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10月12日 月 晴

今日はひさしぶりに休みらしい一日。何の予定もない。午前中、妻がどこかに出かけていたので、ひとり、栄生のブックオフ、ゲオを周る。ゲオはDVDの旧作1本100円レンタルキャンペーン期間中だった。5本借りる。小説でも映画でもいいが、空虚と暴力と恐怖をめぐる物語が欲しかった。
昼過ぎ、妻から電話があって、車で昼飯を食いに行くことにする。瑞穂区の石亭という回転寿司。まぐろが有名で、テレビでも取り上げられる有名店らしい。果たして期待通りの美味しさだった。とくに赤身は感動的な美味しさで思わず3皿も頼んでしまった。腹いっぱい食べて、ふたりで四千円。安い。帰りに、そのまま一社まで車を走らせ、ケーキ屋に行く。シュークリームとモンブランを買って帰った。
帰ると、もう夕方になっていた。遅めのおやつにモンブランを食べる。これまた感動的な美味しさだった。食べ物で感動することは滅多にないのだが、今日は立て続けに美味しいものにめぐりあえて、なんだかそれだけで「もう今日はいいや」、って感じである。
夕方からDVD。三池崇史監督『悪』『悪 完結篇』、中田秀夫監督『怪談』、『クローバーフィールド』とつづけて見る。激ウマシュークリームを食べて、11時過ぎには就寝した。

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by daiouika1967 | 2009-10-13 22:47 | 日記  

10月11日 日 晴

8時過ぎ起床。午前中はヨガ。昼食に春風亭という蕎麦屋で蕎麦。午後はアジトで企画書づくり。気晴らしにミクシィを周ったり。夜は実家で鍋。夜中、録画しておいた「たかじんのそこまで言って委員会」を眺める。2時頃就寝。
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by daiouika1967 | 2009-10-12 09:05 | 日記  

10月10日 土 晴

植島啓司・九鬼家隆・田中利典『熊野 神と仏』(原書房)を読む。2007年、2008年に行なわれたシンポジウムを元にまとめられた本。九鬼家隆は宮司、田中利典は修験者、共に熊野という聖地に深くコミットする宗教者である。植島啓司が探求する“聖地”というテーマ系、そのなかでも、熊野という場所は、植島には何かと縁深い土地のようだ。
「紀伊山地の霊場と参詣道」は、熊野三山、吉野・大峯、高野山というそれぞれ異なる宗教の聖地を中心にして、まるで網の目のように参詣道が結ばれる、世界でも特異な(いや、唯一の)スポットである。植島は、その形成について、「神道、修験道、仏教(真言密教)のみならず、いまだ道教や陰陽道などの教えも生きているということは、そこが教理を超えた特別な空気を感じさせる場であったことをうかがわせるものである。つまり、それらの結びつきは、いわゆる『神仏習合』『本地垂迹』などの言葉で表されるよりも、はるかに根源的なものではないかということである。熊野本宮大社の九鬼家隆宮司も、吉野金峯寺の田中利典執行長も、そうした結びつきの強さについては異口同音に認められており、もしかしたら神道と仏教とは『はなから』習合していたのではないかとかとまで考えられている」と語る。そして、紀伊山地での自然―宗教体験になかこそ、日本の融和的な宗教風土を考える原型があるのではないか、と示唆する。
日本人の宗教感情が、ある種の自然-宗教体験のなかに根ざしているのだすれば、自らの根源を知るためには、山にこもらなくてはなるまい。

三省堂で、福田和也『大作家“ろくでなし”列伝 ―名作99篇で読む大人の痛みと歓び』(ワニブックスプラス)、橋本治『明日は昨日の風が吹く ―ああでもなくこうでもなく インデックス版』(集英社)を買う。2690円。
家に帰ったら、アマゾンで買った有田憲史『「売る」コピー39の型』(SHOEISHA)が届いていた。「ほぼ日」で糸井重里が推薦していた本。
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by daiouika1967 | 2009-10-12 08:58 | 日記  

10月9日 金 晴

台風も過ぎ、昨日の午後から晴天。

川端要壽『堕ちよ!さらば ―吉本隆明と私』(河出文庫)読了。後半は、著者が競馬にのめりこんでいく後半生が描かれる。自らの裡にあった禁忌をついに破り、吉本隆明に金を無心するくだりが、この小説の最終章の山場になるが、そこで著者が吉本から言われる言葉が、「なあ、佐伯。人間はほんとうに食うに困った時は、強盗でも、何でもやるんだな」というものである。
小説には吉本の今井正監督「純愛物語」の批評、さらにその内容を凝縮した高村光太郎についての講演のあるくだりが引用されている。二箇所を孫引きしておく。
―「私は、人間は食えなくなったら、スリでも、強盗でも、サギでもやって生きるべき権利をもっていると、かねてからかたく信じたいと思っているが、この映画の主人公貫坊と恋人の不良少女ミツ子は、まさしく、そういうモラルの実践者なので、わたしが狂喜したのは云うまでもない」。
―「人間をはかる価値基準というものを考えていきますと、善だから価値があって、悪だから価値がないというようなことはいえないし、また、道徳的だからよろしくて、背徳的だから悪いということもいえない。ひじょうに折り目正しく礼儀正しいから、真実だから、それが価値があるというふうにもいえない。また、狡猾であるから、またどう猛であるから、それが価値がないということもいえないということです。(略)ほんとうに価値があるということは、そこに作為あるいは外界に対する配慮というものがまったくなく、やることが<自然>であるならば、つまり、やることになんら作為がないならば、狡猾であろうとどう猛であろうと、価値があるんだという考え方です。」

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by daiouika1967 | 2009-10-10 21:33 | 日記  

10月6日 火 雨

今、これを書いているのは、8日(水)の深夜なのだが、テレビでは台風18号のニュースがやっている。二年ぶりの日本上陸だそうだ。かなり強い台風らしい。
今日(6日、火曜日)も、一日台風前の不穏な天気だった。時々雨のぱらつく曇天。

仕事の合間に、川端要壽『堕ちよ!さらば ―吉本隆明と私』(河出文庫)を読み始める。
「典型的な戦中右翼」であった吉本が、敗戦という「挫折」をいかにヘヴィに受け止め、その負の体験から自らの思想を鍛え上げていくか。その辺りの思想的なドラマは、吉本自身の回顧的な語りに詳しい。
敗戦を経る前の青年期の自身については、吉本自身は「傲倨に満ちた青年期」と、その自らの在りようを否定的に提示するのみだが、この小説には、そうした否定的な自画像とは違った、著者のような近しい者だけが描くことのできる、いわば「魅惑的なカリスマ」としての吉本隆明が活写されている。
逆に、敗戦後、吉本の内面で展開される「思想的なドラマ」については、著者はそれを共鳴的に追跡しうる資質の持ち主ではないようだ。著者は、自ら、こう書いている。
―「所詮、吉本が苦悩した敗北と挫折に比較するならば、私の挫折など物の数ではなかった。つまり、私には敗北とか挫折などと意識の深層で現実を把握するほどの能力もなければ、資質もなかったのだ。だから、吉本が苦境の時代を見事に再結晶させたにもかかわらず、私は再結晶させるスベも知らず、そのままズルズルと泥沼にのめりこんでいくように、居心地のよい人生の裏街道を突っ走ってしまったのである。」なるほど、思想家としての資格をもつ者とは、「意識の深層で現実を把握」し、自らの「苦境の時代を再結晶」させる資質の人間なのである。それは、吉本自身に言わせれば、ある種の病的な人間の
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by daiouika1967 | 2009-10-08 00:41 | 日記  

10月5日 月 雨

台風が近づいているようだ。週間天気予報によると、今週もまた天気が悪いらしい。朝、ワイドショーで、中川昭一が死んだというニュースを知る。享年56歳。父親の中川一郎が死んだのが57歳だから、ほぼ同い年で死んだことになる。死因はまだはっきりしないらしいが、自殺ではなく病死の可能性が強いという。おれはこの人の政治家としての理念や実践について何も知らないが、ただ顔の造作や表情に色気があって、嫌いではなかった。だからといって、べつに、死んで悲しいとか欠落感があるというほどでもない。

夜、菊地成孔・大谷能生『アフロ・ディズニー ~エイゼンシュテインから『オタク=黒人』まで』(文藝春秋)を読了する。
―「メロディーはノイズをリダクションします。解離だとか失神とか白昼夢などとは言わないまでも、われわれは単純労働の最中において、あるいは、満員電車の中にあって、あるいは、キャメラに撮られた映像を自室でひとり眺めながら、不意に、世界に溢れているノイズの世界に巻き込まれ、自身の行為の意味を見失う、という経験を日常的に受けとめています。このことについて、それは『メロディーが切れたから』なのだというアナロジーをして、まったく意味がわからないと言う方は少ないのではないでしょうか。
十九世紀までは気が付くこともなかった、この新たな雑音との角逐が、二十世紀の芸術の大きなテーマのひとつですが、ニュー・メディアによって拡大されたこの世界のノイズ性=無意識性の顕在化に十分に対抗するためにも、三十年代、人々は是非とも強旋律的な作品を生み出す必要があった、ということもできます。
視聴覚両面にわたって溢れ出したノイズを、メロディーの輪郭を色濃く引くことによって隠蔽し、あるいは、ノイズにメロディーという対立自体を、あらたな調律によって弁証法的に沈静化させること―トーキーによる強シンクロや、B.G.M.による環境音と楽音の線引きの無化は、このような目的を持って遂行されていったのです。認知心理学でも現象学でも、ましてや音楽療法だのいった意味ではなく、世界を『メロディー』として聴き取っていられるあいだは、われわれの生活は安定しているという訳です。」

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by daiouika1967 | 2009-10-06 21:59 | 日記  

10月4日 日 晴

今日も昨日に引きつづき、ドぴーかんの晴天。午前中はヨガに行く。10日ぶりくらいのヨガ。身体が固まっていたのが、いい具合にほぐれた。身体がほぐれたら眠たくなった。家に帰り、テレビで「たかじんのそこまで言って委員会」を眺めつつ、うつらうつらする。

夕方から、菊地成孔・大谷能生『アフロ・ディズニー ~エイゼンシュテインから『オタク=黒人』まで』(文藝春秋)を読み始める。著者ふたりが慶應義塾大学で行なった“視聴覚分断講義”の講義録である。200ページほど読み進む。
映像と音との、同期とズレ。そのことがどんな欲望を解放し、あるいは抑圧してきたのか。20世紀とは、どんな欲望の解放、あるいは抑圧の世紀だったのか。ブルースをめぐり、映画史をめぐり、ファッション・ショーにおけるモデルのウォーキングをめぐり、散逸と切断が繰り返され、旋回的に回帰するというスタイルで語られる神経がチリチリするような刺激的な講義録。

今日も、昨夜と同じように、月がきれいだった。

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by daiouika1967 | 2009-10-05 22:42 | 日記  

10月3日 土 曇りのち晴

朝はまだすこし曇っていたけれど、午後になって急速に雲が散り、晴天になる。一週間ぶりのぴーかん。風が爽快。めっきり秋だ。

先週はほとんど本を読まなかった。昨日くらいから活字に飢えていて、思わず三省堂で新刊書を三冊衝動買いする。茂木健一郎『あなたにもわかる相対性理論』(PHPサイエンス・ワールド新書)、植島啓司・九鬼家隆・田中利典『熊野 神と仏』(原書房)、菊地成孔・大谷能生『アフロ・ディズニー』(文藝春秋)。合計4500円。
PHPサイエンス・ワールド新書の第一回配本の著者は、茂木健一郎のほかに、養老孟司、日高敏高、池田清彦、志賀浩二。全部買ってもいいような面子である。

とりあえず茂木健一郎『あなたにもわかる相対性理論』(PHPサイエンス・ワールド新書)を読む。アインシュタインの業績、そしてその驚嘆すべき業績を残したアインシュタインという人間の精神のありようについて、とてもわかりやすく、また熱っぽく語られた語りおろしである。

天才は、現実を越えた真理のヴィジョンを、現実よりずっと強く把捉する。そのため、彼や彼女にとっては、現実の個々の物事は取るに足らない些事の連鎖に過ぎず、そのヴィジョンに形を与えることだけに価値を感じるようになる。彼や彼女は、しばしば俗世の価値観を否定しているように見えるが、そうではなく、それらは否定に値するものとすら感じられていない。
―「アインシュタインはよくヴァイオリンを弾きながら考えていたと言う。そのように、音や行動で外からの情報を遮断することで、内側にある情報に目を向け、整理し、ひらめきを待つのである。脳の中には、何もしていない時に活動する『デフォルト・ネットワーク』と呼ばれる回路があることがわかっている。特に何かをするというわけでもなく、ぼんやりとものを考える時に、デフォルト・ネットワークが働き、うまく『ひらめき』の種を拾うことができるのである。
目に見えないものを頭の中に描き、内からの情報を大切にする。そこにはインターネットに頼っていては絶対に経験できないほどの豊かな世界が広がっている。」

たまたま同日に読んだ内田樹のブログでも、この「デフォルト・ネットワーク」の考えに類することが書いてあった。内田樹は、「こびとさん」と、“それ”を名指している。“それ”は、例えば、栗本慎一郎―マイケル・ポランニーが“暗黙知”と名指したものと同じものを指している。
―「真の賢者は恐ろしいほどに頭がいいので、他の人がわからないことがすらすらわかるばかりか、自分がわかるはずのないこと(それについてそれまで一度も勉強したこともないし、興味をもったことさえないこと)についても、「あ、それはね」といきなりわかってしまう。だから、自分でだって「ぎくり」とするはずなのである。何でわかっちゃうんだろう。そして、どうやらわれわれの知性というのは「二重底」になっているらしいということに思い至る。私たちは自分の知らないことを知っている。自分が知っていることについても、どうしてそれを知っているのかを知らない。私たちが「問題」として意識するのは、その解き方が「なんとなくわかるような気がする」ものだけである。なぜ、解いてもいないのに、「解けそうな気がする」のか。それは解答するに先立って、私たちの知性の暗黙の次元がそれを「先駆的に解いている」からである。私たちが寝入っている夜中に「こびとさん」が「じゃがいもの皮むき」をしてご飯の支度をしてくれているように、「二重底」の裏側のこちらからは見えないところで、「何か」がこつこつと「下ごしらえ」の仕事をしているのである。
そういう「こびとさん」的なものが「いる」と思っている人と思っていない人がいる。「こびとさん」がいて、いつもこつこつ働いてくれているおかげで自分の心身が今日も順調に活動しているのだと思っている人は、「どうやったら『こびとさん』は明日も機嫌良く仕事をしてくれるだろう」と考える。暴飲暴食を控え、夜はぐっすり眠り、適度の運動をして・・・くらいのことはとりあえずしてみる。それが有効かどうかわからないけれど、身体的リソースを「私」が使い切ってしまうと、「こびとさん」のシェアが減るかもしれないというふうには考える。「こびとさん」なんかいなくて、自分の労働はまるごと自分の努力の成果であり、それゆえ、自分の労働がうみだした利益を私はすべて占有する権利があると思っている人はそんなことを考えない。けれども、自分の労働を無言でサポートしてくれているものに対する感謝の気持ちを忘れて、活動がもたらすものをすべて占有的に享受し、費消していると、そのうちサポートはなくなる。「こびとさん」が餓死してしまったのである。知的な人が陥る「スランプ」の多くは「こびとさんの死」のことである。「こびとさん」へのフィードを忘れたことで、「自分の手持ちのものしか手元にない」状態に置き去りにされることがスランプである。スランプというのは「自分にできることができなくなる」わけではない。「自分にできること」はいつだってできる。そうではなくて「自分にできるはずがないのにもかかわらず、できていたこと」ができなくなるのが「スランプ」なのである。それはそれまで「こびとさん」がしていてくれた仕事だったのである。
私が基礎ゼミの学生たちに「自分の知性に対して敬意をもつ」と言ったときに言いたかったのは、君たちの知性の活動を見えないところで下支えしてくれているこの「こびとさん」たちへの気遣いを忘れずに、ということであった。」


最後、茂木自身の探求するクオリアについて語られている箇所を、引用しておく。
―「さらに私は、脳科学においても、相対性理論における『E=mc2』のような数式が成立するのではないかと考えている。
エネルギー『E』の代わりに、クオリアの『Q』が入る。『Q=』のあとに何が入るのかに強い関心がある。それまでまったく別物と考えられていた質量とエネルギーが等価であったように、クオリアと何かが等価なのではないかと考えている。
私たちは、人間の体や脳を特別な存在のように考えがちだが、ともに物質でできており、自然法則に従うという意味では、空気や土、草や鳥と同じだ。宇宙の中の万物と何ら変わることはない。
すなわち、心も自然現象の一部であり、自然法則の記述の対象となると思っている。だとすれば、アインシュタインが宇宙の法則を簡潔な言葉と数式で描き出したのと同じように、脳や心についても簡潔な言葉や数式で描き出すことができるのではないだろうか。
アインシュタインの理論が私たちに与える感銘は、まさにその認識論と存在論が交錯する場所にある。心と脳の関係という人類に残された第一級の謎を解く鍵は、かつてアインシュタインがやったように、私たちがごく当たり前だと思っている認識上の前提を問い直すことの中にあるのだろう。」

活字への飢えがスウーッと癒され、鬱っぽかった気分が、軽い攻撃性をはらんだ軽躁状態に回復した。

今日はお彼岸。夜は満月がきれいだった。

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by daiouika1967 | 2009-10-05 22:24 | 日記  

10月2日 金 雨

雨。今週はずっとじめついた天気だった。終日仕事。仕事には支障ないのだが、どうも集中力に欠ける。すぐに上の空になる。魂が風船のようにふわふわ宙に浮いている感じ。糸が切れたらどこかに飛んで消えてしまいそうな心細さがある。ただ、この心細さは、いやな感覚ではない。

今日の出費は別財布から800円。
朝食、南瓜のリゾット、キャベツ、ハム、芋サラ、目玉焼き。昼食、大豆バー2本。おやつ、じゃがりこ。夕食、雑炊、鉄板焼き(ハム、しめじ、えのき、えりんぎ)。おやつ、シュークリーム。
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by daiouika1967 | 2009-10-02 23:07 | 日記  

10月1日 木 曇

今朝は6時前からPがじゃれついてきて、いつもは手で除けるとそのままトトッとどこかに逃げてしまうのに、今日はめげずにしつこく甘えてくる。頬に鼻面を近づけてきたり、手を舐めたり、腹の上に乗ってきたりして、眠気もさめてしまった。胸の上に乗ってきてゴロゴロのどを鳴らすのだが、何かを要求しているようにも思えない。しばらく首筋を撫でてやり、けっきょくそのまま起きてしまった。

朝起きて窓を開けると妙に煙たい。どこか燃えているのだろうか。ベランダで見渡しても火事の気配はない。ツインタワーの方を眺めると靄で曇っていた。これは天気のせいか。でもあの煙たさはなんだったんだろう。

テレビを点けると、ワイドショーで地震のニュースが流れていた。サモアとスマトラ沖で大きな地震があり、サモアでは津波で大きな被害が出ているらしい。人が大勢死んで、悲惨なニュースなのかもしれないが、なぜかあまり陰惨な気分にはならない。人間ひとりひとりの命の事情など、ちょっとした自然のくしゃみであっというまに吹き飛んでしまう程度のものでしかない、そう思うと、むしろ晴れ晴れしたような爽快感すら感じる。他人事だからという無責任な感想なのだろう。しかし人は必ず死ぬ。死に方が選べるなら、津波に呑まれて死ぬというのは、悪い死に方じゃないと思う。


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by daiouika1967 | 2009-10-01 22:44 | 日記