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10月30日(木) 晴

午後から某社で打ち合わせがあり、午前中は、パソコンに向かって、そのための調べ物をして費やす。喫茶店でランチを食べつつ、作成した資料の最終チェックをして、二時過ぎに某社へ向かう。夕方、五時過ぎまで、三時間ほど打ち合わせした。
帰り道、中古レコード屋69に寄り、ドクター・ジョンの新作『シティ・ザット・ケア・フォー・ガット』が出ているのを見つけ、手に取る。ついでに、矢野顕子『愛がなくちゃね』も買う。
ここ数日は寝不足気味である。家に帰り、夕食の鍋を食べ、夜はテレビを眺めながら、ソファーでうつらうつらして過ごした。
10時過ぎから、100ページほど読み残していた松岡正剛『誰も知らない世界と日本のまちがい ―自由と国家と資本主義』(春秋社)を読む。
読み終え、机の隅に積む。机の上が読了した本、未読の本がごちゃまぜに、けっこう溜まっているのが、不意に気になって、発作的に整理にとりかかる。それが本棚の整理にまで飛び火して、けっきょく夜中の2時過ぎまでかかって、本の整理をするはめになった。そういえば、今日は、妻も、ガラスを拭いたり、部屋中こまごまと掃除をして過ごしたようだ。べつに事前にそうしようと決めていたわけではなく、飼い猫Pの猫タワーにくっついた毛を除去しているうち、それがけっきょく部屋全体の掃除に拡がったということらしい。おれが机周りや本棚を整理したことで、今日は期せずして部屋全体の大掃除となった。
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by daiouika1967 | 2008-10-31 09:50 | 日記  

10月29日(水) 晴

今日は、午前中、パソコンに向かって仕事をし、昼からはTと会い、ランチを食べて、そのまま仕事の打ち合わせに、某社へ赴く。夕方家に帰り、夜は夜中までずっとパソコンに向かって、今日の打ち合わせで話した案件の企画書を作って過ごした。一時過ぎに、概ね出来上がる。
朝から、夜中まで、終日仕事に費やした一日であった。
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by daiouika1967 | 2008-10-30 22:14 | 日記  

10月28日(火) 晴

午前中から午後にかけて、カフカ『審判』(池内紀訳 白水社)を読んだ。

夕方、<三省堂>で前から読もうと思っていた松岡正剛『誰も知らない世界と日本のまちがい ―自由と国家と資本主義』(春秋社)を買う。
夕方から、夜にかけて、ずっと読み耽った。380ページまで読み進んだ。

《カフカが描いたことは、「世界とのかかわり」は説明できないということです。「世界の枠組み」なんてあやしいもんだということです。
また、自分のことも説明できないという状景を書いている。そこにはなんらかの「変化」はあるけれど、それが社会的な意味をもつとはかぎらない。自分の実存はあるけれど、それしかないということです。》


第一次大戦後のドイツで、文学においては、カフカやトーマス・マン、ブレヒトらが表現し、哲学・思想においては、フロイトやハイデガー、アドルノを初めとするフランクフルト学派が表現した、ひとつの思考形態がある。
《第一に、近代社会は人間の「心理」という領域を侵していたということです。
第二に、しかし、人間は世界の全体を理解したり了解したりしきれないんではないかということです。それならむしろ、世界を理解しきれない「存在」や「実存」という視点から出発して、さまざまな「現象」に向かうべきだろうということです。
第三に、このようなことを確認する方法は、哲学でも文学でも美術でも音楽でも可能だろうということです。けれども、その表現は、従来の芸術を一変してしまうような様相になる可能性がある。それがカフカやブレヒトの表現になったということですね。
第四に、世界も社会も自分も、安易な「中心」をもつべきではないということです。いったん中心から離れてみてはどうかという提案です。グレゴール・ザムザは悲しい姿にはなりましたが、それによって家庭や社会の中心から「脱自」することができたんです。
第五に、存在や意識を見つめるためには、そこにまつわる夾雑物を捨てなさいということですね。存在が当初からまとうつもりもなかったものが、たくさんくっついているからです。しかし、そういうシャツを脱ぐには、そもそも空間や時間のなかに挟まれている自分というものを、その自分の場からはずしてかからないと、何も始まらないということでした。》


文学、思想、美術、音楽といった表現のジャンルを横断して、ある強力な思考形態、思考を促す磁場が働いている。
もっとも、同時代において、この磁場にあくまでも鈍感な表現も数多くあったに違いない。
あるいは、こうした思考の磁場に鈍感な表現の方が、量としては多かったのかもしれない。
現代産出される様々な表現においても、時代の現実に開かれた、それに触れることで思考の磁場に誘われるタイプの表現と、そうした磁場に鈍感な、むしろ思考の広がりを封殺するようなタイプの表現とがあるように思う。
そして量としては、圧倒的に、後者のタイプの表現が多く、優れた表現は少数でしかない。
例えば、文学においても、まるでカフカやカミュなど存在しなかったかのように書かれている作品が、いかに多いことだろう。

今日は終日読書だった。
夜、ワインを一本、風呂に入れて、ワイン風呂に入った。けっこう高級なワインで、もったいない気もしたが、どうせ飲まないのだから、取っておいても冷蔵庫の場所塞がりになるだけなのだ。
強烈な酒の匂いが立ち込める浴室で、ゆったりと浴槽に浸かる。浴後、肌がテカテカになっていた。
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by daiouika1967 | 2008-10-29 09:34 | 日記  

10月27日(月) 晴

いつものように7時過ぎにPに起され、餌をやって、また二度寝する。11時過ぎまで。
この間に、AV男優になる夢を見た。
撮影は、スタジアムのような空間で行なわれていて、おれはその客席にあたるところで出番を待っている。共演するAV女優といっしょにいる。なぜか、高橋源一郎もいっしょにいる。おれは、こんな衆人環視のなかで勃起できるかなぁ?などと考えている。

午後、妻と、スーパー銭湯<喜多の湯>へ行く。岩盤浴と露天風呂、食堂、といういつものコース。帰ると5時半になっていた。
家に帰って、1時間くらい、うつらうつらする。眠ってばかりいる。夜は、テレビを眺めたり、Wiiマリオカートをやったりして、時間が過ぎた。
少し頭痛がしたので、バッファリンを飲んだ。木田元『反哲学史』の続きを読み始めるが、20ページくらい読み進んだところでダウン。12時過ぎにはベッドに入る。
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by daiouika1967 | 2008-10-28 10:03 | 日記  

10月26日(日) 曇ときどき雨

9時過ぎに起きて、パソコンの前ですこし作業をするが、どうにも眠たい。10時過ぎにベッドに戻り、2時前までうつらうつらと惰眠をむさぼった。
午後から夕方にかけて、DVDでアメリカドラマ『BONES』season2のvol.3、vol.4、vol.5を続けて見る。
あっという間に夜。妻とユニーに行って、食材を買って帰り、夜はカレーうどんを食べた。
テレビを眺めたり、パソコンを周ったり、ぼんやりと時間を潰し、2時過ぎ、就寝。
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by daiouika1967 | 2008-10-27 23:13 | 日記  

10月25日(土) 曇

午前中、カフカ『失踪者』(池内紀訳 白水社)の残り半分を、ようやく読む。
カフカの魅力のひとつに、ほとんど背景の一部分として書かれているような、その場限りの登場人物にも、奇妙なくらいのリアリティが備わっている、ということがあるように思う。精密な描写がされているわけではなく、ある意味類型的な像が描かれているだけのようにも思えるのに、不思議である。
それから、世界が、どうしようもない力に支配された場所であり、個々人の意志がそのまま通ることは決してないのだ、という感触(こういうのを「不条理感覚」と呼べばいいのだろうか)。……

午後、<ジュンク堂>で、細野晴臣・鎌田東二『神楽感覚 ―環太平洋モンゴリドユニットの音楽世界』(作品社)、カフカ『審判』『城』(池内紀訳 白水社)を買う。
図書館、伏見の喫茶店と歩いて、『神楽感覚』を読んだ。対談の冒頭で、細野晴臣の原風景ならぬ“原音景”とでも言うべき、音楽体験のことが書かれている。二箇所、抜粋する。
《終戦直後っていう感じですから、東京も焼け跡があったんでしょうね。家が少なかったわけです。ぼくが子どもの頃は車が三十分に一度通るか通らないかって静けさの中で暮らしてました。ですから、夜寝ていると目黒駅から電車の音が聴こえてくるんです。当時ぼくの祖母なんかは省線っていってたんですけど。その音がなかなか良かった。それがぼくの音楽体験の原型なんです。》
《ぼくの祖父というのはピアノの調律をやっていたんです。組織の属さず独立してやっていたので、家にごろごろピアノの古いのが運ばれてきては一日じゅう調律をやっていて、それがまたいい音で。(中略)しかも隣が材木工場だったんです。ドリルの音のキーンという音が一日じゅう鳴っている中に、ピアノの音が聴こえてくるという。僕の音楽の原型っていうのはそういうものです。》

遠い木霊のような電車の音。機械的なノイズのなかに浮かんでは消える断片的な旋律。
鎌田東二が、この話を受けて、「カオスとコスモスが同居しているような世界」と言い、細野晴臣の音楽世界そのものですね、と感想を言っている。
おれの幼時の体験にも、同じような体験がある。
幼い頃、寝ていると、ときどき、遠い電車の警笛のような音が聴こえることがあった。じっさいに聴こえていたのか、幻聴なのかも、もうよく分からない。布団の中でその音が聴こえると、ひどく寂しいような気持ちになったことは、はっきり覚えている。しかし、ただ寂しいだけではなく、その気持ちの中には、なにか甘い懐かしさのようなものもかすかに混じっていた。
それから、おれの実家の隣りが印刷工場で、その工場に窓一枚で面していた部屋に行くと、印刷機の回るカシュッカシュッという音が、常に聴こえてきて、その音を聞きながら、よくうつらうつら昼寝していた。曇り窓から午後の気だるい陽光がさしこんでくる、その明るさをよく覚えている。
おれは、YMOの『テクノデリック』というアルバムが大好きで、何百回か、もしかすると千回くらいはくりかえし聴いているかもしれない。このアルバムの最後に収録されている「プロローグ~エピローグ」という曲があるのだが、この曲にサンプリングされている機械音が、おれの“原音景”の音に似ているのだ。それで、聴くたびに、どうしようもない郷愁が喚起されるのである。

『神楽感覚』には、付録でDVDが付いていた。環太平洋モンゴロイドユニットの演奏を収めたDVDである。夜、12時頃から、ソファーに座って、観ていたら、すごく気持ちが良くなって、そのままソファーで眠ってしまった。
2時頃、はっと目が覚め、ベッドに入った。
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by daiouika1967 | 2008-10-27 00:35 | 日記  

10月24日(土) 午前中、雨。午後、曇り。

10時前に目覚める。一晩眠ると、平常の心持に落ち着いていた。午前中、昨日急遽拵えた資料を見返して、午後、Nと喫茶店で待ち合わせ、1時間くらいふたりで話し合った後、クライアントの会社へ向かった。
クライアントの会社で、先方の担当者、社長と、2時間ほど話をする。
問題は、いちおう、こちらに具合のいいように収束した。懸念材料がなくなったわけではないが、緊急事態は、とりあえず回避することができた。火種が完全に消えたわけではないので、手放しでよろこぶわけにもいかず、完全に気が晴れることはなかったが、いったん重荷を下せたことの解放感はあった。

夕方、押切孝雄『グーグル・マーケティング!』(技術評論社)をサラサラと読んだ。

夜、『BONES』season2のvol.2を観て、「たけしの誰でもピカソ」に水木夫妻、荒俣夫妻が出ているのを見てから、パソコンの前に座り、仕事をした。
3時前、就寝。
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by daiouika1967 | 2008-10-26 13:31 | 日記  

10月23日(金) 曇ときどき雨

どうしても今日中に仕上げないといけない企画書があって、ああ、でもぜんぜんやる気でねぇなぁ、だいたいの構想はあるんだけど、ぜんぜん形にならねぇ、と、そんな低調子で、でもどうしても今日中に仕上げないといけなかったので、ずっとパソコンの前で脂汗をかいていると、仕事仲間のNから電話が掛かってきて、それがかなりやばい内容だった。

うわぁぁぁ、まじっすかぁぁぁ………………。

当たり目に祟り目というか泣きっ面に蜂というか、その衝撃でしばらく立ち上がれなくなってしまい、すべての作業を中断、ソファーにごろんと寝転んで、テレビを眺めつつ、そのままフリーズしてしまったのだった。

フリーズしたまま、それでも全機能がダウンしてしまったわけではなく、脳の一部は勝手にカタカタこの状況を打開する方途を計算していて、こういうところがそれなりに修羅場をくぐってきた中年の強みというのか、おれのような生活をしていればいやでもタフにならざるを得ないということなのだろうが、テレビの前でフリーズしたまま、さて。どうすればいいのか。ぼんやりと方向が見えてきた。
この間、4時間くらい、フリーズしつづけていた。

夕方、まず企画書をよいしょっと仕上げ、夜は、フリーズしているあいだに見えてきた方向に沿って、どう動けばいいのか、具体的に計画を練る作業にかかった。ある程度計画が練れてきたところで、Nに電話をかけ、話しながら、さらに煉りこみ、Sに電話をかけ、話しながら、さらにさらに煉りこみ、夜中の3時過ぎまでかかって、ようやく状況を打開する方策を、とりあえずは固めることができた。

…へビィであった。しかし、もう自分にできることはこれ以上はないな、というところまで詰めきると、あとは運を天に委ねるだけのことである。急に眠たくなって、3時過ぎ、就寝する。
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by daiouika1967 | 2008-10-25 01:40 | 日記  

10月22日(水) 曇

昼、平出隆『遊歩のグラフィスム』(岩波書店)の残り半分を読む。読了。
「遊歩」というテーマに沿って、河原温、正岡子規、川崎長太郎に付きつつ、ベンヤミン、バシュラールなどのことばを援用しつつ、吉行淳之介、澁澤龍彦も登場し、このエッセイ自体が「遊歩的」に書き進められていて、最後まで「拡散的な集中力」を喚起させられ、まったく飽きない。

仕事で人と会う。いまどき金のローレックスをギラギラさせて、見るからに田舎のヤクザだが、れっきとした悪徳弁護士である。久しぶりに会うと、彼も、悪人特有のエッジ感が薄れ、人のいい田舎の成金やくざといった風情をしている。昔、この悪徳弁護士の傘下で悪事を働いていた小悪党だったおれも、いまやすっかり日々の平穏をだらだらむさぼる中年太りのおっさんである。
いっしょに悪事を働いていた頃、ある小さな宗教団体を潰すという仕事をやったことがある。こうした仕事は、いろいろと面倒な後処理があって、それをいまだに引きずっているのである。仕事の話といっても、その後処理についての打ち合わせで、これから金になる話ではない。彼は弁護士だけあって、仕事は終わるまできっちりと遂行する。おれは、もう金にならないとなると、普段にもまして適当になるので、話していてもものすごく温度差がある。

午後、石川ひとみを聴きながら、<ジュンク堂>まで歩いて、カフカ『失踪者』(池内紀訳 白水社)を買う。
カフカは大学の頃、全集を読んでいるので、すべての文章を読んでいるはずなのだが、読み出してみると、やはりまったく覚えていない。
しかし、それにしても、おもしろい。大学生の頃のおれは、このおもしろさを、どれだけ味わえていたのだろうか。それでも全集を読破しているから、強く惹かれるものはあったのだろうが。
200ページほど読み進んで、夕方。家路を歩く。

夜。木田元『反哲学史』(講談社学術文庫)を読み始める。80ページまで読み進んだ。
12時にはベッドに入る。うつらうつらしながら、なかなか寝付けず、寝返りばかり。
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by daiouika1967 | 2008-10-23 21:41 | 日記  

10月21日(火) 晴

今日もまた11時過ぎまで眠る。秋も深まって、朝晩すこしだけ肌寒くなり、眠るのにちょうど心地がいい。
水木しげるは、幸せになるためには、ないものを求めちゃいかん、ないものはないのだと気づかなきゃいかん、と語る。ないものはないと気づけば、同時に、あるものはあると気づくことができるだろう。「ないものはない、あるものはある」―そのことに気づけば、毎日は、「あるもの」との新鮮な出会いに満ちるようになる。
起き抜けに、水木しげるの言葉を思い出す。こんなに寝坊してばかりいるのはまるで水木さんみたいだな、とふと思い、それで思い出したのだろう。

昼飯は、オムレツとクロワッサン、コーヒー。食べて、家を出る。
井上陽水『バレリーナ』を聴きながら、県図書まで歩いた。今日までが貸出日になっていた本を返却しなければならない。商店街を抜けていくと、ランチに出たサラリーマンやOLがぞろぞろ歩いていた。
図書を返却し、3Fの棚(文学書、美術書、哲学書)を、一時間くらい流した。平出隆『遊歩のグラフィスム』(岩波書店)、ジョン・アンダーソン『エドワード・ヤン』(篠儀直子訳 青土社)、永嶺重敏『<読書国民>の誕生 ―明治30年代の活字メディアと読書文化』(日本エディタースクール出版部)を借り出す。
棚を流している時、中国の作家、残雪のカフカ論を見つけた。残雪の小説も何冊かあった。借りようかどうしようか迷ったのだが、とりあえずカフカの長編三部作を読み返してから、このカフカ論を借りて、ついで小説を借りよう、と読書計画を立てる。
ついでに、2Fの雑誌コーナーで『文学界』の柄谷行人、津島祐子、黒井千次の鼎談を読んだ。鼎談の中で、柄谷行人は、最近、ヘロドトス『歴史』を初めて読んで感銘を受けた、と言っていた(この時代に自民族中心主義ではなく、世界の動きを冷静に見据える視点が持てたことは、すごいことである)。
流動化しつつある現在の世界を捉えるためにも、どこにも中心点を置かない、という視点をもつことができればさぞかし有効だろう、と、読んでいてそう思う。
歴史学者や社会学者の書くものは途中で退屈になるのが常なのだが、これは最後までおもしろく読めた、と柄谷。今度読んでみよう、と思う。

伏見まで歩き、伏見のカフェ・ド・クリエで、平出隆『遊歩のグラフィズム』を読みはじめる。久保田麻琴のインド風ヒーリング音楽を聴きながら、アイスコーヒー(250円)を飲みながら、1時間くらい。
伏見から、名駅まで歩き、名駅のカフェ・ド・クリエで、続きを読み継ぐ。Tape『ルミナミウム』(北欧の哀愁のあるエレクトロニカ)を聴きながら、ブレンドコーヒーを飲みながら、1時間くらい。

《宿題のとりかかりが遅い、勉強の手順も悪い、夜更かしをする、朝、すっきりと起きられない、本を最後のページまで読まない、コーヒーを最後の一滴まで飲まない、複数のことに同時に手を染める、受信した便りへの返信が遅い、あるいは、無沙汰のままいつか失礼してしまう、机辺の整理整頓ができない、街を徘徊しはじめたら止まらない、エトセトラ。》
著者は、《そんなこんなが、大人になってからもつづいている》と言い、この資質を《直したい》と書く。冒頭で、そう書いている。
しかし、そのような資質には、相応の内実があるので、その内実を消去することはできない。その資質はそのまま、そこから詩や散文を産出する方法はないものか、と著者は歩を進める。標題にもなっている「遊歩のグラフィズム(書法、描法)」とでも呼ぶべき方法はないものか。
「遊歩のグラフィズム」は、この資質を「直す」ための方法ではない。むしろ、この資質をそのまま保つ、安易な整理を禁じるための方法でもある。
《それはゆきあたりばったりで行くという覚悟であり、金銭を使わずに目で物を買い、代わりに時間はたっぷりと浪費するという覚悟である。しかし、実際にその生活に入ってみると、ゆきあたりばったりにもまた、道筋がついてくると分かった。たえず道を逸れていくことを心掛けなければ、それは遊歩とさえならない。遊歩は危険なものである。これもまたゆきあたりばったりの原理、とばかりに決断して、誘いに乗ってついた職が、安全をもたらし、結果、あたらしいゆきあたりばったりがもたらされなくなれば、それは遊歩の終わりとなる。》

夕方、中古レコード屋69に寄って、電気グルーヴ×スチャダラパーが、2005年のサマーソニックでやったライブのDVDが出ていた。買おうかどうしようか迷っていた『石川ひとみベスト』も見つける。
さらに、栄向のブックオフへ歩く。ブックオフでは何も買わず、家に帰った。

夕飯はまたもや鍋、豚しゃぶ。毎日のように食べても、飽きない。豚の肩ロース、もやし、ささがきごぼう、豆腐、しらたき、しいたけ、最後にうどん。
食後、テレビで「さんま御殿」などを眺めて、電気×スチャのライブDVDを観た。

夜、アファナシエフによるショパン、有田正弘によるブラヴェを聴きながら、シュペンヴィエル『海に住む少女』(永田千奈訳 光文社古典新訳文庫)を読んだ。なんだか、あまり、のれないまま終わった。だが、一篇、「バイオリンの声の少女」には、成熟を前にした少女特有の複雑な魅力が詩的に表現されており、読後奇妙な味わいが残った。
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by daiouika1967 | 2008-10-22 20:47 | 日記