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3月30日 晴

今日で3月も終わりである、と書いているのは31日の夜。昨日は何してたっけ?……そうそう、なぎら健壱『日本フォーク大全』(ちくま文庫)を読んで(これはいい本だった!)。それから。ううん、なんだろう、今日はなかなか思い出せない。……ああ、そうだそうだ、最近のライ・クーダー、クラウン時代の細野晴臣を聴いて。あ。そういえばたくさん歩いたな。歩きながら、音楽を聴いてたんだ。上前津まで歩いて、古本屋に寄って。海星堂で、ゼイディー・スミス『ホワイト・ティース』上・下(小竹由美子訳 新潮社クレストブックス)が100円で売ってたんで、それと、ついでに飯塚恒雄『カナリア戦史』(愛育社)を買ったな。そう、そんな感じで一日が終わったんだった。
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by daiouika1967 | 2009-03-31 22:32 | 日記  

3月29日 晴

朝8時頃飼い猫のPに起される。眠気をこらえて起床、Pのトイレの猫砂をチェックする。数日前からネットの懸賞で当たった猫砂を使っているのだが、この猫砂、おしっこをすると、猫砂が固まってしまう。それが売りの商品らしいのだが、うちのトイレの場合、おしっこはそのまま砂を通過し、下に敷いてあるシートに吸収される仕組になっているので、猫砂は固まらない方がいい。固まると、Pがおしっこをするたびにいちいち片付けないといけない。猫砂には、砂の塊が二個あった。二回、大量のおしっこをしたらしい。Pは傍に座って、おれが片付けるのをじっと待っていた。片付けるなりすぐにトイレに入り、大量のうんこをした。おしっこの砂があったので、排便を我慢していたのだろうか。デリケートな猫である。

うんこを片付けていたら、目が覚めてしまったので、二度寝するのをあきらめ、パソコンに向かった。日記をつけ、WEBを回遊し、そうしているうちに昼近くになり、妻も起きてきた。
昼飯にトースト、一枚はチーズをのせて、一枚はコロッケをはさんで。レトルトのかぼちゃスープ。食後はホットカーペットに横になり、テレビを眺めて過ごす。「たかじんのそこまで言って委員会」を見て、すこしうつらうつらし、「相棒」の再放送を見て、すこしうつらうつらして、そうしているうちにあっというまに夕方。
妻と名駅に買い物に行く。クリーニングを出して、帰りに高島屋のデパ地下で餃子とシュウマイを買って帰る。
夕食を済ませ、夜。
9時から、DVDで桑田圭介『ひとり紅白歌合戦』を観る。桑田圭介が昭和から平成にかけての歌謡曲、ニューミュージックの名曲を60曲、歌い上げる、ひとりで紅白歌合戦を演じるという趣向のコンサートである。いや、楽曲が懐かしいということもあるが、桑田圭介がやっぱりすごい、あたりまえだが歌がうまいなあ、と感じ入る。一曲、桑田自身の楽曲「現代東京奇譚」が入っていた。いい歌だ、と、素直に感動する。
たまたまだがちょうど9時から観始めて、12時に観終わった。

私的メモ。
物語に入るための、視点、声の設定。
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by daiouika1967 | 2009-03-30 19:37 | 日記  

3月28日 土

昼過ぎ、家を出て、借りていたDVDを返しに、ゲオまで歩く。ついでに隣のブックオフに寄って、森敦『われ逝くもののごとく』(講談社文芸文庫)を見つける。迷ったが、買うことにする。ついでに、関川夏央『昭和が明るかった頃』(文春文庫)、あと、講談社の現代の文学シリーズ37『黒井千次、清水邦夫、小川国夫、後藤明生』が100円だったので、合わせて買う。

伏見まで歩き、喫茶店で、萩原健太『ロック・ギタリスト伝説』(アスキー新書)を読む。おれはここで取り上げられている楽曲を聞き込んだことはないが、著者である萩原健太の強い思い入れは伝わってきて、読んでいるとその情熱に感染して改めて聴いてみたいなという気分になる。

夕方から、名駅の居酒屋で、仕事の打ち合わせ。半分は雑談で、11時前まで。
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by daiouika1967 | 2009-03-29 11:15 | 日記  

3月27日 晴

朝、8時過ぎに目が覚め、朝食前の二時間、内山節『怯えの時代』(新潮選書)を読んで過ごす。

近代社会においては、享受できる消費量の拡大が、現在は過去より進歩している、未来は現在よりマシなものになるだろう、という信憑を生んできた。現在ではもはや「量の拡大による幻惑」は機能しなくなってしまった。そこに「現実」が露呈する。
―「現代人は確かに自由なのだと思う。もちろん世界のさまざまなところに、自由を圧殺された人々がいることを私は知っているし、それが国内問題であることも知っている。しかし、あえて私は現代人は自由だという。なぜなら現代の自由は、現実を受け入れる他なかった喪失の先に現れてくる自由でしかないからだ。私たちには携帯でメールを打ちつづける自由がある。テレビのチャンネルを思うがままに変える自由がある。今日の夕食を好きなように決める自由がある。ただしそれは携帯電話がつくりだしたシステムを受け入れることによってだ。テレビというメディアを受け入れることによって、だ。サイフの中身という現実を受け入れることに、よって、だ。
現実を受け入れないかぎり自由を手にすることもできないという包囲された世界のなかの自由が、私たちにはある。そして現実を受け入れたとき手にしなければならないもうひとつのものは、喪失。その代償のもとに獲得されたのが現代人の自由。」(P9)


あらゆる領域で起こっている「自己完結化」。富の自然な還流が寸断され、各々主体の部分的な最適化が、全体を瓦解させるように作用する。そのようなシステムが現代の世界を覆っている。「経済成長」という全体量の拡大は、そのシステムの矛盾を緩和しつづけてきたが、それが不可能になりつつあるのが「現在」である。
―「経済の総過程と個別経営体の行動が対立的な関係になることを解消できなかったとき、つまり個別経営体の活動が経済の総過程を破壊する方向で機能するようになったとき、資本主義もまた計画経済を導入し、すべてを統制下に置く他なかった。
だからこの方法は、部分的にはつねに採用されている。フランスでは鉄鋼、自動車などの主要産業の国有化が戦後長く続いていたし、どこの国でも、金融危機が発生すれば、銀行を事実上国の管理下に置くという政策もしばしば行なわれてきた。そして部分的な統制経済ではすまなくなったとき、社会は戦時体制に移行してきた。このような事態を生みださざるをえない原因は、経済の総過程と個別経営体が違う原理で動く、というところにあったのである。この両者が共存可能に展開している状態が「平時」の経済であるとするなら、それらが敵対的な関係になるのが恐慌時である。
とすると「平時」の経済を持続させるには何が必要なのであろうか。そこに経済成長という課題がでてくる。つまり、経済全体の総量が拡大しつづけることによって、個別経営体も自己を拡大させながら経営の安定が計れる体制が形成し得たのである。逆に言えば、全体が縮小するとき、個別経営体は自己を守ろうとして人員整理や融資の削減、契約の見直しなどをすすめ、それが全体経済をさらに破壊していくという現象を生みだす。
こうして資本主義には、拡大しつづけることが正常な状態であるという仕組が生まれた。」(P67)

「拡大しつづけることが正常な状態である」という資本主義の在りようは、私たちの自然な身体感覚と共鳴し得るものではない。
―「私たちの身体感覚からすれば、経済成長率がマイナス1、2パーセントになったところでどうということはない。経済のなかにはバブル的な部分がつねに内在しているのだから、むしろそれらが削減され、落ち着いた社会が生まれていくことは歓迎してもよいくらいである。GDPが半分くらいになっても、そのことによって自然の豊かさを感じながら、時間的な余裕に満ちた文化的な暮らしができるのなら、現在のような時間に追われながら多消費に巻き込まれていく暮らしよりいい、と考える人もいるだろう。実際個人の選択としては、そのような方向を選び、農山村などに居を構える人も数多く生まれている。
だが私たちの身体感覚としてはそれでよくても、資本主義経済としてはそれでは困る。なぜなら経済の拡大が止まるとき、根本にある矛盾が噴き出してしまうからである。しかもそれは多くの人々の労働や生活をおびやかしてしまうことになる。
結局市場の自律的機能をとおして、経済の総過程と個別経営の行動を調整しようとすれば、経済成長に頼るしかなく、そこに対立が発生すればまずは部分的に統制経済を導入し、それでもすまないときは戦時経済に移行させるというかたちで、資本主義は展開してきた。」(P68)
―「二十世紀後半に入ると、経済の中心軸が生産から流通に変わってきた。それはこれまでも多くの人から語られてきたことだ。そこから商業資本主義の時代とか、金融資本主義の時代といった言葉が、私たちの耳にも届けられてきていた。
だが問題は、流通が軸になったとか金融が軸になったというところにあるわけではない。流通と生産の関係が断絶し、あるいは金融と生産の関係が断絶し、流通や金融の発達が生産の劣化を促すようになってしまったことに、現代資本主義の問題がある。経済活動の相互性や連続性が失われ、流通や金融が自己完結型の利益追求をめざすことになったことが、経済規模は拡大しても、経済社会は劣化するという現象を生み出してしまったのである。
このような現実の上に今日の国際金融市場の問題が発生した。目標に置かれたのは、あからさまな自己の利益だけ。企業も土地も、資源や作物も、さらに国家や「貧乏」さえも自己の利益の手段にしながら食い逃げしていく。そんな時代が形成された。このかたちを「グローバルスタンダード」だと言って賞賛した人々は、何と恥知らずな人間だったことだろう。そんな人々は、自分が金以外は信じない低俗な文化のなかで生きていることを宣言したようなものだ。
課題は経済の相互性をやつながりを回復できるかどうかにあると言ってもよい。それができなければ、金融をふくめた流通の自己完結的な暴走をとめることはできない。」(P92)


近代資本主義社会は、共同体を破壊し、バラバラになった個人を、貨幣-国家によって再統合するシステムであった。従来の共同体が破壊されるとともに、その基盤として保たれていた自然と人間との「結び合い」もまた失われることになる。
―「近代社会は、資本主義、市民社会、国民国家が相互的に展開していくシステムとして形成されている。なぜそれらが相互性をもちうるのかといえば、資本主義も、市民社会も、国民国家も、個人を基調としたシステムとして形成されていたからである。
資本主義は「自由な労働力」の誕生とともに成立した。「自由な労働力」とは、生活のために自分の意志で、自分の労働力を労働市場に投げだし、労労力の買手を探す個人のことである。何かに強制されてそうするわけではない。生きていけるのなら、自分の労働力を売らなくてもよい。あくまで、売るか売らないかは自由意志なのである。しかし、多くの人は生きていくためには売らなければいけない。そういう「自由な個人」の大量出現によって、必要労働力をつねに確保できるようになったこと、それが資本主義の成立に不可欠であった。そして、そのようなものだから、企業は購入した労働力をまるで消耗品のように、まるで部品のように扱うことができた。象徴的なのは、今日の派遣社員やパート、契約社員たちである。彼らも「自由意志」でそこに勤めた個人である。だが企業にとって彼らは、いつでも解雇でき、いつでも取り替えられる消耗品でしかない。
そしてこのかたちをつくりだすためには、人間が共同体とともに暮らす結ばれた人間であってはならなかった。自分の労働力の買手を探す「自由な労働力」でなければならなかった。
だからこそ近代市民社会が共同体世界を解体し、「自由な個人」の社会としてつくられたことは、資本主義にとっても好都合であった。さらに個人の社会をつくりだしてしまえば、その個人を支えるものは、とどのつまり収入であり貨幣である。精神的にはたとえどんなに嫌おうとも、現実の生活のなかでは人間は貨幣の虜になっていく。貨幣が「神」の地位を築いていくのである。市民社会と資本主義は、こうして相互的に結び合う構造をつくりだした。
国民国家もまた同じだった。それはすべての人間を「平等な国民」としてバラバラにし、国家システムで統合していく仕組である。それは国民管理の方法でもあり、またバラバラにされているがゆえに国家システムによる保護を国民自身も必要とするようになった体制である。年金制度にいくら不備があっても、個人となった国民はこの年金制度に頼らざるを得ないように。
このようにみていくと、資本主義、市民社会、国民国家は、人間が個人として生きるという共通の基盤の上に成立していたことがわかる。だからこそこの三つのシステムは相互的であり、親和性をもっていた。」(P120)

―「私たちは単なる個人ではなく、共同体とともに、自然とともに、すなわち他社との結び合いのなかに生きているなどといってしまったら、近代世界の基本的な構図がこわれてしまうだろう。近代の航海図は「自由な個人」の可能性や希望に満ちた未来を謳い上げる他なかった。
今日では、この近代の航海図に記載されていなかったものが、私たちの課題として現れてきた。自然の問題はもはや無視しえなくなった。世界のさまざまな風土や文化を尊重しなければ、私たちは平和をえることもできなくなった。そして、個人として生きる社会の限界が見えてきた。
ところが、それらこそがこれまでの社会の発展の原動力だったのである。自然は無限に存在するものと仮定したからこそ、経済の発展に邁進することができた。世界の均一化をすすめながら、効率のよい社会をつくってきた。個人の社会は資本主義の基盤を提供し、そしてこの体制のもとで私たちは、気儘な「自由人」でいることができた。
そして、だから問題は深刻である。私たちに「発展」と「自由」を与えてきた原理が、私たちの未来を閉じさせている。つまり、私たちが未来をつかもうとすると、近代社会の原理や構造が今日の問題を生み出した原因として現れてきて、しかもこの仕組のなかで暮らし、「自由」を得てきたわれわれの存在が問われてしまう。だがそれを問わなければ、壊れていく社会のなかで漂流する自分をみいだすことになるだろう。何かを喪失したことを感じながら手にした自由や、何かに飲み込まれ、何かからはきだされていく自己をそのときみいだしながら。」(P123)


午後、ジュンク堂で、スチャダラパー『ヤングトラウマ』(TOKYO FM 出版局)、萩原健太『ロック・ギタリスト伝説』(アスキー新書)を買う。
喫茶店で、コーネリアス『POINT』『SENSUOUS』、ボアダムズ『スーパールーツ10』など聴きながら、スチャダラパー『ヤングトラウマ』(TOKYO FM 出版局)を読む。
スチャダラの三人が「幼少時から影響を受けてきたものについて語りまくる」という本。アニはおれと同年だし、三人ともほぼ同世代。ネタに挙げられている固有名のイチイチに深く共感しつつ、読んでいるうちに、だんだんと多幸感が湧き上がってくる。
固有名の一部を列挙すると、ビートたけし(オールナイトニッポン)、ドカベン、藤子不二夫、薬師丸ひろ子、角川映画、ドリフ、『THE MANZAI』、『おれたちひょうきん族』、歌謡曲、宝島、ナゴム、ゲームウォッチ、任天堂、『ふぞろいの林檎たち』、ラジカル・ガジベリビンバ・システム、ワハハ本舗、アフリカ・バンバータ、ランDMC、ビースティ・ボーイズ、『ポパイ』、根本敬、みうらじゅん、久住昌之。……

夜、DVDで井口昇監督『片腕マシンガール』、そして『ダークナイト』とつづけて観る。どちらもおもしろかったが、『ダークナイト』を観ている途中くらいからものすごく眠たくなり、眠気と戦いながらの鑑賞だったので、あまり覚えていない。もったいない。再度観ることにしよう。
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by daiouika1967 | 2009-03-29 11:00 | 日記  

3月26日 晴

昨日買ったCDを片端から聴きながら、ミルチャ・エリアーデ(聞き手:クロード・アンリ・ロケ)『迷宮の試練 -エリアーデ自身を語る』(住谷春也訳 作品社)、残り半分を読む。
<神話的思考>をめぐるちょっとした言葉の端々に深い洞見が感じられる。
―「原始的人間にとって、動物はそこに、世界の中にいる、それは所与です。一方食用になる植物、穀物、それは所与ではなく、世界の始まりから存在していたのではない。労働と魔術で収穫を創造したのは人間です。(中略)人は血の供犠を通して生贄のエネルギーを、<生命>を、自分が創造しようと望む作品に投入します。」(P82)
―「そうして、まことに、私に災厄と見えるもの、それが怨念でした。それは創造力を麻痺させ、生活の質をなくすものです。怨念の人は、私からすると、生命を活用しない不幸な人です。その生活は抜け殻のようなものです。」(P129)
―「もっともテクノロジカルな文明においてすら、変わりえない何かがあります。昼と夜、冬と夏があるのですから。樹木のない都市においてすら、天体のある空があり、常に星と月を見ることができます。昼と夜、冬と夏がある限り、人間は変わりえないであろうと私は思います。われわれは、望まずして、この宇宙のリズムに統合されているのです。」(P155)
―「人間は自分の条件が生存のための殺害を要求することを学んだだけはなくて、植生の、その永続の責任を引き受け、そのために人間の供犠とカンニバリズムを引き受けたのでした。生命は殺害によって保証されるという観念、数千年にわたって人類の大きな部分のものであったこの悲劇的な観念を、いいですか、人類学の上で記述するだけでなく実存的な形で理解しようとすれば、それ自身やはり悲劇的な一つの経験に携わることになります。宗教史家と宗教現象学者がこれらの神話や儀礼を前にするときは、外部の対象―解読すべき古文書や分析すべき制度―を前にするのとは違います。その世界を内側から理解するためにはその世界を生きなくてはなりません。それは、俳優が役の中に入り、それを引き受けるようなものです。」(P159)
―「宗教現象は実存的状況を表現します。あなたは解読しようとするその現象に参加するのです。」(P160)
―「農業という技術的発見を通して、狩人が直面していたのよりもいっそう深い<神秘>が人間の意識に啓示されます。宇宙は生きたオルガニズムであり、それは生命があるリズムに、深く必然的に死とつながるサイクルに従っていることを発見します。種は死ななくては再生できないのですから。そうしてこの技術的発見は人に自分の存在様式を明かします。<人は野の草のようなもの>やその類の比喩、『旧約聖書』や現代の私たちにまで使われる比喩が生まれるのは新石器時代です。植物のはかない性質を嘆くものではなく、楽天的なメッセージとして理解しなくてはならないテーマです。植生と生命の永久周回の理解……。」(P174)
―「原始人にとって、同様に伝統的社会の人にとって、外部世界の物は自立的な固有の価値をもちません。モノあるいは行為はある価値を獲得し、そうすることによって現実となります。それらを超越する実在性になんらかのあり方で参加するからです。だから、私が『永遠回帰の神話』の中で示唆したように、アルカイックな存在論にはプラトン主義的な構造があると言っていいでしょう。」(P187)
―「実在する、かつ意味のある世界という意識は聖の発見と親密に結ばれています。実在の、強力な、豊かな、意味のあるものと、こうした美点を欠いたもの、すなわち事物の混沌とした危なっかしい流動、それらの偶発的で無意味な出現消滅との違いを、精神は聖の経験を通じて把握したのです……。でもさらに聖は意識の歴史上の一段階ではなく、その意識の構造の中の一要素だという点を強調しなくてはなりません。文化のもっともアルカイックな段階では、食料摂取、性生活、労働は秘蹟的な価値をもちますから、人間として生きることそれ自体が一つの宗教的行為です。聖の経験は人間の世界の中における実在の仕方に内在しています。実在のもの―およびそうでないもの―の経験なしに人間は自分を組み立てようがありません。」(P198)
―「神話の物語るのは聖なる歴史、すなわち時間の始めに起こった始原の事件で、その登場人物は神々と文化英雄です。神話が絶対的真理を創設するのはこのためです。ある真実がいかにして存在することになるかを啓示することで、神話だけでなく、食料摂取、性別、労働、教育など、意味ある人間活動すべてのモデルを神話が構成するのはこのためです。それ以来、人間は日常の動作において神々を真似し、神々の行為をくり返します。」(P201)


午後、丸善で、坪内祐三『人声天語』(文春新書)、内山節『怯えの時代』(新潮選書)を買う。
喫茶店で、坪内祐三『人声天語』(文春新書)を読む。「文藝春秋」に連載された時評、2003年6月から2008年12月までの分がまとめられている。時評といっても、とくに“一般的にアクチュアルな話題”ばかりが選ばれているわけでもない。「天声」のように「客観をよそおわない」と冒頭で書かれているとおり、ひとりの中年の男が生きているという、その身体性、反射神経が感じ取られ、声が聞こえてくる。それで、その人と会って話しているような感じで、読みに没頭することになる。
夜も読み継ぎ、読了する。
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by daiouika1967 | 2009-03-28 11:46 | 日記  

3月25日 晴

昼、県立図書館まで歩く。頭が重く、しばらくソファーで『ユリイカ』の諸星大二郎のインタビューなど読みつつ、なんとか時間をやりすごす。一時間くらいで図書館を出て、伏見経由で名駅まで、1時間ほど歩いていたら、体調が回復してきた。喫茶店で、坂本龍一、坂本龍一セレクションのグレン・グールドなどを聴きながら、リン・ディン『血液と石鹸』(柴田元幸訳 早川書房)を読む。読了。

ジュンク堂で、ジャック・ロンドン『火を熾す』(柴田元幸訳 SWITH LIBRARY)、ミルチャ・エリアーデ(聞き手:クロード・アンリ・ロケ)『迷宮の試練 -エリアーデ自身を語る』(住谷春也訳 作品社)を買う。エリアーデのインタビューは、さっき図書館で読んだ雑誌で、坪内祐三が紹介していた記事を読んで、「あるかな?」と捜したらあった。エリアーデのような、「博覧強記」タイプの学者の、自伝的な語りを読むのが、おれは好きなのだ。
喫茶店に入り、さっそく読み始め、半分くらい読み進む。

中古CDショップ69に寄り、「新着」のコーナーで、デビッド・バーン『グロウン・バックワーズ』を見つける。リン・ディンを読んで、ちょうどトーキング・ヘッズが聴きたいなと思っていたところだった(リン・ディンのような小説は「何か」に似てるな、と考えていて、それがトーキング・ヘッズやローリー・アンダーソンの詩に似てるんじゃないか、と気づいたのだった。彼らの「歌」を聴きながら、おれは「小説」を読むときと同じ刺激を受けていたんだな、と考えていた)。
さらに、スクリッティ・ポリティ『キューピッド&サイケ85』を見つける。すべてのディティールを記憶するほど聴き返した名盤だが、パソコンに入れておいたデータをとばしてからは買いそびれていた。さらにトーマス・ドルビー『ザ・フラット・アース』、デヴィッド・シルヴィアン『ゴーン・トゥ・アース』と、おれの80年代魂に訴えかける名盤を重ねて見つけ、ううん、たまにこういうことがあるから中古屋めぐりはやめられない。勢いがついて、『子門真人ヴォーカル・コンピレーション ―TVサイズ・コレクション』、エイフェックス・ツイン『ドラッグス』も合わせて、6枚購入してしまった。69は安いので、支払いは、6200円で済んだ。

夜、DVDで是枝裕和監督『歩いても 歩いても』を観る。阿部寛、夏川結衣、樹木希林、原田芳雄、YOU他。十数年前に死んだ長男の命日に、阿部寛、YOUの兄弟が、それぞれの家族とともに、実家に里帰りする。どうやらこれは毎年の行事になっているらしい。映画は、ほぼ全編、その一日の家族の様子を描写して終わる。
母親の樹木希林と娘のYOUが料理を作る場面から、映画は始まる。その料理を拵える包丁さばきがアップで映し出され、その映像がじつに「美味しそう」だったので、最初から映画の流れに引き込まれた。その手作業の丁寧な描写を見ていると、日々習慣的に繰り返される料理のような営為が家族の生を支えているんだな、と自然にそんなふうに思わせられる。

親子、兄弟、親戚といった多様な対の関係が絡み合い、しかし矛盾や葛藤を渾然と同居させたまま、平然とその日常を成立させている。
家族というのは、そのような「渾然とした雑多」として存在している。シリアスなこと、根源的なことに、いい加減なこと、そこでしか通用しないヘンなことなんかが同じだけ混ざって、その総体で家族というもののリアリティができあがっている。
いわゆる「ホームドラマ」では、ひとつか、せいぜいふたつみっつのドラマをはっきりと語るために、その「渾然とした雑多」を、わかりやすく整理してしまうものなのだが、それでは家族のリアリティは損なわれてしまう。
この映画では、例えば、原田芳雄と阿部寛の親子が確執がヒートアップしそうになるところで、遊びに出ていた子供たちが帰ってきて、そのにぎやかさのなかに言い合いの言葉が紛れてしまったりするのだが、そんなふうに、ひとつのドラマのシークエンスがカタルシスに達することなく、現実の多様性のなかに解消されてしまうようなぐあいに場面がつづいていて、その時間の流れのなかに家族のリアリティがしっかりと汲み取られている。
それはすべてが曖昧に過ぎてしまうということを意味してはいない。現実の家族での体験がそうであるように、そこでは、ドラマとしては発展することのない、小さなディティールのひとつひとつが、とても強い意味を帯びて、観る側に迫ってくることになるのである。

それにしても夏川結衣はいい女だなあ……
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by daiouika1967 | 2009-03-27 01:21 | 日記  

3月24日 晴

今日もまた風が強く、すこし肌寒い。夜、初対面のスポンサーに会うので、スーツを着て出かける。高橋幸宏、坂本龍一、HASYMOを聴きながら、夜の話を漠然とシミュレーションしつつ、矢場町まで歩いた。矢場町のカフェでココアを飲みながら、ノートを広げ、シミュレーションのつづき。ノートに思いつきをマッピングしながら、細野晴臣、エゴ・ラッピンを聴く。

音楽が体に溜まってくる。名古屋まで歩き、中古CDショップで、『殺し屋1』のサントラを見つける。山本精一が音楽監督をしているやつ。ローラン・ガルニエ『THE CROUD MAKING MACHINE』と、2枚買う。

夜、スポンサーを連れたAちゃんと、名駅で待ち合わせる。Aちゃんの事前情報で、「とにかく「いい人」」であると聞いていたが、現れたのは船越英一郎激似のまさしく「いい人」を図案化したような風貌のおっさんだった。三人で居酒屋に行く。
ビールを飲み、焼き鳥やエビフライ、モツ煮を食べながら、話を進めた。最近のおれは、プレゼンであまりハッタリをきかしたり、相手を煽ったりするようなオハナシはしないことにしている。あえて訥々と「現実」に沿った話をしたほうが、後の面倒がないし、逆に説得力も増すような気もするし、いや、なによりもうテンションを無理に上げるのに嫌気がさしているのである(もっとも、「現実に沿って」といっても、それもあくまでも「演出」でしかないのだが)。
結果的はまずまず。とりあえず即金で200万円振り込んでもらう約束が取れた。
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by daiouika1967 | 2009-03-25 20:37 | 日記  

3月23日 晴

日曜は妻と散歩しているうちに過ぎた。散歩といっても、妻と一緒の場合、何かしら「目的」があるのだが、しかしそれはたいていはたいした用事でもなく、ただ「歩く」ための仮の「目的」でしかない。妻は「散歩に行く?」と誘う。クリーニング屋に行く、スーパーにPの餌を買いに行く、薬局にトイレットペーパーを買いに行く、などの「目的」で、「散歩」の距離、コースが決まる。

今日は9時過ぎに家を出て、上野理絵『英会話の基本文型87』(ペレ出版)を聴きながら矢場町まで歩き、喫茶店で、かんべやすひろ『学校で絶対教えてくれない超英文解釈マニュアル』(研究者)を読んだ。英文法の参考書。おれの英語の勉強は、村上憲郎『村上式シンプル英語勉強法』(ダイヤモンド社)に則って進められている。参考書はすべて『村上式~』で推薦されているもの。

それにしても、今日は風が強い。そういえば朝、成田空港で、風に煽られて、貨物飛行機が爆発していた映像が、テレビで流れていた。

午後、日曜に買った茂木健一郎・恩蔵絢子『化粧する脳』(集英社新書)を読んだ。
次いで、坂本龍一『out of noise』を聴きながら、デニス・ジョンソン『ジーザス・サン』(柴田元幸訳 白水社)を読んだ。

すこし早目に家に帰ると、妻が「今ユニーに行こうと思っていたところ」と言う。いっしょに出かけ、豚肉、小海老、焼きそば、サラダ、キャベツ、鶏ひき肉、などの食材、ジュースを買う。
今日はよく歩いた。家に帰って万歩計を見ると、18888歩歩いていた。
夕食は鶏ひき肉と小海老のシュウマイと焼きそば。焼きそばは三玉をふたりで割り、具もたっぷりでものすごく大量。ふうふう言いながら何とか食べきった。

夜、DVDでクローネンバーグ監督『ビデオドローム』を観る。もう十回以上は観ていると思うのだが、何度観てもやはり興奮する。「熱っぽい」映画で、こういう映画を観るというのは、その「熱」に当てられるということを意味する。その「熱」に当てられるという体感がなければ、何のことだかよく分からないまま終わってしまうだろう。
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by daiouika1967 | 2009-03-25 00:32 | 日記  

3月21日 晴

穏かに晴れた暖かい一日。街には人が溢れている。ぶらぶら歩いているだけで気持ちがいい。おれは気候に関係なく、凍えそうな冬の日も、うだるような夏の日も、いつも街中を歩いているが。今日は1万6千歩歩いた。

ジュンク堂で、吉本隆明『柳田国男論・丸山真男論』(ちくま学芸文庫)を買う。このところ眠る前にベッドで読む本が(眠くなって布団に入るのだが、布団が冷たくて一瞬目が覚めるのだ。またすぐに眠たくなるのだが、それまで十数分、枕元に置いてある本をパラパラと読むのである)、『柳田国男対談集』(筑間選書)。読んでいると、対談相手のインテリ、文学者の発言は、やはり「時代がかっている」というか、どうしようもなく古びてしまっている感が否めないのだが、柳田国男の語る言葉だけは、生き生きとしたアクチュアリティを失っていない。柳田国男の知の射程の長さ、その思索の深さを改めて実感していたところで、吉本の柳田論を改めて読みたくなったのだった。
吉本の柳田論は、以前に一度読んでいるはずなのだが、そのときは、栗本慎一郎による『共同幻想論』の読みを経由して、なんとか理解したような気になっていただけで、吉本のテキストそのものを味読するには至っていなかったように思う。その頃は、柳田国男の著作も『遠野物語』一冊を読んだきりで、『遠野物語』には“震撼”といっていいような感動を覚えたものの、柳田国男の知の射程を正確に捉えるには至っていなかった。

―「柳田国男の文体は、いわば<流れる>文体である。ふつうの意味でいえば、任意の場所から、いつでも思い立ったときにとびだして、触れるべき事柄にはかならずふれながら、停滞することなく<流れ>さるための文体だといってよい。もうすこし、その事柄についてじっくりと説いてもらいたいとおもっても叶わない。また逆にさり気なく<流され>た一行に、膨大な資料とその考察の蓄積が隠されていて、ひとつの書物が成立しそうなことが、その一行に濃縮されているばあいもある。ひとつの言説に起点があり、承ける場面あり、転換の変容があり、結末があって構成されるとすれば、柳田の文体ははじめからこんな意味の構成を拒んでいる。いてtみれば中間が連続するというわが習俗の原理を記述するのに、じぶんの文体そのものをその原理と化している。なだらかな形のよい山の稜線に沿って昇ってゆき、頂まで昇りつめると、ひとりでにまたなだらかな稜線を降りてきて、麓のところで平地に接続される。たしかに起点があったし、頂きもあったはずなのに、なだからかな曲線をたどっているだけで、どこにも渋滞も結節もない。」(P220)

いっしょに、デニス・ジョンソン『ジーザス・サン』(柴田元幸訳 白水社)も買う。

夕方、GEOでDVDを4本借りて、ついでに隣のブックオフに寄ると、今日一日だけの活字本半額セールがやっていた。マルティン・ハイデガー『ニーチェ』Ⅰ、Ⅱ(細谷貞雄監訳 杉田泰一・輪田稔訳 平凡社ライブラリー)があったので、即手に取る。2冊で3千円が、800円になっていた。さらに江藤淳『荷風散策 ―紅茶のあとさき』(新潮文庫)、リン・ディン『血液と石鹸』(柴田元幸訳 早川書房)、ジュンパ・ラヒリ『停電の夜に』『その名にちなんで』(小川高義訳 新潮クレストブックス)も買う。すべて合わせて2500円。安い。

夜、DVDで『ライラの冒険 黄金の羅針盤』を観る。半分寝ながらだったので、どういうストーリーだったかよく覚えていない。
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by daiouika1967 | 2009-03-22 20:08 | 日記  

3月20日 早朝雨、9時過ぎに晴

眠りが浅く、まだ眠かったが、9時過ぎに起床、シャワーを浴びる。今日はK君の結婚式。久しぶりにネクタイを締め、スーツを着る。10時半、妻とタクシーで、ホテルへ。
ホテル内に設えられた教会で教会式。1時過ぎ、式が終わり、披露宴は親族だけの食事会ということだったので、夜の二次会まで5時間程空く。腹が減ったので、妻と、マツヤ(チェーン店の松屋ではない)で昼食をとる。妻はハンバーグ、おれはミソヒレカツの定食。
腹もくちて一気に眠くなった。いったん家に戻ることにする。
名駅まで地下鉄で移動し、眠い中、三省堂に寄って本を眺め、ビックカメラに行って妻とふたりでプリクラを撮る。プリクラの並んだゲームフロアは平均年齢15歳といったところか。そこに40過ぎの男女がふたり。……眠いのに何をやっている(笑)さらに、DVDフロアに行き、『ビデオドローム』『デス・プルーフ』が1340円に値下がりしてワゴンに並んでいるのを見つけ、つい買ってしまう。
家に帰ると、もう3時半になっていた。妻はいったん眠ると、数時間は起きられなくなるので、そのまま眠気をこらえることにして、パソコンに向かった。おれはWiiマリオカートをやって、眠気に耐えた。目がしばしばする。
ようやく時間が経って、夜、6時過ぎ、タクシーで二次会会場へ。立食。ガヤガヤしているなか、適当に食べて飲んで、ビンゴでバイブレーターを当て、2時間くらいを過ごした。
9時過ぎに終わり、妻とタクシーで帰る。夜、小腹が減って、インスタントラーメンをつくって食べた。
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by daiouika1967 | 2009-03-21 21:11 | 日記