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12月12日(金) 晴

●夕方。最近週一で通っているスーパー銭湯のロビーで、妻が風呂から出てくるのを待ちながら、日経に目を通していたら、11月は各経済指標が軒並み(しかも記録的に)ダウンした、という記事が載っていた。
車や百貨店での売れ行きはがくんと下がり、企業の倒産件数は一万四千件を越えており、この指標を見るかぎり、なるほどたしかに不景気というのはほんとうらしい。
しかし、もちろん全体が悪いなかでも、儲かっている業種、企業はあるわけで、それはたぶんこの記事に書いてあるような大きな規模の指標には現れないのだろうが、それでもそんな業種、企業はごく例外的だというわけでもなく、例えばおれのクライアントである薬局チェーンにしても、11月以降各店舗の売上はまったく落ちていないし、錦(名古屋の繁華街)は、接待客が減って閑散としているという風評が流れているけれど、おれの知り合いがやっている風俗店は、今秋以降、むしろ売上は上がっているようだ。
すくなくともおれの周りに、不景気の煽りを喰らってふらついているやつは、ひとりも思い当たらない。
ニュースでは、「新卒者の内定取り消し」や「大量の派遣社員の契約解除」が、連日のように報じられていて、金融ショックのダメージをはっきりと受けている連中もたしかにいるようだ。
おれは経済学にはズブの素人なので、このアメリカを震源地とする金融恐慌の煽りがどこにどんなふうに波及しているのか、たとえばここ日本ではどこ(誰)が激しく影響を受けどこ(誰)はさほどでもないのか、そうしたことをまったく見通すことができない。
おれは、基本的に、儲かっているところ(人)の、その余剰分にたかって、日々の養分を得ている身なので、世の中の“金の流路”には敏感にならざるをえない(じつのところこうした生計の立て方にはうんざりしているのだが)。
今の日本は、「みんなが貧乏だった」時代とはちがい、いかに不景気になったといっても、どこかに必ず金は余っているのである。さてしかし、それが「どこ(誰)」なのかは、おれが活動している範囲で、直感的には想像がつくものの、その直感も根拠のある推論に基づくものではなく、ほとんど当てずっぽうのようなものでしかなく、じっさい「はずれ」を引くことも多い。
そんなわけで、経済のことを考え始めると、とたんに、自分の行く末が不安になってくる。……

ポールR.クルーグマン『クルーグマンの視座 -「ハーバード・ビジネス・レビュー論考集」』(北村幸伸訳 ダイヤモンド社)を読んでいたら、こんな一節にぶつかった。
いわゆる「ビジネス書」というものから、何を学び得て、何は学び得ないのか?
それが良いビジネス書なのか、悪いビジネス書なのか、どう判断すればいいのか?
この箇所を読んで、その見晴らしがずいぶん良くなった。
―「時おり、成功したビジネス界の人たちの体験記が出版される。逸話を集めて職業人生を描き出そうとする回想録調のものもあれば、偉大な人物を成功へと導いたその原則を解き明かそうとする野心的な著作もある。
書物として成功しているのは例外なく前者であって、後者ではない。売れ行きもよいが、まじめにものを考える人たちの評価が高い。なぜだろう。企業のリーダーとしての成功は、企業の一般理論を見つけたからというより、特定の商品戦略や組織改革によってもたらされる場合が多いからである。なかには、自分の知識を体系化しようと試みる偉大な企業家もいるが、ほとんどが期待はずれに終わる。ジョージ・ソロスの著作にしても、どうすれば第二のソロスになれるかについては書かれていない。ウォーレン・バフェットも、実際には「ウォーレン・バフェット式投資」などやっていないと言われている。
つまりは、金融界の鬼才と言われる人は、証券市場の一般原則を解明することによってではなく、特定の機会のなかでもきわめて希少な機会を、だれよりも先に予知することで財をなしたのである。
偉大なエグゼクティブたちもどうやら、自分の行動を公式化しようとしたり、原則を書き記そうとし始めると身を滅ぼすようだ。それまでの成功は直感や革新志向の上に成り立っていたのに、かくあるべしというイメージに沿って行動しようとし始めるからだ。ムカデについての古いジョークが思い出される。ムカデはどうやって100本の足の動きを調整しているのかと聞かれて考え始めたが最後、二度とまともに歩けなくなったという話である。」

成功した人間の多くは、自分が成功した本当の理由を、自分で自覚していない。
ぼんやりと自覚していたとしても、それを言葉で表現するのは難しく、けっきょく口に出して語られることは、すべて的をはずしたものになってしまう。
だから、成功者の書く「こうすればあなたも年商数億円」みたいなビジネス書は、じっさいは何の役にも立たないのである。
そこに書かれている「原則」「公式」に従ったところで、ビジネスを成功に導くことなどできない。
むしろ、自分の体験したことを謙虚に見つめて、その体験の全貌を書こうと志した書物であれば、読者によって、それぞれが必要とする教訓を、そこから引き出すことが可能となる。…
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by daiouika1967 | 2008-12-13 01:11 | 日記  

12月11日(木) 曇

●昨夜は夜、なんだかとても眠たくて、でもyoutubeで爆笑問題の漫才を見ていたらそれが面白くて、11時過ぎから眠たいなぁと感じつつ、けっきょく2時過ぎまで起きていた。
今朝は、目が覚めると、もう10時を過ぎていた。今日もまた早朝から、すこし眠りが浅くなると、Pが超能力でそれを察知して、枕元に来て顔に鼻面を近づけてくるので、そのたびにはっきりと覚醒してしまったのだけれど、それでも眠気の方が強く、しっかり目が覚めたのは10時過ぎだったというわけだ。
よく眠れた。それでもまだ心地のいい眠気が残っていて、全身が気だるく、ペニスが勃起している。隣で寝ている妻の体をまさぐっていたら、だんだん気持ちが良くなってきて、そのまま胸や脚や股間を触りつづけていると、彼女も興奮してきたようだった。そのまま裸になってセックスした。
そういえば妻とセックスするのは久しぶりである。冬は寒いから裸になるのが億劫だということもあるし、普段からハグしたりキスしたりといったスキンシップが頻々とあるので、最近では改めてセックスするまでの気分に、なかなか至らない。
セックスを終え、妻は、汗が乾いて寒くなる前に、シャワーを浴びに行った。おれは彼女がシャワーを浴びている間、裸のまま布団にもぐって、手だけ上に出して、ぼんやりしていた。すると、Pがやってきて(セックスしている最中は、Pはなぜか来ない。来ても、ふたりの様子をしばらく眺めて、ぷぃとどこかへ行ってしまう。何か不穏な気配を感じるのだろうか)、おれの指先をペロペロと舐め始めた。性交中に妻が分泌したものが指先に乾いているのを舐めている。動物には好ましい匂いや味なのだろう。

●朝からセックスしたので、なんとなくだるくなった。
昨日、一昨日と、おれにしてはかなり脳を酷使したので、今日はぼんやり年賀状の宛名でも刷ろうかと思っていたところだから、まあ、ちょうどいいような按排だ。
年賀状は、すべて親父の店のもので、おれは、大人になってからは、個人的な年賀状は出したことがない。ほんとうは、一年まるっきり会わないのだけれど、近況を通じ合っておきたいというような友だちも何人かはいるのだが、いまさらわざわざ電話して住所を確認して年賀状を送るというのも、不自然だし億劫である。
親父の店の年賀状は、約千枚ある。宛名は筆王のデータベースになっていて、あとはそれを出力するだけのことだ。本来なら数時間で済む、何の労苦もいらない作業である。しかし、去年もそうだったのだが、家庭用のプリンターというのは、よほど紙を巻き込むローラーがチャチなのか、2、300枚も印刷するとすぐバカになってしまう。2枚印刷しては紙詰まり、1枚印刷しては紙詰まりという具合で、いっこうに埒が明かない。
使えねぇ!こんな簡単な作業に耐えられないってなぁどういう了簡なんだ!と、機械を擬人化してイライラしはじめる。
ついにはまったく紙を噛まなくなり、「用紙がありません」というメッセージがでて、もううんともすんとも言わなくなると、もう苛立つのを通り越して、投げやりな気持ちになってくる。
おれが遠い目をして沈んでいると、妻が、
「いや、家庭用のじゃダメなんだよ、きっと。去年もそうだったでしょ。業務用のレーザーじゃないとダメかもよ?」。
おれが興奮したりブルーになったりしているあいだ、彼女はパソコンでYAHOOオークションを検索していたらしい。
「これ、10万のレーザープリンターの新品が2万7千円で出てるんだけど…」と妻が言う画面を見ると、たしかに安い。
いいじゃん!これ買っちゃおうよ!と即決して、これでこの使えねぇプリンターと無理に付き合う必要もなくなったと思ったら、一気に気分が明るくなった。
気づくと、もう、5時を過ぎて、窓の外は暗くなっていた。明るいうちを、年賀状200枚を刷って潰してしまった。

●夜、椅子に座っていると、Pが膝の上に飛び乗ってきて、しばらく撫でていたら、そのままおれの太腿のうえで、自分の前足に顎を乗せて眠ってしまった。
人肌が温かくて心地いいのだろう。とても幸せそうな寝顔をしているので、おれは、そのまま動けなくなってしまった。けっきょく1時間くらい、その体勢のまま、何もせずに過ごしたのだった。

●昔スペースシャワーTVでやっていたコーネリアスの番組『中目黒TV』を見返した。2年前、『SENSUAS』が発売された頃放送された番組で、ライブとPVが組み合わさった内容のものだ。
『SENSUAS』は聴き倒したアルバムだけれど、こうして映像つきであらためて聴いてみると、やっぱりしみじみとすてきにポップ&チル・アウト。
「WATARIDORI」という曲を聴いていて、その曲は、ミニマルな音列が、いくつかズレを保ちつつ組み合わされたような音楽で、その映像は、街の上空を渡り鳥が飛んでいくのを、影絵のようなアニメーションで表現したものなのだが、それが最高のトリップ感覚をもたらしてくれる。
音楽では、渡り鳥が飛んでいるのを描写するだけで、こんな充実した開放感が表現できる。そういえば、渡り鳥の生態を延々と追いかけたドキュメンタリー映画もあったな、と思い出す。動物や、あるいは自然を描写することで、音楽や映画は、その領域を、「人間」という限定を超えたところにまで拡張する。
小説でも―、とふと考える―、例えば保坂和志の小説に出てくる猫は、何かの象徴や比喩ではなく、猫そのものとして登場している(と、保坂和志自身も、エッセイなどで、くりかえし指摘し強調している)。保坂和志が、小説に(象徴や比喩ではない)猫そのものを登場させるのは、その小説世界を、人間同士の閉じられた関係性から解き放ち、もっと広々としたものに拡張するためであるのにちがいない。…
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by daiouika1967 | 2008-12-12 00:07 | 日記  

12月5日(金) 雨のち曇

朝起きると、もう8時を過ぎているのに外が暗くて、しばらくベッドのなかでぼんやりしていると、窓に稲光が光った。次いで、ゴロゴロゴロゴロ、と、猫が喉を鳴らすような音。朝から珍しいな、と思っていると、Pが枕元にやってきた。おれが目覚める気配がすると、Pは必ず近寄ってくる。
しかしそれにしても、べつに音を立てているわけでもないのに、なぜPには、おれが目を覚ましたことが分かるのだろう。瞼の開く音がするのだろうか。まさか。
Pに餌をやって、英語の勉強を1時間くらいやって、卵かけご飯とインスタント味噌汁の朝昼兼用の食事をとった。

午後、名駅の喫茶店で、松岡正剛『白川静 ―漢字の世界観』の残りを読みきった。
読後、ジュンク堂に行き、白川静の本をさがし、何冊かあるなかから、まずは『文字逍遥』(平凡社ライブラリー)を選んだ。いっしょに、木田元『なにもかも小林秀雄に教わった』(文春新書)も買った。
小雨がぱらつくなか、図書館まで歩き、一階のデスクで、木田元『なにもかも小林秀雄に教わった』を読む。途中、30分くらい、机につっぷしてうつらうつらする。どうもやはり、慢性的に睡眠が足りていないようだ。

内田樹は、「白川静から学んだ2、3のことがら」というエッセイ(『昭和のエートス』(basilico)所収)のなかで、『白川先生の漢字学は、古代中国において、地に瀰漫していた「邪悪なもの」を呪鎮することが人間たちのおそらく最初の知的営為であったという仮説の上に構築されている』と論じている。
―『おそらく古代の人々は中国でも、あるいは万葉古語の日本列島でも、身体を震わせ、足を踏み鳴らし、烈しく歌い、呪い、祝ったのであろう。そのようにして人々は生命力を賦活し、減殺するために死力を尽くした。そのときに人々が発していた言葉はほとんど物質的な持ち重りと手触りを持っていたはずである。それは観想的主体の口にする「われ思う」という言葉の透過性、無重力性、非物質性、中立性と、考え得る限りもっとも対蹠的なところにある言葉である。
言葉がそれだけの重みを持った時代がかつてあった。それは白川先生のロジックを反転させて言えば、人間がそれだけの重みを持った時代があったということでもある。人間の発する烈しい感情や思いや祈念が世界を具体的に変形させることのできた時代があったということである。そして、そのような時代こそは白川先生にとって遡及的に構築すべき、私たちの規矩となるべき「規範的起源」だったのである。』


言葉は世界を分節する原理だが、その分節を促す力能の根源には、人間の抱える「呪われた部分」が存在する。
人間の知的営為は、すべて、この「呪われた部分」と、どのように折り合いをつけるのか(「身体を震わせ、足を踏み鳴らし、烈しく歌い、呪い、祝う」)という動機に基づいてなされるのである。
白川静の漢字学は、おそらく、つねにこの「根源」を見つめて構築されたものなのだろう。

そうした観念が頭にあって、木田元『なにもかも小林秀雄に教わった』を読んでいたら、「言葉は存在の家である」というハイデガーの言葉が出てきて、そこでさらに思考にドライブがかかった。
ハイデガーはこう言っている-『人間は、単に他のさまざまな能力と共に言葉をもっている一個の生物といったようなものはない。むしろ言葉は存在の家なのであり、人間はそこに住みながら、おのれの外に出で立ち、……存在の真理に帰属しているのだ。』
このことについて、木田元による解説的な文章があるので、その箇所を引いておく。
―『一般に動物は、多少の幅はあるにしても<現在>だけに生きている。しかし、神経系の分化が進み、ある域を越えると、その<現在>のうちにあるズレが生じ、<過去>や<未来>と呼ばれることになる時限が開かれ、いわば時間化が起こる。
そうなると、現に与えられている環境構造に、かつて与えられたことのある環境構造や与えられるであろう環境構造が重ね合わされ、それらがたがいに切り換えられて、そこに複雑なフィードバック・システムが形成される。
こうして、現在与えられている環境構造をおのれの可能な一つの局面としてもちはするが、けっしてそれに還元されてしまうわけではない<世界>というもっと高次のこうぞうが構成されることになる。このとき、単なる生物学的環境を越え出て、この<世界>に反応して生き、いわば<世界内存在>する現存在(人間)が誕生するのである。
それと共に、一般の動物のように、環境のうちに現に与えられている刺戟やその代理刺戟つまり<信号>にだけ反応するのではなく、そうした信号を足場にしてさらに高次の記号つまり<シンボル>を構成し、それによって行動を起したり、続行したりするシンボル行動ができるようになる。シンボル操作としての言語活動もこの段階ではじめて可能になるのである。そのシンボルとしての言語の自己分節が、世界を分節し、分化していくのだ。
<存在了解>も同じ事態に結びつく。ハイデガーは<存在了解>を<存在企投>と呼ぶこともあるが、こちらの方が分かりやすいかもしれない。<存在企投>とは、現存在が生物学的環境を<超越>して、つまりほんの少しそこから脱け出して、<存在>という視点を設定し、そこから自分がいつも生きている環境を見なおすことだと考えてよい。』


ドライブのかかった思考は、さまざまな固有名に伸び広がり、読みながら、この本に登場する、小林秀雄、保田與十郎、ランボー、リルケ、ニーチェ、ハイデガー、ドストエフスキー、キルケゴール、そしてさらにこの本で取り上げられているわけではないが、バタイユ、ブランショ、レヴィナス、そして、白川静、折口信夫といった人たちの著作を、片っ端から読みたくなる。
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by daiouika1967 | 2008-12-06 11:32 | 日記  

12月4日(木) 晴

10時半、Tに迎えに来てもらい、I氏のオフィスへ向かう。近くのコメダコーヒーで、コーヒーを飲みながら、仕事の打ち合わせをした。
仕事の話の前に、長々としたマクラがあり、ゴルフの話、ヤクザ組織の話がつづいた。I氏の質問にTが答え、おれはときどき相槌を打ちながらも、興味のない話題ということもあり、意識がぼんやりとして、窓の外に広がる冬の街の昼時を眺めて過ごした。
そうこうするうち、やくざのT氏から電話があり、四人で合流し、仕事の話のつづきをすることになった。
駅西のパスタ屋に移動し、昼飯のパスタを食べながら話をした。ここでも、仕事とは関係のない無駄話に逸れてゆき、今度はやくざのT氏が話題を先導して、T氏とTの掛け合いがつづくなか、おれはぼんやりとその成り行きを眺め、ときどき相槌を打って、そうこうするうちに、時は三時半を過ぎ、用事のあるらしいT氏が席を立つのを機にして、「打ち合わせ」はお開きになった。

4時過ぎ、今日は早目に帰宅した。
適当に食事を済ませ、夕方、DVDで『回転』を観た。ジャック・クレイトン監督、ヘンリー・ジェイムズの小説『ねじの回転』を、トールマン・カポーティ+ウィリアム・アーチボルトが脚色した、1961年の怪奇映画である。黒沢清が監修したDVD-BOX『映画はおそろしい』に収められていた1本。
「映像における幽霊の表現に重大な変革をもたらした記念碑的作品。と言うか、何よりただひたすら恐い。白黒の微妙なゆらぎや陰影がぜんぶ幽霊に見えてくる」という黒沢清による推薦文が付されている。
たしかに、気づくといつしかこの映画固有の不安定なリズムにのまれて、「白黒の微妙なゆらぎや陰影がぜんぶ幽霊に見えてくる」。
昨日、今日と、寝不足なのか風邪気味なのか、何かに集中すると、眠気に襲われる。この映画を観ている最中も、途中で、頭が重くなるような眠気に襲われた。それでも目を凝らして観ていると、そのうちに眠気よりも映画のおもしろさが勝り、さらに映画に退屈したらしい妻がコーヒーを挽いて入れてくれたので、その後はしっかりと目を覚まして見通すことができた。

夜は、英語の勉強を3時間やって、11時過ぎになった。本を読もうかと松岡正剛『白川静香 -漢字の世界観』を開くが、数ページぺらぺらと読むと、もう眠気がやってきた。読書はあきらめて、チッコリーニが演奏するサティをかけ、早々にベッドに入った。
Pが枕元にやってきておれの顔を覗き込んだり(ヒゲが顔をくすぐる)、おれの体の形にふくらんだ掛け布団の上に飛び乗ってきたり、そんなことが約1時間もつづき、なかなか寝付くことができなかった。
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by daiouika1967 | 2008-12-05 09:39 | 日記  

12月3日(水) 晴

9時過ぎに起床し、英語の勉強を1時間、傍らでは妻が化粧をしている。今日はランチの予約がしてある。名古屋栄のオフィスビルの地下にあるイタ飯屋「カーザ・デッラマンテ」。地下鉄で向かい、11時半に店に入った。
ウェイトレスが可愛く愛想がよく丁寧で、料理はスープ、前菜、パスタ、メインの魚料理、ドルチェとすべて満足できる仕上がりだった(とりわけ、メインの鰆のムニエルが、焼き味が炭っぽくて香ばしくパリッとした皮の部分と、フワッとした魚肉が、絶妙の調和を醸していた)。ふたりで9000円が安く感じる。
おれはグルメではないし、普段口にするものにさしたる拘りも持たないが、たまに美味しいものを食べると、とても幸福な気分になる。外食は(料理は)高度なエンターテインメントになり得る。

1時過ぎ、妻と別れ、妻は名駅方面へ、おれは、逆の方向に歩き出した。最近気に入っている矢場町にある喫茶店に行き、カフェオレを注文して、松岡正剛『白川静 ―漢字の世界観』(平凡社)を開いた。しかし疲れているのか、字を追っているとすぐに意識が途切れ、気づくと目を瞑って眠っている。ようやく150ページ読んで、本を閉じた。

街をぶらついて、本屋やCDショップを覗く。栄の<バナナレコード>で、エイフェックス・ツイン『Selected Ambient Works』vol.1とvol.2、コーネリアス『ファンタズマ』、細野晴臣『フィルハーモニー』、大滝詠一『A LONG VACATION』(20THアニバーサリーエディション)、ジャニス・イアン『ザ・グレイテスト・ヒッツ~アップ・ティル・ナウ~』を買った。
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by daiouika1967 | 2008-12-04 00:18 | 日記