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2月27日 曇ときどき雨

10時前起床。朝食に玄米、納豆、とろろ昆布のお吸い物。午前中はパソコンに向かって、仕事の調べ物をして過ぎる。今日は妻は朝から病院に行っていていない。ひとりなのでエロサイトでも見てマスターベーションでもしようかと思うが、興が乗らず却下、ひたすら仕事、それからネットの回遊。
午後1時過ぎ、家を出る。今日は3時からプレゼンがあるので、英語の勉強は一日休むことにする。三省堂に行き、坂本龍一『音楽は自由にする』(新潮社)、『アックスvol.67 特集根本敬』、竹内謙礼『ネットで売れるもの売れないもの』(日本経済新聞出版社)を買う。プレゼンまで約1時間、喫茶店で竹内謙礼『ネットで売れるもの売れないもの』(日本経済新聞社)を読んで、「気付け」にする。
現地でK君と待ち合わせ、3時から5時まで、プレゼン。あらかじめ成功を予想していたものの、不安要素がないではなかった。結果は、予想通りの成功。来月の食い扶持をつなぐ。
プレゼンが終わり、夕方、K君と喫茶店に入り、2時間話をして過ごす。最近離婚したばかりのK君の兄貴が、離婚のすこし前から付き合っていたスナックの女の子を孕ませてしまったらしい。どうしよう、と相談されたK君は「堕ろしてもらえば?」と答えたらしいのだが、結局兄貴は「責任を取って結婚する」ことにし、相手の親に挨拶に行ったのだそうだ。「ま、悪者になりたくないだけのヘタレですよ」。おれも、「たしかに“筋の悪い展開”だよねえ」と、K君に同調する。
7時半、家に帰る。妻が高島屋のデパ地下で、しゅうまいを買って待っていた。夕食は黒豚しゅうまい、えびしゅうまいとキャベツの千切り、とろろ昆布のお吸い物、玄米。しゅうまいは激うま。
夜、ヘッドフォンで大滝詠一、高橋ユキヒロ、エゴラッピンなんかを聴きながら、『アックスvol.67 特集根本敬』を読み、続けて坂本龍一『音楽は自由にする』(新潮社)を読む。252ページ読了。雑誌『エンジン』に連載されたインタビューをまとめた坂本龍一初の「自伝」。YMO以降については、他のインタビューやエッセイで読んだエピソードがほとんどだったが、語り口がバランスよく力が脱けていて、読んでいて気持ちがよかった。
1時半過ぎ、就寝。
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by daiouika1967 | 2009-02-28 09:18 | 日記  

2月26日 晴

9時過ぎ起床。朝食に玄米、納豆、味噌汁。10時半、家を出る。喫茶店で、小林敏彦『ニュース英語パワーボキャビル+3000語』(語研)、一冊通し。2時間。
午後、米原万里『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(角川文庫)から、「リッツァの夢見た青空」「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」の2編。P189まで。
夕方、早目に家に帰る。とても疲れている。夕方、しばらく昼寝する。
夕飯はコンビニ。妻とセブンイレブンに行き、五目焼きそば、骨なしチキン、カルビ巻きフランクフルト、パンなど。超高カロリーだろうな。
夜、テレビをB.G.V.にしてみうらじゅん『みうらじゅん対談集』(コアマガジン)の続きを読む。401ページ読了。1時半、就寝。
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by daiouika1967 | 2009-02-27 22:02 | 日記  

2月25日 曇のち晴

9時過ぎ起床。朝食に玄米、納豆、味噌汁。10時半、家を出る。喫茶店で、小林敏彦『ニュース英語パワーボキャビル+3000語』(語研)、一冊通し。2時間。
ジュンク堂に行き、高橋源一郎『大人にはわからない日本文学史』(岩波書店)、みうらじゅん『みうらじゅん対談集 正論』(コアマガジン)を買う。
午後、高橋源一郎『大人にはわからない日本文学史』(岩波書店)を読む。204ページ読了。次いでみうらじゅん『みうらじゅん対談集 正論』(コアマガジン)を読み始める。210ページまで読み進む。読みながら、ドトールでクリームパン1個食べる。腹は減っているのに、食べたいものがない。
夕方、小林敏彦『ニュース英語パワーボキャビル4000語』(語研)、unit23からunit48。1時間半。
夕食は解答した「健康惣菜」三種、玄米。夜、パソコンの前ですこし仕事をしてから、三日ぶりくらいに風呂に入る。気持ちよかった。夜中に小腹が減って妻がうどんを茹でる。美味しかった。

高橋源一郎『大人にはわからない日本文学史』(岩波書店)
-「映画を見る時、わたしたちは、その長方形の画面の隅々まで見ているわけではありません。そこでは物語がすでに進行していて、わたしたちは、よほどのことがない限り、役者の顔を見たり、彼の手の動き見たりする程度です。しかし、それでも、なにが起こっているのか、わからなくなることはないのです。この映画を見ているような見方、それこそ、自然主義的リアリズムというものの本質ではないかとわたしは考えています。
つまり、リアリズムとは、「目に見えるように」表現するということです。それ故、ことばや文字によって表現されたものであるにもかかわらず、まるで映画を見るような視線で目の前のことばを眺めるといったことが起こります。それを不自然と思わないのは、わたしたち自身が、要するに、自然主義リアリズムで書かれたものしか読んだことがないからです。
けれども、かつてはもっとさまざまな書き方が存在していました。そう思って『にごりえ』(樋口一葉)を読んでください。
『おい木村さん信さん寄つてお出よ、お寄りといつたら寄つて宜いではないか、又素通りで二葉やへ行く気だらう、押しかけて行つて引きずつて来るからさう思ひな、ほんとにお湯なら帰りに屹度よつてお呉れよ』
この文章を前にして、わたしたちは、どう読めばいいのでしょう。わたしたちは、ここに書かれた文字を一つ一つたどりながら読むしかないのです。言い換えるなら、自然主義的リアリズムで書かれた作品を読む時のように、少し離れて全体の輪郭を読むというやり方は、不可能になるのです。この小説を読んで、リズムがある、力がある、よくわからないのに引きつけられると思うのは、わたしたちがこの小説を、自然主義的リアリズムの作品を読むようには読んでいないからではないでしょうか。つまりこの作品は、まず何より、わたしたちに読みの変更を迫るのです。」(P20)
-「影山民夫という作家が生きていた頃、彼はよく、わたしを見て、わたしの背後に、お坊さんがいる、それはきみの背後霊だよといっていました。わたしはわざと振り返って、影山民夫に、そんなものいないよというと、影山民夫は、きみには見えないんだよ、と悲しそうにいったのです。それからしばらくして、影山民夫は、自宅の机の前で、原因不明の「発火」で死亡しました。もしかしたら、それは、彼が、わたしには見えないものを見たこととなにか関係があるかもしれない。いや、わたしは冗談をいっているのではありません。あなたと植物学者が並んで、山を歩いたら、目に映るものは同じでも、まったく異なったものが見えるはずです。競馬をぜんぜん知らない人間が競馬場に出かけても、そこは、三十分置きに次々とかけっこをする広い場所でしかないのに、わたしにとっては、何時間も複雑な思索を要求する場なのです。
自然主義的リアリズムは、そこにあるものをどれだけくっきり写しとることができるかということに関して、これまで人間が発明したもっとも完璧な技術であるといっても過言ではありません。そのために、確かに多くのものが犠牲になりました。たとえば、それは「リアル」であり、、「現実」であったのです。」(P28)
-「ところで、みなさんは、小説と詩の違いはどこにあると思われるでしょうか。わたしは、きわめて単純に考えています。つまり、小説は目的地に向かってまっすぐに進むものであるのに対して、詩は、時には目的地を忘れても、目前のことばというものの、比喩的にいうなら、その角を曲がっていくものではないかと。
詩の本質と考えられるものの一つに、「改行」があります。「改行」というものは、なぜ存在するのでしょうか。私人に聞いてもはっきりとは答えてくれません。わたしの考えでは、詩人が改行するのは、その行のところでことばの角を曲がるからです。一つの行を書く、ある場所に到達する。その時、小説家はただ早く目的地に着くことだけを考えます。それに対して、詩人は角に来たら曲がりたくなる性質を持っています。ここを曲がったら、自分の知らないなにかがあるのではないかと思って、角を曲がるのです。角を曲がるとまた角がある。小説家なら角ではなくメインストリートをまっすぐ歩いていきたいと思うでしょう。しかし詩人はその角の向こうにある、隠されているなにかが気になってしょうがない存在なのかもしれません。
近代文学という名の下に分類される通常の小説では、目的地に向かってまっすぐ進む小説が優れているものだと考えられてきました。「私は寂しい」……そう思うならそう書く。そして寂しい「私:は、どう行動するのか、どのようにそれを解決するのか。そのことを小説に書こうとしてきたのです。
「角」を何度も曲がるような、ことばをことばで形容していくような、主人公は動かず、形容詞を重ねていくような語法は、古くさいやり方であると考えられてきました。ちょうど尾崎紅葉が漱石や藤村たちによって修飾過多の文章だと否定されたように。あるいは漱石自身が『虞美人草』のような小説を一度書き、二度と書かなかったことに示されるように。」(P50)
-「そのような、無意味に近いものを思い起こすこと、なぜ、そんなことが小説の中に書かれなければならないのでしょう。それは、この作者が、この百年の間に流通してきた、さまざまな問いと答え、あたかも本質的であるかの如く見える、問いと答えのペア、諍いや闘争、そういったものに対して、深い生理的嫌悪感を持っているからではないでしょうか。この小説は、あくまでも禁欲的に、ほとんど身動きしない主人公が、ただ体を伸ばしたり縮めたりしながら、時にパソコンの画面を見る、ただそれだけの描写で成り立っています。
しかし、なにより重要なのは、主人公が極端に内向的であり、自閉的であり、自分の内側しか見ないではないか、などといった批判を、この小説に向けることができないということです。なぜなら、この主人公は、そもそも、自分の内側を見つめるという習慣を持たないからです。そして、彼女の思いは、遠くにいる夫に向かっています。
思えば、そもそも、他者を理解するなどということがほんとうに可能なのでしょうか?
近代文学は、「『私』の獲得」というモードに達した時、ある意味で「私」を自明の前提としました。そして、描写すべき他者とは、もう一人の「私」に過ぎないと思ったのです。自然主義的リアリズム、あるいはその素朴な応用としての私小説の中に、本質的な他者は存在しません。ただ、「私に似た他人」がいるだけで、それ故に「私」とその「私に似た他人」は―理解できるはずなのに、と考えながら―いら立ち合い、ことばをぶつけあうのです。」(P123)
―「わたしは、穂村弘の『短歌の友人』の考えを借りて、小説の歴史と短歌の歴史はパラレルではないかと考えてみることにしました。「『私』の獲得」から「モノ化した言葉」へ、そして「玩具としての言葉」を経て、ただ、目の前の現実を、呆然として見るしかない、とりたてて感想もなく、直視するしかない、穂村弘の用語を借りるなら、「棒立ちの私」とでもいうしかない「私」が発する、極度に単純なことばへ、という移り行きが、ふたつのジャンルで平行して起こったのです。」(P133)
―「荒々しいもの、とげとげしいもの、大げさなもの、理屈っぽいもの、そういったことばすべて「僕」は拒みたいと思います。たとえば、なぜ働くのか。それは、働くことが、この社会で生きるために、社会との間で締結しなければならない契約だからです。しかし「僕」は、社会との契約を信じる事ができません。「僕」は、働くのがおっくうで働かないのではなく、「働く」という「契約」に唯々諾々と従うことができないだけなのです。夢や希望について考えようとしないのは、「夢」や「希望」ということばが、あまりに使われすぎているということを、無意識のうちに考えてしまうからです。
だから、「僕」は、ことばから離れ、ことばのない世界に自分の立ち位置を定めようとします。」(P144)
-「自分が、自分も使っているそのことばを生み出した共同体に所属していないという感覚。それは、この世界の歴史に自分は参加していない、という感覚につながっています。あるいは歴史というものがなにかなのかを、そもそも知らないという感覚に。」(P200)

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by daiouika1967 | 2009-02-26 20:46 | 日記  

2月24日 終日曇天、小雨が降ったり止んだり

10時前まで眠る。起きてすぐ朝食。クロワッサン、インスタントスープ、キャベツとツナのサラダ。家を出て、喫茶店で、小林敏彦『ニュース英語パワーボキャビル4000語』(語研)、一冊通し。2時間。
不安を遠ざける一番の方法は、毎日決まった時間に決まったことを判を押したように繰り返す、規則的な生活を送ることである。おれには無理なので、せめて一日に2、3時間は英語の勉強に費やしている。それだけでもけっこう安定する。トランキライザー代わりである。
午後、米原万里『不実な美女か 貞淑な醜女か』(新潮文庫)の続き、329ページ読了。次いで『ロシアは今日も荒れ模様』(講談社文庫)、283ページ読了。
夕方、小林敏彦『ニュース英語パワーボキャビル+3000語』(語研)、unit1からunit9まで。1時間。帰りに高島屋デパ地下で刺身を三種買っていく。ブリ、カツオのたたき、ホタテ。夕飯は刺身と、大根、きんちゃく包み、うどんの入った味噌汁、玄米。
1時過ぎ、就寝。
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by daiouika1967 | 2009-02-25 19:55 | 日記  

2月20日 午前中曇、午後晴。

10時前起床。朝食に、納豆、油揚げの味噌汁(米はなし)。
11時前、家を出る。小林敏彦『ニュース英語パワーボキャビル+3000語』(語研)、unit17からunit20で一冊終わり、元に戻り、unit1からunit10まで。合わせて2時間。
午後、ウォーラーステイン『入門 世界システム分析』(山下範久訳 藤原書店)を読む。261ページ読了。次いで、米原万里『不実な美女か 貞淑な醜女か』(新潮文庫)の続き、200ページまで。
帰り、ブックオフに寄り、米原万里の本を二冊追加。『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(角川文庫)、『魔女の1ダース』(新潮文庫)。あと、100」円だったので買った本が3冊。谷川俊太郎『ひとり暮らし』(草思社)、副島隆彦『預金封鎖 ―「統制経済」へ向かう日本』(祥伝社)、『連鎖する大暴落 ―静かに恐慌化する世界』(徳間書店)。全部で900円。
夕食は、ハンバーグを拵える。ハンバーグはおれの担当だ。キャベツの千切りを添えて。納豆、玄米。
夜、妻は10時過ぎに早々と眠ってしまった。おれはネットを周って、何となく3時頃まで起きていた。

都倉康行『金融史がわかれば世界がわかる -「金融力」とは何か』(ちくま新書)
-「金に兌換できない紙幣ということであれば、現在の紙幣でも同じことである。つまり南北戦争時の米国では、金を離れて財務省を信用するしかないという通貨制度を経験したことになる。現在の通貨は、中央銀行を信用するしかないという制度であるが、要するに政府・公的機関といった「信用力」を信じるかどうかの問題であって、Green Backを受け取った当時の人々がどういう思いでその「金に裏打ちされない紙幣」を眺めていたのか、興味深いところである。」(P86)
-「資本取引は、経常収支の動向よりも、金利差によって誘発されることが多い。」(P115)
-「そもそも金本位制とは、市中で流通する紙幣を一定量の金と交換できることを中央銀行が保証する仕組みであるが、それを別の面からみれば、当該国は紙幣に見合うだけの金を保有していることが、その制度を維持する前提となる。十分な金がなければ、必然的に紙幣の価値は下落することになる。これが平価切下げの意味である。」(P118)
-「金は利息を生まないという欠点があるが、反対に、誰の負債でもないという長所もある。超低金利の時代では、前者はあまり問題視されないし、国家財政の赤字拡大など信用リスクの問題が顕著になってくれば、後者のメリットが浮上してくるのは当然だろう。(中略)
金は、通貨ではない。だが単なる貴金属商品でもない。その複雑な性格を持ち続ける限り、通貨体制にもまだ影響を及ぼす可能性があるとの意見を、一笑に付すことはできない。現行の変動相場制が完全なシステムではないことは、もはや誰の眼にも明らかになりつつある。」(P123)
-「財政とドルの問題は、まさに海外からのファイナンスという点に絞られているといってよいだろう。日本も大幅な財政赤字を続けているが、そのほとんどは国債を通じて日本国内の貯蓄によって賄われている。非居住者による国債保有は、発行残高の3%程度でしかない。だが、米国の場合は、1980年代から徐々に拡大する財政赤字を、主に日本などの海外投資家が支えてきたのである。米国債の新規入札のたびに、日本の生保などによる応札がどの程度見込まれるかといった事前の思惑に、米国市場は一喜一憂する時代が続いていた。
日本の市場には、3%以上の金利差があれば米国投資は有利である、といった通説があった。とくに根拠があったわけではないが、こうした金利差だけでなく、年限別に整備された国債発行の構成や売買市場における流動性の懐の深さなど、日本国内の非効率な市場と比べて魅力のあった米国債市場に投資するのは、とくに不自然であるとは考えられなかった。こうしてレーガン政権時代の日本の対米投資は拡大し、ドルはその前のカーター政権のもとで急落したのとは反対に、大きく反転することになったのである。」(P128)
-「明らかに経済と金融とは異なる分野・部門である。経済問題は、失業率や物価、成長率の関係などを扱うものだが、金融問題は金利メカニズム、資金循環、資産選択、資金仲介力、金融技術、リターン分析などを問うものである。(中略)
国際金融の歴史では、たしかに経済力と金融力がほぼ一致していたが、それは貿易取引中心時代の金融力が、貿易決済や短期金融市場でのファイナンスの役割という狭い守備範囲に限られていたからである。だが、二十世紀後半の資本取引中心時代に移行してからは、金融力の要素は多様化し、圧倒的な経済力を持つだけでは、その金融力が維持できなくなりつつあるように感じられる。」(P199)
-「通貨市場と並んで重要なのだが資本市場である。株式と債権、デリバティブズ市場は、国際金融上の要である。世界の富は、リスクとリターンが適正に表現される市場へと流れる。それが各国の経済基盤を支えることはいうまでもない。日本も明治維新後、経済的に苦しい時期に何度も海外資金に支えられて成長を果たし、現在の安定成長に軟着陸した。だがいま、国内資本が充実し、海外に資本を投資する立場にもなった。だが、そこに潜む深刻な問題点を無視するわけにはいかない。
落とし穴はいくつもある、一例を挙げれば、個人資産の大量海外流出である。国内では十分に得られない投資機会に嫌気が差し、1400兆円といわれる個人資産が一斉に海外に向かうとすれば、何が起こるだろう。ここで言いたいのは、通常懸念されるような預金不安によるキャピタル・フライトの可能性ではない。むしろ適正な運用としての、つまり適正な資産配分としての資本流出のシナリオである。
日本の個人資産は、「預貯金の比重が高い」のが問題ではなく、「リターンを生まない資産に寝ている比重が高い」のが問題なのである。それは、将来的にリスク・リターンが客観的に理解できる市場へ向かう可能性が高い。政治経済の多極化に伴い、米国だけでなく、欧州、中国などさまざまな国々へ投資されていくのではないか。
日本のマネーが海外へ流れるのは自然な金融現象であろう。だが、それが過剰に流出すれば、日本の国内経済の問題にもなる。日本にも、欧米や資本市場後発の国々に劣らぬ資本市場構造を構築して、一定量の資本を確保する必要がある。多様化、多極化する国際金融のなかで、日本の金融市場はきわめて重要な、そして深刻な課題を抱えている。」(P222)

ウォーラーステイン『入門 世界システム分析』(山下範久訳 藤原書店)
-「無限の資本蓄積を優先するようなシステムが現れてはじめて、資本主義のシステムの存在を言うことができる。この定義を用いると、近代世界システムだけが、資本主義的なシステムであるということになる。無限の蓄積というのは、かなり単純な概念である。それは、諸個人や諸企業が、より多くの資本を蓄積するために、資本の蓄積を行い、その過程が持続的で終わりのないものとなっているということである。われわれが、「システムがそのような無限の蓄積を優先するというとき」、それが意味しているのは、無限の蓄積以外の動機で行動する主体には不利に働き、最終的にはそのような主体が社会の舞台から排除されてしまう一方、適切な(無限の蓄積を志向する)動機に即して行動する主体には有利に働いて、うまくいけば、そのような主体には富がもたらされるようななんらかの構造的なメカニズムがあるということである。」(P69)
-「実際のところ、資本化が必要としているのは、完全に自由な市場ではなく、部分的にのみ自由な市場である。理由は明快だ。経済学の教科書が普通に定義するような-つまり、諸要素は一切の規制なく流通し、非常に多くの買い手と非常に多くの売り手がおり、完全情報(すべての売り手とすべての買い手があらゆる生産にかかる費用の正確な状態を知っている)が成立しているような-あらゆる生産要素が完全に自由に流通する世界市場がほんとうに存在しているところを想像していただきたい。そのような完璧な市場においては、買い手は売り手に対して、つねにその利潤を絶対最小限(とりあえず最小単位額と考えておこう)に下げるように交渉することができる。そして、そのような低水準の利潤では、資本主義というゲームは生産者にとって意味のないものとなってしまい、結果として、そのようなシステムは基本的な社会基盤を喪失してしまうことになる。」(P73)
-「社会システムに内在する諸権力は、社会化の過程を通じて、まさにそのシステムがつくりだしているヒエラルギーの現実を受け入れられるようになることを、つねに望んでいる。さらに諸権力はまた、社会化を通じて、いまあるシステムをそういうものとして受け入れさせる神話、修辞、理論といったものが内面化されることをも望んでいる。こういった権力の欲望は、ある程度は達せられるが、完全に実現することはない。家計世帯によるその成員の社会化は、反乱、退出、逸脱といった帰結にいたることもあるからである。たしかに、システム全体が相対的に均衡状態にあるかぎりでならば、ある程度までは、そのような反システム的な社会化も、不安や不満の捌け口を提供するというかたちで、システム(の安定)にとって有益である場合もある。その場合、負の社会化は、システムの機能に対して、せいぜい限られたインパクトしか持ちえないということになるが、史的システムが構造的危機に至ると、そのような反システム的な社会化は、システムに対して、深甚な不安定化をもたらす可能性が出てくる。」(P99)
-「国家の権威による専制的な行動は、その国家の強力さよりは、むしろ弱体さのしるしであることのほうが多い。国家の強さというものは、法的決定を実際に実行する能力によって定義することが、もっとも有益である。単純な指標のひとつとしては、課税額のうち、実際に徴収され、徴税当局のもとに納められた税金の割合を用いることができるだろう。いうまでもなく、納税忌避はどこにでもある現象である。しかし、強力な国家が実際に徴収しうるもの(ざっと八割程度)と弱体な国家が実際に徴収しうるもの(比べていうなら二割に近い)との違いは、圧倒的に大きい。弱体の国家の税の徴収能力の低さの原因は官僚機構の弱さであり、また逆に徴税能力の低さのゆえに、官僚機構を強化する財源が奪われてしまうということでもある。」(P133)
-「既存のシステムが、そのシステムによって定義された範囲内では、もはや適切に機能しえなくなっている以上、そこからの出口の選択、新しく構築されるべきシステム(それはひとつではく複数のシステムであるかもしれない)について、選択を行なうことが不可避となる。分岐の過程は、カオス的である。「カオス的」という言葉の意味は、この期間における小さな行動のひとつひとつが、有意味な帰結にいたる高い可能性をはらんでいるということである。そのような条件下では、システムの振幅が激しくなる傾向が観察される。しかし、最終的には、ひとつの方向に傾いていく、決定的な選択がなされるまでには、通常、かなりの時間がかかる。その期間は、移行期と呼ぶことができる。移行の帰結は、まったく不確実である。しかしながら、ある点にいたると、はっきりした帰結が現れ、ひとびとは、異なる史的システムにおかれることになる。」(P184)
-「1968年の爆発には、二つの主題が含まれており、その二つの主題は、地域によって文脈こそ違え、ほとんどあらゆる場所で反復された。ひとつは、アメリカ合衆国の覇権的権力(ヘゲモニー)の拒絶である。しかも、これは同時に、アメリカ合衆国の反対勢力とされていたソ連が、実際には、アメリカ合衆国が打ちたてた世界秩序に共謀しているという不満をともなっていた。もうひとつは、伝統的な反システム的運動が、権力についた後、その約束を果たしていないというものであった。これら二つの不満が結びついて-実に広い範囲で繰り返された-ひとつの文化的激震を構成したのである。多くの蜂起は不死鳥のごとくであったが、各地の1968年の革命勢力は政権につくことはなかった(あるいは、ついたとしてもあまり長続きしなかった)。しかし、この激震によって、反システム運動に対してのみならず、それらの運動が強化してきた国家機構に対する幻滅までもが、正統化され、強められてしまうこととなった。時代が進めば社会は良くなるという長期的な確信が、世界システムは変化しないかもしれないという恐怖に変わってきたのである。
このような世界的な感情の転換によって、現状(の体制)は強化されるどころか、実際のところ、資本主義的世界=経済の下層からの政治的および文化的支持の底が抜けてしまった。抑圧されているひとびとは、もはや歴史が自分たちの味方だという確信をもてなくなり、したがって、自分たちの子供や孫の人生においてその改良が実を結ぶだろうと信じて斬新的な改良に満足することもできなくなった。彼らは、将来の利益の名の下に、現在の不満を先送りすることに納得できなくなった。要するに、資本主義的世界=経済の多数の生産者は、被抑圧者の楽観主義というシステムの隠れた主安定装置を失ったのである。」(P201)

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by daiouika1967 | 2009-02-21 21:39 | 日記  

2月19日 曇、夜になって雨

9時過ぎ起床。朝食に、玄米、納豆、キャベツ、ニンニクとじゃがいもの味噌汁。
10時過ぎ、家を出る。喫茶店で、小林敏彦『ニュース英語パワーボキャビル+3000語』(語研)、unit9からunit16。2時間。
午後、都倉康行『金融史がわかれば世界がわかる -「金融力」とは何か』(ちくま新書)を読む。238ページ読了。次いで、米原万里『不実な美女か 貞淑な醜女か』(新潮文庫)、100ページまで。米原万里による「通訳論」。
三省堂で、根本敬『真理先生』(青林工藝舎)を見つけ、即買。
夕方、すこし早めに帰り、妻とユニーに行く。昔の赤線地帯を抜けていく。今は寂れた町並みを歩く。
夕飯、ナスの炒め物、豆腐コロッケ、ホタテの揚げ物。
夜、根本敬『真理先生』(青林工藝舎)を読む。193ページ読了。勇気が出る。今日は、はっきりした理由のない、漠然とした不安とともにあった一日だったのだが、読み終えたらそんな寄る辺なさも解消した。
1時過ぎ、就寝。
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by daiouika1967 | 2009-02-21 00:35 | 日記  

2月18日 晴

9時過ぎ起床。朝食、昨日買ってきたいなり寿司と、インスタント汁。
10時過ぎ、家を出る。今日から、小林敏彦『ニュース英語パワーボキャビル+3000語』(語研)にとりかかる。『4000語』の続編。unit1からunit8まで、2時間かかる。
ジュンク堂で、米原万里の著作を4冊買う。『不実な美女か 貞淑な醜女か』(新潮文庫)、『言葉を育てる ―米原万里対談集』(ちくま文庫)、『オリガ・モリソヴナの反語法』(集英社文庫)、『ロシアは今日も荒れ模様』(講談社文庫)。
喫茶店で、米原万里『言葉を育てる ―米原万里対談集』(ちくま文庫)を読む。365ページ読了。対談相手は小森陽一、林真理子、児玉清、西木正明、神津十月、養老孟司、多田富雄、辻元清美、星野博美、田丸公美子、糸井重里。
夕飯、豆腐に納豆、塩昆布をのせて、ぐしゃぐしゃにして食べる。それと、冷凍のぶり大根、白和え、ニンニクとじゃがいもの味噌汁。玄米。
夜、小林敏彦『ニュース英語パワーボキャビル4000語』(語研)を、unit1からunit27まで。テレビを眺めながら、合間に。
妻は疲れているらしく、11時頃には就寝、おれは、パソコンでサイトを周ったりして、2時過ぎ就寝。

米原万里『言葉を育てる ―米原万里対談集』(ちくま文庫)
-「米原:ロシア正教の考え方かロシア人本来の考え方かわかりませんが、才能は神様からもらったもので個人のものではないという考え方があります。私は九歳から十四歳(1960年1月から1964年10月)まで五年間、チェコスロバキアの在プラハ・ソビエト学校に通っていました。(中略)
そこでは生徒が絵や歌、詩の朗読が上手かったりすると先生は心の底から感動し、ときには授業の最中でも教室を飛び出して職員室まで行き、そこにいる先生すべてを呼んできたりしました。そして同様にまわりの子どもたちも一緒に喜ぶのです。才能をもっている人と同じ空間に生きていることを純粋に喜び、そのことを祝福するのです。ですから、その才能と自分とを比較したりは決してしません。つまり劣等感がまったくないのです。足の引っ張り合い、妬みという感情が希薄で、それがすごく心地よかった。だから十四歳のときに日本に帰国したときに、「劣等感」という言葉がやたら飛び交っていて、とても新鮮に感じたくらいです。」(P88)
-「星野博美:日本人は自分の人生の五年先、十年先しか考える習慣がないと思うんですが、彼ら(中国人)は一世紀先のこととか考えているんです。それで今の自分の決断をする。たとえば日本人である私は自分の歴史を三十数年と捉えていますが、彼らは自分がここに到達するまでの近代百年ぐらいを考えている。そういう考え方、視点の違いがあるなと思いますね。」(P172)
-「米原:われわれが、何か言葉を出すときのメカニズムというのは、「本当はまだ言葉にならない状態があって、心の中に言いたいことや考えや感情や、そういったものが何となく形づくられてきて、やっとそれをいいあらわすのに最もふさわしい言葉とか文の形とか、それから言い方、スタイル……といったものがまとまってきて声になって出る」ということなんです。しかし、官僚の書いた文案というのはそのプロセスを経ない言葉なんですよ。感情のプロセスを全然経ない、表面だけの言葉というものには、裏がない。言葉が生まれるプロセスを経ない。もう残骸みたいな言葉なんです。そうすると、そういう言葉というのは相手に入っていかないのよねえ。」(P300)
-「米原:私、通訳していてわかるんだけど、日本の学者はロジックが破綻しているのが多いんです。基本的には羅列型が多いんです。それでヨーロッパの学者は非常に論理的なんです。現実は、世の中そんなに論理的じゃないんですよ。論理というのは何かというと、記憶力のための道具なんですよ。物事を整理して、記憶しやすいようにするための道具。ところが、紙が発達した国は書くから、書く場合には羅列で構わないんですよ。耳から聞くときには論理的じゃないと入らないんです。覚え切れないんです。」(P326)

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by daiouika1967 | 2009-02-19 19:41 | 日記  

2月17日 晴

極寒。冬に逆戻りである。朝、7時過ぎに起床し、妻と病院へ行く。今日は精子を採取されるのだそうだ(妻の意志に沿って受身で動いているだけなので他人事のように書いている)。看護婦さんに案内されて採精用の小部屋に通される。シーツの掛かったソファーがひとつの小さな部屋で、内側から鍵がかけられるようになっている。部屋の隅に小さなカラーボックスが置いてあり、数十冊のエロ本が入っている。そのうちの数冊、美人妻がどうたらこうたらというのを選んで、マスターベーション。10分くらい集中して、指定されたカプセルに射精する。精液の入ったカプセルを紙袋に入れ、ナースステーションに持っていき、それでおれの役割は終了である。妻の卵子の採取は、ずっとたいへんで、麻酔をかけての「手術」をしなければならない。おれはその間、与えられた個室で、ソファーに寝転んで、うつらうつらした。なんだか体が重い。早起きしたのと、寒さがぶり返したのと、花粉症と、軽い寝違いとがあいまって、頭がぼおおおっとする。「手術」を終えた妻が、個室に帰ってきて、点滴を打ちながら、麻酔が切れるまで、約1時間強。1時過ぎには病院を出た。
名駅まで歩き、高島屋のグルメフロアに昇り、さんるーむに入る。昼食に、柚子そばセット。地階でわさび入りいなり寿司とギョウザを買って帰った。
午後、3時前頃家に着き、暖房をかけ、ホットカーペットの上で妻とごろんとする。そのままうつらうつら。おれは6時過ぎに目が覚め、ぼおおおおっとした頭のまま、パソコンに向かい、すこし仕事をする。
9時過ぎに妻も目を覚まし、夕食にする。いなり寿司とギョウザ。
ぼおおおっとテレビを眺め、1時前就寝。

亀山郁夫・佐藤優『ロシア 闇と魂の国家』(文春新書)
-「亀山:ロシア人は、何事も一からはじめなければ、気がすまない民族である。だから、つねに終わりを予感している。ロシア人にみられる「終わり」の感覚は、一方において、時代を超え、非歴史的な時間のなかに生きたいという、ユートピア主義の誕生にあずかった。ロシア的霊性とは、ユートピアへの志向と大きく重なり合っている。そしてそれをロシア人の信仰生活に求めるなら、おそらく次の三つのモメントが挙げられる。
一.ロシア正教が多くの点で、異教(汎神論)の名残を留めていること。これはキリスト教信仰に、一種の大地信仰的な野性味を加えたとみられる。
二.ロシア人の信仰生活の根幹に横たわるケノーシスの理念。しばしば指摘されるように、ロシアの信仰生活にとって大きな礎となったのは、「おのれを無にして奴隷の姿をとった」キリストに対する崇拝、すなわち「ケノーシス」信仰である。亡命したロシアの哲学者ウラジーミル・ヴェイドレの言葉を借りれば、この「ケノーシス」にこそ、「ロシア精神の最も自発的な衝動と、もっとも深い直観、つまり神に見られる無限の屈従能力の直観が現れている」。わたしは、むしろここに、自己犠牲に対するロシア人の特別な能力を想定してみたい誘惑にかられている。
三.ソボールノスチ-。ソボールノスチとは、「大聖堂(ソボール)」の語源から明らかなように、イエス・キリストの神秘的な身体のなかで、すべての信仰者が一致結合する状態を意味する。」(P21)
-「亀山:国家というのは、ネス湖の怪物みたいなもんです。ふだんは絶対に姿が見えない。ところがある瞬間に、恐ろしい姿を自分からさらけ出す。佐藤さんが実感なさったのも、まさにそれでしょう。『国家の罠』を読んだ読者が、身につまされたのは、国家という、目に見えないグロテスクな怪物です。しかし、その反面、国家ないし国家権力に対する恐怖というのは、内在化された、個人レベルでの恐怖でもあるんですよ。いや、感受性、想像力の問題といったほうがよいかもしれない。恐怖はあくまで感じる主体にあるわけですから、国家が無前提に怖いということはありえない、とぼくは思っています。しかし、感じる主体が恐怖にかられるには、どこかにトラウマがあるからです。トラウマは、パラノイア的な恐怖を生み出していきます。」(P162)
-「亀山:問題は、というか敵は自分のなかにひそんでいたんですよ。人から疑われるということは、なかば必然的に、自分に罪があるような気に追い込まれる。ぼくの場合、「本当に自分はスパイじゃないのか」と自分を疑いはじめるということがありました。こういう原罪意識が働くことがとても怖いことです。」(P168)
-「亀山:1917年のロシア革命も、けっして民衆全体の共感を得られていたわけではなかった。ボリシェヴィキという少数左派による、ある意味で、特権的な革命運動でした。むしろ、民衆が持っている、全体的な一体性の中に生きる、全体の中で一であることによって個人の一が完成するという、まったりとした有機的な一体性を壊すものとしてロシア革命は存在していました。ぼく自身は前にも述べましたが、ロシアにおける幸福追求の形式には、二つのタイプがあったと考えている。それは、「熱狂」と「ユーフォリア」です。熱狂の語源は、「神のなかに入る」、つまり、エン・トスです。そして、そこにおける分子、つまり人間ですが、その精神運動が灼熱した状態を意味しています。それに対して、ユーフォリアは、同じ神のなかに入りながらも、分子運動が停止し、一種のエントロピーに入った状態の幸福をいうわけです。その二つの幸福の在り方への希求が激突したのが、1881年のアレクサンドル二世暗殺であり、ロシア革命であったわけですが、結局のところ、ロシア革命の為政者たちは、その二つの幸福の共存と、分子としての人間のユーフォリックな一体性の再生という方向に否応なく突き進まなければならなかった、その再生を最終的に完成したのがスターリンだったと思うわけです。
それゆえ、スターリンによる粛清の対象となった人々は、民衆の論理とでもいいましょうか、有機的な一体性を守ろうとする、民衆の巨大なメンタリティーの復讐に出会って抹殺されていったという解釈もありうるでしょうね。」(P183)
-「佐藤:われわれ日本人がロシアから学ばないといけないのは、「魂」の回復です。つまり、個々の「魂」によって世界を構成し、自分の魂に映る世界像についてきちんと話す。同時に、ほかの人が話す世界像について最後まで聞く。この集積が大事なのです。ところが、今の日本では、自分の魂に基づいて、責任をもって語るインテリも政治家もいなくなっている。ステレオタイプの感覚で世界を把握しているから、ステレオタイプから少しでも外れる他人の世界観を最後まで聞くことができない。ちょっとでも異質のものを見ると排除したいという欲望が働く。魂がこのように弱ることで、日本自体が弱ってきているのです。」(P221)

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by daiouika1967 | 2009-02-18 19:42 | 日記  

2月16日 晴

土、日と春みたいに暖かかった。部屋にいても、暖房はいらなかった。久しぶりに窓を開けて、雲が流れるのを眺めたりして過ごした。ぼんやりと、自分の来歴、というか、自分がいままで経験したことの“総量”について、想いを馳せてみる。おれは今41歳だから、41年生きてきたわけだが、これを日に換算すると約1万5千日になる。たいした数量ではない。数えれば数えられる程度の数量でしかない。あるいは、そのすべてを思い出そうとすれば思い出せるのではないか。そしてじっさいに思い出してみれば、その記憶のひとつひとつは、等身大の、どうってことのない経験であるにすぎないのだろう。“たった”、1万5千日の、あたりまえの経験。おれは、この“貧弱”な材料から、自分を拵えているわけだ。「だから、なに?」と問われると、べつになんでもない。ただ、自分が、そして、ひとりひとりの人すべてが、いかに限定されたものでしかないのか、そのことを想うと、なんだか奇妙に開放的な気分になった。
今日は、土、日とは打って変わって、冬に逆戻りしたような寒さになった。9時過ぎ、起床。朝食に、フランスパンにチーズを乗せて焼き、キャベツのサラダといっしょに食べた。午前中、喫茶店で、小林敏彦『ニュース英語パワーボキャビル4000語』(語研)。1時間半。
ジュンク堂で、亀山郁夫・佐藤優『ロシア 闇と魂の国家』(文春新書)、倉都康行『金融史がわかれば世界がわかる』(ちくま新書)を買う。
午後、亀山郁夫・佐藤優『ロシア 闇と魂の国家』(文春新書)を読んだ。248ページ読了。
夕飯は、パスタ。妻がベビーリーフをのせたペペロンチーノを拵える。ニンニクオイルが活躍。美味い。夕食後、ドルチェ。チョコレートケーキ。
夜は、妻が借りてきたDVDを眺めて過ごす。韓国映画『光州5.18』。1980年韓国で起こった光州事件を映画化したもの。登場人物の描き方、演出には文句があるが、こうした実話をベースにした政治ドラマは、物語の次元ではやはりおもしろく、観ていて退屈することはなかった。次いで、『クローズド・ノート』。沢尻エリカの「別に」騒ぎで有名になった映画である。これは、うううん、ちょっとしんどいか。ところどころ、光の捉え方なんか、気持ちのいいカットはあるのだが、行定勲監督、やはり物語の作り方が安易に過ぎて、なおかつその語り口が大向こうに媚びていて、観ていてしらけてしまう。
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by daiouika1967 | 2009-02-17 20:37 | 日記  

2月13日 曇、夜になって雨

9時過ぎ起床。朝食に、玄米を明太子で。昨日の残りの大根の味噌汁。10時過ぎ、家を出る。朝、喫茶店で、小林敏彦『ニュース英語パワーボキャビル4000語』(語研)。コーヒーが旨い、ということは、体の調子がいいということだ。思いっきりとばし、1時間半まで圧縮できた。
午後、『中央公論』を読み、次いで、佐藤優『テロリズムの罠 右巻 ―忍び寄るファシズムの魅力』、『テロリズムの罠 左巻 -新自由主義社会の行方』(角川ONEテーマ21)を読む。
夕飯はカレー、食後にチョコレートケーキ。チョコレートケーキは美味いがヘビーだった。食べ過ぎた。
夜、1時過ぎ、就寝する。

佐藤優『テロリズムの罠 右巻 ―忍び寄るファシズムの魅力』(角川ONEテーマ21)
-「マルクスの『資本論』の論理では、商品は共同体と共同体の間から生まれる。そして、商品交換の便宜から貨幣が生まれる。貨幣は商品の一つに過ぎないにもかかわらず、特殊な性質を帯びることになる。貨幣はいつでも商品に交換することができるが、商品はいつでも貨幣に交換できるとは限らないからだ。しかし、資本主義システムは、商品が常に貨幣に交換可能であるという擬制によって成立している。擬制は擬制である。いつか崩れることになる。資本の過剰によって、商品がふんだんにあっても、それを誰も買うことができない恐慌の恐れを常に資本主義システムははらんでいる。」(P116)
-「例えば2007年に定年退職したサラリーマンが退職金の5000万円を、定期預金の利率が低いので、銀行の信託投資に預けたとする。2008年のサブプライム危機、リーマン・ブラザーズの破綻を受けて、原価が3000万円に目減りしてしまった。生活設計がくるった老夫婦での今後の生活に不安を感じても、自らの力で解決することができない。これが疎外された状況なのである。疎外された状況から不安は生まれる。」(P132)
-「資本、労働力商品、地代、貨幣などの資本主義的生産様式によって出現するすべての事象は、宗教的信仰によって成り立っているのだ。」(P161)
-「人間も資本主義社会も、普段は意識しないが、不安の上に存立している。危機的状況に直面すると不安の姿が見えてくる。不安に耐えることができない人々は、テロルによって不安を一気に解消しようとするが、それは不可能だ。テロルが自らに向けられれば自殺になる。テロル、自殺は、不安に対する偽りの処方箋だ。
不安に対するもう一つの偽りの処方箋がある。国家を強化する運動に自らを埋没させることで、不安を解消しようとするファシズムの道だ。人間の解放は、暴力装置である国家に依存することによってではなく、人間によってかちとられる必要がある。国家ではなく、人間と人間が相互に依存する社会(共同体)の力によって、不安は解消されるのだ。」(P177)

『テロリズムの罠 左巻 -新自由主義社会の行方』(角川ONEテーマ21)
-「国家とは抽象的な存在ではない。官僚によって運営される実体をもった存在である。官僚は、社会から、税という収奪を行なうことによって生きている。この収奪が可能になるのは、国家が究極的に暴力によって支えられているからだ。国家と社会の関係は基本的に対立している。それならば、国家を除去して、社会だけを自立させることができるように思えるがそうではない。国家は必ず複数存在し、他の国家を征服、あるいは従属させて、収奪することを常に狙っているからだ。したがって、外部の国家と対峙するとき、国家は自らの社会を主観的にも客観的にも擁護する立場をとる。一つの国家・社会から国家を除去すれば、その社会は他の国家の餌食になるだけである。それだから無政府主義者によって統治される領域が、現実の世界には出現しないのである。
しかし、原理的に国家がなくても社会は存在するが、社会なくして国家が存在することはない。このように国家と社会は、非対称の存在なのである。」(P42)
-「資本主義的な経済主体は、その本質において国家の庇護を必要とする。新自由主義が称揚したグローバル資本主義が、東西冷戦後の唯一の超大国である米国と結びついたのは、当然のことだ。
新自由主義による市場原理主義は、森羅万象を商品にする傾向がある。そして、金融派生商品という実体経済から著しく乖離した投機に新自由主義は流れていった。このような賭博経済がいつか破綻することは明白だった。そして、2008年9月の米国証券会社リーマン・ブラザーズの破綻でそれが現実になった。その後、第二次世界大戦後初めての不況が世界を覆っている。各国は国家機能を強化することで、危機から抜け出そうとしている。
しかし、新自由主義において、人びとが固体に分断されてしまったために、民族や国民としての連帯感が希薄になった。(中略)
日本社会が内側から崩れ、弱体化しつつある。日本社会が弱体化すれば、当然、日本国家も弱くなる。そして、国家・社会の弱体化とともに、国民が何かに対して苛立ちを感じ、怒っている状況が続いている。」(P233)

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by daiouika1967 | 2009-02-14 23:24 | 日記