ていた。
[PR]

by daiouika1967 | 2008-08-19 09:35 | 日記  

8月16日(土) 晴

ひたすらボーッと過ごす。夕方、妻と散歩に行き、<ブックオフ>で、宮崎学『ヤクザと日本人 ―近代の無頼』(ちくま新書)、長谷川眞理子『生き物をめぐる4つの「なぜ」』(集英社新書)、度会好一『魔女幻想 ―呪術から読み解くヨーロッパ』(中公新書)を買った。
夜、DVDで、『茶々 天涯の貴妃』を観る。いわゆる「絢爛豪華な時代絵巻」「東映の正月映画」というやつで、同じようなコピーのついた『大奥』などよりはずっとおもしろかった。
時代劇には別の時代に生きた人間や風物(それが史実とは異質のものであろうと)を見聞きすることができるという、エキゾチックな楽しみがある。所詮大衆ドラマなので、登場人物の心理は現代の人間にそのまま通じるように歪曲化されてはいるものの、それでも、ちょんまげを結って刀を振り回す武士が登場するだけですこしは「おお」と思うのである(おれだけかな?)。
だから、時代劇に関しては、映画全体の出来とは関係なく、セットに金がかかっていさえすれば、おれには愉しい。
[PR]

by daiouika1967 | 2008-08-17 11:22 | 日記  

8月15日(金) 晴

終戦記念日。北京オリンピック開催中。新聞の一面には「北島康介が2大会連続金メダル2個の快挙」と大きく載っている。おれは、格闘技以外のスポーツ観戦の趣味がないので、オリンピックの報道を読んでも、別の国同士の戦争のように遠い出来事のようにしか感じられない。今回のオリンピック、世間でも何となく盛り上がりに欠けているように思うのは、気のせいだろうか。おれが世間と没交渉で過ごしているからそんなふうに感じるだけなのだろうか。

おれにとって目下の関心は、中国ではなく、インドである。今日は終日、中谷美紀『インド旅行記』(冬幻舎文庫)の、2、3、4巻を読んで過ごした。2巻は南インド編、3巻は東・西インド編、4巻は1~3巻までの旅程で中谷美紀が撮った写真を編んである。

<ジュンク堂>へ行き、関口真理編『BRICs』の一角で注目される インドのことがマンガで3時間でわかる本』(アスカ)、渡辺京二『アーリイモダンの夢』(弦書房)、『論座』(鷲田清一のインタビュー、浅尾大輔による吉本隆明へのインタビュー、夏目漱石の大連での幻の講演などが目当て)、『新潮』(水村美苗の「日本語が亡びるとき ―英語の世紀の中で」、青木淳悟「このあいだ東京でね」、保坂和志の新連載「Kの眠り、ビュルゲルの情熱 ―カフカ『城』ノート」、前田塁「探偵の物語2008 ―平野啓一郎『決壊』をめぐって」、吉田修一「やつら」等が目当て)を買う。

喫茶店でさっそく『論座』を開き、鷲田清一のインタビュー、浅尾大輔による吉本隆明へのインタビュー、杉田敦へのインタビューを読む。
浅尾大輔による吉本隆明へのインタビューでは、吉本隆明がいわゆる労働運動の「現在」についてどんな可能性を見ているのか、ということが興味があった。浅尾大輔は、いわゆる教条的な共産党員とは違って、労働問題において、現在何が「問題」であるのか、その現実を捉えるアクチュアルかつ柔軟な眼差しを持った人であるように思う。労働運動の「現在」について、吉本隆明へのインタビューできる、最適の人選であると思う。
浅尾大輔の「運動と文学をやっている」という言を受けて、吉本隆明は「文学はやめないほうがいいです、文学をやめると物事を理解する頭が単純になって、それで誤ってしまう」というような意味のことを語っていたのが印象に残った。
[PR]

by daiouika1967 | 2008-08-17 11:03 | 日記  

8月14日(木) 晴

7時に起きて、プランターの水遣り、ゴミ出し、パソコンでの事務仕事などを済ます。
午前中、酷暑のなかを、妻と、メダカの埋葬をしに、散歩がてら、いつもの公園にまで歩いた。
木の根元を持っていったスコップで掘って、ティッシュにくるんだメダカの死骸(たぶんかなり腐敗しているはず)を埋めた。
家に帰ると、全身汗まみれになっていたので、とりあえずシャワーを浴びた。
昼食には、インスタントラーメンを作って食べた。妻がモラタメというアンケートサイトから、ただで取り寄せたサッポロ一番の新商品で、「名古屋こく塩」「博多とんこつ」「広島しょうゆ」の三種類がある。今日は「博多とんこつ」を食べたのだが、けっこう美味しかった。
午後はアルヴァ・ノトと坂本龍一のコンサートDVDを眺めながら、うつらうつらする。そのまま昼寝。
夕方、実家に行き、父母と妻と四人で鍋を食べた。豚しゃぶである。「幻霜ポーク」という広島産の高級豚肉を使った。親父によれば、「3品種の種豚をかけ合わせ、飼料にパンを与えたり、ストレスの無い生育環境を整えたり、とにかく手塩にかけて育てた大変な豚肉」ということらしい。これが旨かった。霜降りになっているのだが、油の部分は甘みがありつつもさっぱりしている。牛肉の霜降りは食べ過ぎるとくどくなってくるが、この「幻霜ポーク」はいくらでも食べられそうな感じだった。
11時過ぎまで焼酎を飲みながら話をして、家に帰ってくるとすぐに眠たくなった。
[PR]

by daiouika1967 | 2008-08-15 11:15 | 日記  

8月13日(水) 晴

午前中、『映画芸術』の最新号(424号)を読む。特集は「ボーダーレス・クリティック」。「私たちは自由に『映画』を観ることができているのか?」というキャッチコピーに惹かれて買った。

黒沢清の最新作「トウキョウソナタ」をめぐって、監督へのインタビュー、批評記事がいくつか載っていたのだが、そのうちのひとつ、野村正昭の記事に、こんな指摘があった。
《黒沢清監督の映画では、カメラがスーッと横移動すると、時々とてつもない惨劇が起こったりする。勿論、何もない時もあり、主人公がただ歩いているのを追っているだけだったりするが、それでも確実に主人公の運命は破滅に向かっていたり、周囲の状況が変化したりする予兆だったりする。》
カメラが横移動することで、観客は、今映っているフレームの外へと意識を滑らせることを促されることになる。
フレームの外にも“世界”は広がっているのだ、というあたりまえの現実。しかし、黒沢清のようにその現実を見せてくれる映画作家は希少な存在であるように思う。
黒沢清のインタビューのなかにも、このことに関連するような内容の応答があった。
インタビュアーの《唐突にパッと出会うところから始めるというのは、この映画全体のリズムになっている気がします。帰宅するお父さんがY字路で次男と唐突に出会ったりとか》という指摘に対し、黒沢清はこんなふうに答えている。
《なるほど。そう、僕、好きなんですよね。ふと出会うというか、ある人物を撮っていると思ったら、急に別の角度からもうひとりがフレームインしてくるというようなことが。それは単純に言うと、ある人物を撮影しているようでいて、実はその外に彼と全然関係ない世界が広がっていて、そこから何がどう彼に影響していくか全くわかりませんよという。安心しているとそんなことありませんよと。一番典型的なのが、そこに居るはずのない別の登場人物が、ヒュッとフレームインしてくることですが、そういう、いま撮っているものとその外側にあるものとの関係に、僕はいつも興味があるからなんでしょうね。よくやるんですよね。ストーリーとしてはちょっと苦しすぎない?、と言われても、いや、映画でやったら面白いからって。》
中原昌也が、黒沢清の『復讐』シリーズを評した文章のなかで、「自分にとって現実というのは不意に思ってもみなかった冷や水をぶっかけられるといったような経験の連続である。黒沢清の映画がそうであるように」というような意味のことを書いていたことがあった(例によってうろ覚えだが)。
黒沢清の撮る画面には、些細な描写のなかに、そこに映っている人や物の「その外側にあるもの」に通じていく、不安であり解放であるような契機が織り込まれている。
例えば黒沢清の撮るホラーにおいては、その「不安であり解放であるような契機」は、幽霊や化物や狂気の殺人者として形象化されている。
黒沢清の映画を観る、というのは、こうした「外側にあるもの」と遭遇する稀有の(まさしく「映画的」な)体験をするということなのだ。
もちろん、例えば『ニンゲン合格』や『アカルイミライ』といった、ホラー以外の作品においても、黒沢清が「いま撮っているものとその外側にあるものとの関係」に意識的でありつづけているのはいうまでもない。
そこでは、ホラーにおいて形象化された「不安であり解放であるような契機」は、より暗示的な、例えば登場人物の配置やその動き、奇妙な角度から差し込む光、不意に吹いてくる風、などによって表現されている。

午後、中谷美紀『インド旅行記 1 北インド編』(幻冬舎文庫)を読む。
中谷美紀は、インドという国に対しても、自分自身に対しても、強すぎる思い入れはなく、過度に構えたところのない、バランスのいいスタンスを、つねに保っている。文章にも嘘やけれんみがない。読んでいて、気持ちがいい。
旅行中知合った、アメリカ人精神分析医の女性とのやりとりのくだり。
《「私は正直言って信じてないし、彼らの言う輪廻転生もあり得ないと思うわ。万に一つ輪廻転生が存在したとしても、今この人生を楽しみたいわ。でも精神分析医としては、彼らの祈りの習慣が大脳に刻み込まれて太い回路を作っていく過程には、とても興味があったわ」
それは、私がこの国へ来て以来ずっと考えていたことに少し似ていて、祈りのもたらすものは、神の実在不在にかかわらず、人間の大脳レベルでポジティブな回路を作るにはとても有益だということだった。人々が目に見えない神の代わりに偶像を崇拝することについても、わかりやすい形での象徴が人々には必要なのだということがようやくわかるようになった。
まあ、宗教なんて、人間が築きあげたものだから、いずれの宗教も正しき道を指し示しているのだろうし、その反面、いずれの宗教も欠陥や矛盾を抱えていると思う。それでも、信じることで人が幸せになれるなら大いに活用すべきだと思うし、その選択は個人の自由だと思う。》


夕方、仕事で人と会い、家に帰ったのは9時前になった。<ほぼ日ストア>から『吉本隆明 五十度の講演』が届いていた。

夜、DVDで是枝裕和監督『誰も知らない』を観る。是枝監督のドキュメント風の演出で捉えられた、子供たちの遊んでいる何気ない姿に、ふと強いノスタルジアを覚える瞬間が何度かあった。
[PR]

by daiouika1967 | 2008-08-15 10:54 | 日記  

8月12日(火) 晴

妻と、飛騨の大鍾乳洞へ行く。
朝7時半に起床し、出仕度をして、名駅へ。8時45分のワイドビュー飛騨で、高山へ。高山へは二時間で到着し、さらにバスに30分乗ると、鍾乳洞に着く。

鍾乳洞に入るとひんやりと涼しく、しかし、40分かけて歩き通すと、それでも汗が滲んでいた。
土産物屋で、金のサルボボ、銀のサルボボを買った。

バスで高山の街に戻り、妻があらかじめ下調べしておいたお店を回る。
タコの代わりに飛騨牛の入ったタコ焼きならぬ飛騨牛焼き。
飛騨牛の串焼き。
蕎麦。
飛騨牛のにぎり。
クレープ。
ソフトクリーム。
腹がはちきれそうになる。

4時43分のJRに乗り、名古屋へ。家に帰ると7時過ぎ。
[PR]

by daiouika1967 | 2008-08-14 08:22 | 日記  

8月11日(月) 晴

今月号の『スタジオ・ボイス』は細野晴臣特集。<三省堂>の雑誌コーナーで見つけ、さっそく買って読む。細野晴臣のインタビュー、横尾忠則との対談、また、高橋幸宏や坂本龍一に細野晴臣について聞いたインタビューも載っていて、なかなか充実している。
記事では、音楽ライターの安田謙一が、細野晴臣の持つ独特の「軽やかさ」について、そのネーミングセンスを取り上げて考察している文章が印象に残った。
細野晴臣の創る音楽、発する言葉には、一貫して、えもいわれないような「軽み」の味わいがある。
細野晴臣は典型的なリスニング・ミュージシャンで、膨大な音楽を聴き、また彼は世界情勢や日本で起こる事件など気になるネットニュースを、長期間にわたりクリップして整理しているらしい。日々膨大な情報を摂取しながら、細野晴臣は、その情報に溺れることなく、独自のやり方で情報の消化・編集をしているように見える。細野晴臣独特の「軽み」は、情報を消化・編集するさいの、その「独自のやり方」の醸し出す味わいであるように感じられる。

佐々木幹郎『やわらかく、壊れる ―都市の滅び方について』(みすず書房)の残り半分を読み了える。
佐々木幹郎の眼差しは、つねに、災害や戦争でどこかしら機能不全に陥った都市、廃墟と化した都市に向けられており、そこに都市の本質を見通しているようだ。
うろ覚えなのが、たしか種村季弘が、戦後日本の闇市について、その焼け野原に立ち並んだバラックの集合体こそが「都市が最も都市らしくあった瞬間なのだ」と言ったことがあった。栗本慎一郎はその都市論のなかで、種村のこの言を受けて、「“都市”とは人々の眼差しの交錯のなかに浮かび上がる“現象”であり、それは機能としての都市が壊れた場所においてもっとも分かりやすく現れる」という意味のことを書いていた(すべてうろ覚えである)。
佐々木幹郎の都市論ともいえる本書を読みながら、以前読んだ種村季弘や栗本慎一郎の言葉の残響が、頭のなかに浮かび上がってきたのだった。

もう一度<三省堂>に寄り、文庫本の新刊書の棚から、なんとなく川上健一『ビトウィン BETWEEN ―ノーマネーand能天気』(集英社文庫)を手に取る。著者は知らないし、普段ならあまり読まないタイプの本なのだが、なんとなく。読みたい本、ぜひ読まなければ本がたくさん溜まっているのに(新刊書だけでも、町田康、舞城王太郎、笠井潔の長編が出たところだし、吉本隆明の『心的現象論本論』もまだ買ってないし)、なぜか。
それで、買って、すぐに喫茶店で読み始め、一時間半くらいで読み了えてしまった。
著者の川上健一は、小説家だが、10年ほどブランクがあった。その間、田舎に引越し、妻を娶り、娘もできて、家族三人でほとんど金のない極貧生活を送る。この本は、その極貧生活の間のことを書いたエッセイである。
極貧生活のこと、といっても、いわゆる「貧乏話」―金がないがゆえに浮かび上がる生活のディティールについての描写はあまりない(おれが「貧乏話」が好きなのは、その描写が読めるからなのに)。
著者は、釣りに行ったり、日曜大工をしたり、ほとんど悠々自適といってもいいような生活を送っている。
消費-生産といった資本のサイクルから脱落した人間が、それでもある意味豊かに生き延びることのできる社会こそが本当に良い社会といえるのかもしれないなぁ、などと考えつつ、しかし、おれが読みたかったのはいわゆる「貧乏話」だったので、ちょっと肩透かしを食ったような気分になる。
それに、この人の文体がどうも、おれにはしっくりこない。文章から、一定のパターンが透けて見えるのだ。
あまり考え抜くことなく文章を書くと、その文章は、どうしても定型の物語にパターン化してしまう。そうした文章から読み取れるのは、その文章を読む前から分かっている一定の物語のパターンだけである。
逆に考え抜かれて書かれた文章を読むと、こちらの思考も触発されて、精神が活性化するのが分かる。そうした文章には、パターン化された物語ではなく、現実を構成するモノやヒトがはっきりと描出されている。


<新星堂>で9日発売の新生デイジーワールド第三弾、コシミハル『覗き窓』を買う。
ついで<69>で、YMO『COMPLETE SERVICE』、ジム・オルーク『insignificance』、ザ・ポップ・グループ『最後の警告』を買う。YMOとジム・オルークは以前持っていたのを買いなおす。
[PR]

by daiouika1967 | 2008-08-12 07:44 | 日記