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11.29 日 曇のち雨

■あいかわらず体調はすぐれない。そんな体調なのにもかかわらず、日曜午前のヨガ教室には休まず行く。今日は最終週で、最終週はいつもハードなプログラムで、一時間半ほとんど休憩がない。途中で気持ち悪くなり、しばらくシャバーサナ(屍のポーズ)でしのぐ。

■気持ちが悪くても、食欲はなくならない。昼食は、パルコ近くのホルモン鍋屋のランチ、焼きそば定食を食べる。パルコに寄り、その後、妻の運転する車で、名古屋ドーム前のイオンに行く。巨大なモール内を、特に目的もなくブラブラ見回り、各飲食店が屋台のように集まったスペースで、たこ焼きとみたらし団子とフルーツジュースを口にする。家に帰ると、もう夕方になっていて、今日は妻と一緒に「目的もなくブラブラ」しているうちに一日が終わった。夜は、イオンで買ってきたレトルトの鴨南蛮風蕎麦を拵えて食べる。葱と鶏肉を焼いて具に入れた。食後、ポテトチップスを一袋と、コーンをはじけさせた駄菓子を一袋食べる。食べてばかり。昨日は便秘気味で腹が張ったようになって苦しかったのだが、今日は下痢気味になって、溜まっていた排泄物がドバドバと出た。ビオフェルミンを服む。

■夜、テレビで、ボクシングの日本人対決。チャンピオン内藤大介vs挑戦者亀田興毅の試合を観戦する。話題の因縁試合で、今ググってみると、視聴率は今年全局全番組を通しての最高43.1%だったそうだ。
亀田はボクシング巧いな、という印象。内藤は途中から体力、集中力が切れたか、という印象。結果は亀田の判定勝ちだった。
いい試合だったのは間違いない。内藤にも悔いの残る内容ではないだろう。テレビで観戦しているおれとしても、試合に不満はないのだが、なんとなくおれが格闘技の試合に期待している「体が熱くなるような興奮」は感じられなかった。いや、これはべつに批判的に言っているのではなく、もしかしたら、この試合に興奮できないおれは、もう格闘技にあまり魅力を感じなくなっているだけのことなのかもしれない。
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by daiouika1967 | 2009-11-30 18:36 | 日記  

11.28 土 曇

■寒いのに顔が火照ったり、汗ばんだ後急に寒くなったり、悪寒がしたり、激しい眠気に血の気が引いたり、体調が狂っている。風邪気味かもしれない。

■そんな体調だが、青木淳悟『このあいだ東京でね』(新潮社)を読む。青木淳悟なんて続けて読んじゃったから、今日こんなふうに眩暈がするんじゃないか、とすこしだけ思って、すぐに「そんなわけないけど」と思い直す。

「青木淳悟 このあいだ東京でね」とググってみると、こうした「物語から離れた場所で書かれた小説」は、「世界への新しい認識や、知られざる感覚や感情を教えてくれる可能性」をもつ、この小説集でもそんな「物語によりそわずに小説を成立させようとする意志と方法意識は徹底して貫かれ、そのことが、いままで知られなかった都市の風景の開示を可能に」している、と、例えば奥泉光による簡潔な書評が見つかる。

「物語から離れた場所」に立つ、ということが、じつはなかなか難しい。人は普段無意識のうちに“物語のなかで”、あるいは“物語を紡ぎながら”日々を過ごしている。いや、“物語の綻びを胡麻化しつつ、辻褄を合せるのに汲々として、ついには物語が破たんする不安におびえながら”日々を過ごしている、といった方がより実情に即しているかもしれないが、ともあれ、“人が日々を過ごす”、つまり、“何気ない日常を経験する”ということは、なんらかの形で“物語”と関わりあうことを離れてはありえない。
「物語から離れた場所に立つ」というのは、だから、その“人の普通の在りよう”に抗して、ある緊張をはらんだ“作品”を通してしか実現しない。
青木淳悟の“どこかから引っ張ってきたような”文章で開示されるのは、“誰にも経験されたことのない凡庸な街”という、逆説的な形容がぴったりくるような、奇妙な作品世界である。

そういえば、古谷利裕の「偽日記」にも、青木淳悟のこの小説のことが書かれていたな、と、「青木淳悟 このあいだ東京でね 偽日記」とググってみる。あった、あった。そこには、「金曜の《深夜にタクシーで帰宅する》《「第一線で働く」勤め人》」が、「磯崎憲一郎の「終の住処」の主人公である《彼》とが重なってみえて」しまう、と書かれてあって、磯崎憲一郎の「終の住処」はまだ読んでいないから、共感はできないのだが、青木淳悟の小説のなかに登場する人物が、そのように別の「作品」という「外部」と響きあってしまうというのは、いかにもありそうなことだとは感じた。

■そんな体調なのに、<ジュンク堂>と<三省堂>を巡回する。名駅の地下にある<三省堂>は、地下にあるせいか空気が悪く、暖房の暖気がこもっていて、よけいに気分が悪くなった。
<ジュンク堂>で、『思想地図vol.4 -特集:想像力』(NHKブックス)、松岡正剛『日本流』(ちくま学芸文庫)を買う。<三省堂>で、中川いさみ『谷底ライオン』(イーストプレス)、逆柱いみり『空の巻き貝』(青林工藝舎)を買う。

■途中、急激な眠気にうつらうつらしながら、中川いさみ『谷底ライオン』を読む。
ライオンは千尋の谷に我が子を突き落とし、這い上がってきた子のみを育てるという。で、これは、這い上がれなかったライオンの「谷底」を舞台とした物語。
この設定に、表紙の絵を見て、つい買ってしまった。

■つづけて、逆柱いみり『空の巻き貝』を読む。
解説を町田康が書いている。「行って、帰る。」という解説の意味が、もはや頭が吐き気と眠気で混沌としていて、よく意味がつかめない。故郷喪失者にとっての“故郷”、“帰る場所”、“日常”、……逆柱いみりの絵が、異郷的であるにも関わらずなんとも言えない懐かしさに満ちているのは、……と、途中まで考えて、そのまま朦朧としてしまう。
そんな状態でも、逆柱いみりの絵は、すべて奇妙に懐かしく、快楽的で、絵や字を追うのが辛い状態なのに、最後まで読み切ったのだった。
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by daiouika1967 | 2009-11-30 18:04 | 日記  

11.27 金 晴

■昨夜は12時前には就寝したから8時間は眠っている。それでも今日もやはり眠かった。疲れが溜まっているのだろうか。眠りの質はよくない。夜中に何度も目が覚める。冬になりかけたせいか鼻炎が悪化して、横たわると鼻が詰まる。口で息をして眠っているのだが、しばらく経つと口腔から咽喉にかけてカラカラに乾いている。その乾きが不快で目が覚める。眠たくて辛いのだが、その辛さに逆らって体を起こす。体を起して2、3分経つと鼻が通るので、それで口を閉じ、口腔内が唾液で湿るのを待ち、それでようやくふたたび眠りに就く。本当は仰向けで眠りたいのだが、仰向けになるとまたすぐに鼻が詰まるので、横を向き、海老のように体を丸めて眠る。その体勢を取ると、例えば左を向いて寝ると、右の鼻の穴が通るのである。
おれが起きると、その気配をさっしたポンタも目を覚まし、とととっと寄ってくる。おれが眠ろうとすると、「ん?寝んの?」と顔の付近に鼻面を近づけてくる。くすぐったい。無視していると頬っぺたの辺りをぺろっと舐めたりする。「もうっ」と、ポンタの鼻面を手のひらで押しやる。薄眼を開けて見ると、ポンタは不承ながら、といった感じで、のそのそと自分の寝床に戻っていく。じゃれかかる猫を追いやったということにうっすらとした罪悪感を覚えつつ、ふうっと溜息をついて、そのまま眠りに入る。
こんなことを一晩に2、3回くりかえすのである。眠りの質は悪い。長い時間ベッドに横になっていても、疲れが取れた感じがない。

■約1年ぶりに、Zさんから電話があった。何歳か年上のおばさんで、何度か広告関係の仕事をしたことがある。会って、デニーズで、1時間くらい話をした。彼女は、冷たくて甘いもの冷たくて甘いもの、と言いながら、チョコパフェとアイスコーヒーを頼む。おれは、酢のジュース。
「ちょっと。なんか仕事ないの?職安行ってきたんだけど、もう、すごいね。一般事務なんか、ひとつの求人に百人の応募者だってよ?」と、性急な調子で話し始める。
おれは、うんざりした心持で、自分がいかにもつまらなそうな顔つきになっているのを自覚しつつ、
「ああ、まあ、そうだろうねえ」と相槌を打つ。
「仕事ない?仕事。今日はMさんに私の仕事をつくってもらおうと思ってきたんだけど」とたたみかけるZさん。
「ああ、いま、厳しいよねえ、仕事、ないよねえ」とグダグダした感じで軽く拒絶。
「なにぃ。あんた、あいかわらず冷たいねえ」と、さほど残念そうでもなく、Zさんが言う。
「ああ、冷たいですよねえ、おれ」とおれは半笑いを浮かべる。
「また、ちょっと私の行く末、考えといてよ」とZさんが言うので、
「ああ、まあ、ねえ」と受け流して、その話は終わる。
音信がなかった1年の間に、Zさんのお母さんが大腸がんになったのだそうだ。Zさんは唐突にそんな話を始めた。
「その話って長くなる?」と思いつつ、それは口に出さず、酢のジュースをチョロチョロ飲みながら、Zさんの話を聞く。
「……そんなわけで、なんだか、もう不安になってきちゃって。私、ちょっと、おかしくなってきちゃってさあ。だって、ガンセンター行くと、もう、ガン患者ばっかりなんだよ。それで、私、仕事見つけないとなあって思って。で、職安行ってきたわけ」
お母さんがガンになって、ガンセンターに入ったら周りがガン患者ばかりだったので、不安になって、仕事を見つけなきゃと思い立ち、職安に行ったところ、ひとつの求人に百人の応募があって、ビックリして、それでおれと会わないといけない、と思い立ったのだった。と、こうまとめると、ほとんど支離滅裂な飛躍だらけの話になるが、そんな話をZさんは1時間近くかけてまくしたてたのだった。
そして最後に、「ああ、でも、やっぱりMさんと話すと、なんか、スッキリしたわ」と言うので、おれは始終「その話、まだ続くの?」といった面持ちで適当に相槌を打っていただけなのだが、勝手に感謝されると、つい調子に乗って、
「ああ、そう。まあ、またいつでも連絡してよ」などと口走っている。
「うん。また不安になってきたら、連絡するわ」とZさんが言うので、「おれに連絡してもあなたの状況は何も変わらないと思うけど」と思いつつ、「うん」と答えておく。
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by daiouika1967 | 2009-11-28 18:01 | 日記  

11.26 木 晴

青木淳悟『いい子は家で』(新潮社)を読む。
デビュー作、『四十日と四十夜のメルヘン』は「衝撃的」だったが、その衝撃をうまく消化できないまま、しばらく青木淳悟からは遠ざかっていた。今作もまた「衝撃的」な面白さだったのだが、もはやそれを「消化」しようとは思わず、その衝撃から受けた振動を、そのままじわじわ増幅させている。

任意に一場面、引用してみる。
「母親が朝、洗濯をしている。
彼はその洗濯機の音で目を覚ます。
(もう昨日の服あらってんのかよ)
まるで台無しだ、という気分で一日がはじまる。
そんな思いを飲み込みつつ何気なく階段を降りていくと、
「ああちょうどよかった、それ全部脱いじゃって、ついでに洗うから」
「ああ、はいはい……」
二階に引き返し、下着を着替え、パジャマから部屋着に着替える。
「じゃあこれ洗ってよ」
「やだ!またそれ着ちゃったの!?」
「だってこれは!」
「だってもなにも、いま洗わなくていつ洗うのよ。朝から晩までずーっとそれ着てて、洗濯する暇がないじゃないの。だから部屋に置きっぱなしにしなさんなってあれほどいってるの!!」
どうして毎日洗わなくてはならないのか、帰ってきたらまたすぐ部屋着もパジャマも必要になるというのに。朝から外出着を着たりするとまともに行き先を問われる恐れがあるから、とりあえず出かけない日と同じように部屋着にしたのだが、外出予定日だということがいつの間にか見抜かれていて、ぼそっと一言、「どうせまた着替えるんでしょうに」といわれてしまった。
面と向かって、というのではなく、母親の視線は心を見透かそうとするかのように胸のあたりに置かれていた。声の調子も暗めだった。それがまたなんとも気まずくて、
「五秒で着替えてくる」
といって彼は飛ぶように階段を駆け上がった。」

なんというか、ごく普通の親子のやりとりなのだが、ほんのすこし歪んでいる。「いつの間にか見抜かれていて」という一文以降のくだりが、母親の異能力を暗示していて、それが「歪み」の印象になっているのだろうか。母が普通ではない特殊な人間だから、この小説に幻想味が醸し出されているのだろうか。いや、そうではないだろう。

もう一箇所、そのすぐ後の場面を引用してみる。
「県道へ出るまでの途中に畑を隔てて自宅の裏手が遠く見渡せる場所がある。彼はいつも通りがかりにそれを見ていく。行き止まりの私道に民家がびっしり軒をつらねていて、よくも同じような家ばかり建てたものだと思う瞬間である。構えが比較的立派なつきあたりの二軒も裏にまわればそれほどでもない。その自宅前の道自体、こうして外から眺めるとひどく短く感じられる。そこがふるさと、というわけだった。
想像力が豊かというのか、ただ空想癖が強いだけか、彼はたまに目に見えないものを見てしまうことがあり、その家並みの屋根の上に人影を見つけたりする。一軒ごとに一名ずつの男性が屋根にしがみついているように見える。視力は両目で1.0あるかないかで、いまのところ彼らがそれぞれの家の主人であるとの見極めはついていないのだが、自宅の屋根に見えるのが父親の姿だということだけははっきりとわかる。父親の家に対する思いがあのようなかたちで現れているのか。
しかし無闇と立ち止まったりはせず最寄りの駅まで自転車を飛ばす。途中、カーブミラーや商店のガラスに映る自分の姿に目をやる。駅に着いたらホームの鏡を通りすがりに一瞥して、時間があればトイレに寄って鏡に見入る。出がけに一応身だしなみを整えてきていても、外へ出て、外の気分で見ておきたい。家の中ではなかなかそういう気分にならないものだから。
孝裕はここのところ頻繁に外出するようになって、あらためて母親の異能力というものを意識しはじめていた。まだなにもいわないうちから知っているとか、隠しても見抜かれてしまうとか、気づいたら自然に仕向けられていたとか、そういうところがむかしからあった。出かける前、自室で服を選んだり、洗面所で髪をいじったりしていると、どうしてもその母親の存在が気になってくる。そこで彼は家事導線というべきものを念頭に置き、母親がどこでなにをしているかを絶えず探りながら、さり気なく準備を進めていって出かけるタイミングをうかがう。もし仮に「父なるもの」が屋根の上に置かれているとしたら「母なるもの」はきっと家の中にあるのだろう。」
この引用の前半には、郊外の民家の屋根に「父」がしがみついているという、明らかに異様な光景が描かれているのだが、それがなぜか荒唐無稽な異様さとしては感じられない。この光景もまた、ひとつ前に引用した箇所と同じような「歪み」のなかに、「自然に」収まっているように感じられる。
夢を見ているときには、どんな異様な事態が出来しても、それを異様だとは感じないものだが、この小説がもつ「歪んだ」磁場のなかでは、どんな異様な物事が現れてもそれを異様だとは思えなくなる。
いや、従前からおれは「歪み」という言葉を使っているが、この小説世界が特に「歪んで」いるのではなく、現実の世界がそもそも「歪んで」いる。この小説は、ある意味、その「歪んだ」現実を、何の意味づけも排して、ただ「写生」しているだけだとも言えるかもしれない。
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by daiouika1967 | 2009-11-27 23:29 | 日記  

11.25 水 晴

■朝7時、起きたときはまだ曇っていたが、8時過ぎに家を出る頃には、急速に雲が流れ、一時間歩き事務所に着く頃には晴天になっていた。
昨日とは打って変わり、暖かい一日になった。昨夜は久しぶりに夜更かししたので、といっても2時前には寝ているから、数年前なら日常的にその程度しか眠っていなかったのだが、最近は12時前には寝る習慣になっているので、今日は一日ずっと眠たかった。
眠気で紗がかかったような頭で、パソコンに向かい、ほとんど自動的に企画書の続きを書く。構成を考えるためには、集中力がいるから、しっかり覚醒している必要があるが、決まった構成の内容を埋めるだけのことなら、ぼんやりしていても大丈夫なのだ。
9時過ぎに家に帰り、飯を食って、田山花袋『温泉めぐり』(岩波文庫)を数十ページ読んだところで、強烈な眠気。そのままベッドに這いずっていき、ごろんと仰向けになる。
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by daiouika1967 | 2009-11-26 22:20 | 日記  

11.24 火 曇のち雨

■最近、1時間以上も人と話していると、なんだか奇妙な非現実感を覚えることがある。仕事の話ではなく、雑談をしているときに、その非現実感は起こる。離人症気味なのはずっとそうだが、その感じがひどくなった先には、パニック・ディスオーダーの症状があるような気がする。ただ、制御が利いているうちは、ふわっとした浮遊感があって、厭な感覚ではない。

玄侑宗久『アミターバ -無量光明』(新潮文庫)を読む。解説は中沢新一。まずその解説から読んだ。『アミターバ』は、小説の形をとった、現代日本の「死者の書」だという評が書かれてあった。
医学的な死を迎えた後、死にゆく人々の心には、まばゆい光が溢れ、その全存在を覆いつくしていく。そうした「死の現実」を伝えるのが、例えば「チベット死者の書」などの古くからの経典で、それらは仏教よりずっと古く、おそらくは人が人の心をもったときからの叡智の表現として、連綿と伝えられてきた。
『アミターバ』は、その伝承されてきた叡智を、小説という誰もがアクセスできる形で、現代の日本に解き放つ書である、と中沢は評す。

小説は、病んで死にゆく老婆の一人称で書かれている。「私」は、次第に時間感覚を失い、夢と現実の区別も曖昧になり、死に近づき、ついには死に至るのだが、さらにその死の後の体験まで、「私」の視点で語られている。
小説の書き出しをすこし引用する。
「それは五月の半ばに始まった。
男の人が十人以上並んでいて、みな私に背を向けて立っていた。似たような背広を着ていたと思う。そしてそのうちの一人の右腕の袖を、なぜか私が引っ張っている。誰だったのか、憶いだせなかった。なぜ引っ張っているのかも判らなかった。ただ、気がつくと私はまるで自然に背広の袖を引っ張っており、自分のほうにぐいっと、軽く引いたつもりだったが、その人は何の抵抗もなく、体を伸ばしたまま大きな音をたてて仰向けに床に倒れた。
私は仰天してその場から逃げだした。そこがどこなのかも判らなかったし、憶いだすと大きな音など聴いていないような気もした。が、とにかく私は走って逃げた。少なくとも私はそう思っていた。そしてようやく逃げおおせたと思い、遠くに見える人影が近づいてくると、まだ誰なのか判らないまま安心して呟いた。
『やっぱし、救急車呼んであげるべきやったんやろかなあ』
その時はもう、倒れた人を気遣う余裕が芽生えていた。人影は、急にそんなこと言われても、という顔で戸惑うようだったが、すぐに『母さん大丈夫よ』『母さん安心して、ここは病院なんだから』と言って私の額に手を当てた。」

夢から覚めて、わけのわからない言葉を口走る老婆を、娘が慰め、安心させるという場面である。しかし、一貫して老婆の視点で語られているため、夢と現実の境が溶け出し、生のなかに死が滲み出している世界の感触が感じられる。

もう一箇所、最後に近く、「私」がついに危篤状態に陥った場面を引用する。
「急に暗闇に吸い込まれた。どんどん上昇し、上昇するにつれてスピードも速まるようだったが、どのくらいの距離を移動したのかも、それがどのくらいの時間だったのかも判らない。ただ印象としては瞬時で、まるでポンプで吸い上げられるような圧力を感じ、すこし苦しかった。しかし気がつくとほどなく細い通路のような暗闇が終わり、深海から海上に浮かび上がったような解放感と眩しさに包まれていた。
私自身が発光しているらしいのだが、それはこれまで見たことのない輝きで、光と呼んでいいのかどうかも判らない。よく見ると無数の繊維が私から発生していて、その一つひとつは赤・青・黄のごく細い直線なのだが、赤から青が枝分かれすると赤は特別な色に変わって見えなくなり、またその青から黄が枝分かれすると赤は別な色に変わって見えなくなり、またその青から黄が枝分かれすると青は色を変化させつつやがて消える。黄から今度は赤が分かれて直接で伸び、黄も寿命を終えたように変色して消える。その運動が無数の赤・青・黄について連続して起こっているから、それは全体としてちょうど絹のように柔らかい物質が七色に燃えているように見えた。その場が明るいのも私のせいかもしれなかったが、私にはまだ事態が呑み込めなかった。どこまでもどこまでも明るいようにも思えたが、これまでの習慣で果てはあるような気もする。だいたい今『見えている』とという事態も私にはよく解らなかった。ようやく慈雲さんや富雄の話を憶いだし、私はエネルギーになったのだと思った。
自分の体のことを考えたら、下の方にベッドに横たわった私が見えた。鎖骨のところに点滴の管、股間からは尿管がベッドの下に伸び、むろん胆汁の排出管も二本脇腹から出ているのだが、ほかに胃袋まで通った管が鼻から出ており、その上から酸素吸入マスクが被せられている。可哀そう、というより滑稽にさえ見える自分の体を、私は冷静に見おろしていた。見たいと思うあたりが見えるように私の視野は瞬時に変化したから、それは入院以来初めて見た自分の寝姿であるばかりでなく、生まれてこのかた見たこともない全体像なのだった。」

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by daiouika1967 | 2009-11-25 22:44 | 日記  

11.23 月 晴

■勤労感謝の日で祭日。晴天。窓辺にいると陽射しが暖かい。夕方まで家でゴロゴロしながら山口猛編『松田優作、語る』(ちくま文庫)を読む。今年は松田優作没後20年ということで、ドキュメンタリー映画が公開されている。享年40歳。今生きていれば60歳になった。こうしてインタビューを読んでいると、50代、60代の松田優作を見たかった、と改めて名残惜しい。
映画界に松田優作が、文学界に中上健次がいて、その世界の表現者を、いい意味で抑圧していた時代があった。現在に至るまで彼らが生きていたら、きっとまた違った緊張感が持続していただろう、と思う。そんなアナザーワールドを夢想する。
山根貞夫によるインタビューが3本。やはり「映画」をわかっているインタビュアーだと話も深くなる。伊丹十三の映画について、山根貞夫が「(週刊誌なんかの)決定的なひどさは、伊丹十三にはなにかこう知的な部分があって、映画はそういう知性とかなんとかがあればできると思っていることですね」とふると、松田優作が「一般的な教養知識をそのまま映画にもあてはめるタコがいるわけです。まあ、しょうがない。そんだけ映画に対する認識不足なんですね」と語る。「映画」は「一般的な教養や知識」などでは制御できるものではない。松田優作は、そんなことすら分からない「決定的にひどい」メディアのなかで、それでも「あたりまえのこと」「ほんとうのこと」を、真正面から伝えようと努めていた。洒脱や格好つけも何もない、異常なほどの生真面目さ-この発言集を読んだ感想である。
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by daiouika1967 | 2009-11-25 00:48 | 日記  

11.22 日 曇のち雨

■午前中はヨガ、家に帰ってカレーを食べ、昼から毎日文化センターの生徒発表会の会場に行く。毎日文化センターでなにか習っているわけでもないし、日本舞踏やら民謡やらに興味があるわけでもない。妻が行く、というので、なんとなくついていった。ホールはけっこう広くて、薄暗く、ちょうどいい感じの音量で三味線や琴の音色が流れてくる。椅子に深く凭れて爆睡する。6時過ぎ、演目が終わったようなので、会場を出る。腹が減って、なんだか肉が食いたくなったので、最近よく行く焼肉屋<さくら>へ行く。腹いっぱい肉を食って満足する。
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by daiouika1967 | 2009-11-23 10:01 | 日記  

11.21 土 曇

■今日は喫茶店で、本を読みながら、ひたすら昨日買った音楽を聴く。コシミハルは、今聴いても、やはりいい。富岡多惠子『隠者はめぐる』(岩波書店)を読む。本居宣長、契沖、橘曙覧、淡島寒月、折口信夫、鴨長明、西行らをめぐって、彼ら「隠者」の、俗世との交通を含めて、その人となり、在りように近づいていく。
読みながら、ある人を知る、とはどのようなことなのか、その人のことを知りたいと欲するとはどういうことなのか、考える。
その人の言動を追う。その人の周り、家族や人脈をめぐる。その人が生きた時代を知る。そうして、その人の気配が起ち上がるのを待つ。
気配。もはやいないその人の、その不在を感じとる、ということである。

■<ジュンク堂>に行くと、中原昌也『12枚のアルバム』(boid)が出ていた。
中原昌也がゲストを呼び、それぞれ一枚のレコードを持ち寄って、そのレコードについて対話するというイベントがあったようなのだが、その記録をまとめた本である。
さっそく買って三分の二くらい読む。対話で出てくる固有名詞はほとんど知らないのだが、それでもおもしろく、中毒性がある。

■<ブックオフ>で、青木淳悟『このあいだ東京でね』(新潮社)、玄侑宗久『アミターバ -無量光明』(新潮文庫)、山口猛編『松田勇作、語る』(ちくま文庫)を買う。
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by daiouika1967 | 2009-11-22 23:26 | 日記  

11.20 金 晴

内田樹『日本辺境論』(新潮新書)読む。

日本、日本人は、つねに自らを、「中心」ではなく「辺境」に存在する、という自己意識を持ってきた。「中心」は、つねに外部にあった。その自己意識が、日本人に、どんな考え方、態様、性格を与えてきたのか。

「たとえば、私たちのほとんどは、外国の人から、『日本の二十一世紀の東アジア戦略はどうあるべきだと思いますか?』と訊かれても即答することができない。『ロシアとの北方領土返還問題の「おとしどころ」はどのあたりがいいと思いますか?』と聞かれても答えられない。尖閣列島問題にしても、竹島問題にしても、『自分の意見』を訊かれても答えられない。もちろん、どこかの新聞の社説に書かれていたことや、ごひいきの知識人の持論をそのまま引き写しにするくらいのことならできるでしょうけれど、自分の意見は言えない。なぜなら、『そういうこと』を自分自身の問題としては考えたこともないから。少なくとも、『そんなこと』について自分の頭で考え、自分の言葉で意見を述べるように準備しておくことが自分の義務であるとは考えていない。『そういうむずかしいこと』は誰かえらい人や頭のいい人が自分の代わりに考えてくれるはずだから、もし意見を徴されたら、それらの意見の中から気に入ったものを採用すればいい、と。そう思っている。
そういうときにとっさに口にされる意見は、自分の固有の経験や生活実感の深みから汲みだした意見ではありません。だから、妙にすっきりしていて、断定的なものになる。
人が妙に断定的で、すっきりした政治的意見を言い出したら、眉に唾をつけて聞いた方がいい。これは私の経験的確信です。というのは、人間が過剰に断定的になるのは、たいていの場合、他人の意見を受け売りしているときだからです。
自分の固有の意見を言おうとするとき、それが固有の経験的厚みや実感を伴う限り、それはめったなことでは『すっきり』したものにはなりません。途中まで言ってから言い淀んだり、一度言っておいてから、『なんか違う』と撤回してみたり、同じところをちょっとずつ言葉を変えてぐるぐる回ったり……そういう語り方は『ほんとうに自分が思っていること』を言おうとじたばたしている人の特徴です。すらすらと立て板に水を流すように語られる意見は、まず『他人の受け売り』と判じて過ちません。」

「自分の存在の起源について人間は語ることができません。空間がどこから始まり、終わるのか、時間がどこで始まり、終わるのか、わたし達がその中で生き死にしている制度は、言語も、親族も、交換も、貨幣も、欲望も、その起源を私たちは知りません。私たちはすでにルールが決められ、すでにゲームの始まっている競技場に、後から、プライヤーとして加わっています。私たちはそのゲームのルールを、ゲームをすることを通じて学ぶしかない。ゲームのルールがわかるまで忍耐づよく待つしかない。そういう仕方で人間はこの世界にかかわっている。それが人間は本態的にその世界に対して遅れているということです。それが『ヨブ記』の、広くはユダヤ教の教えです。
ふつうの欧米の人はこういう考え方をしません。過ちを犯したので処罰され、善行をなしたので報酬を受けるというのは合理的である。けれども、処罰と報酬の基準が開示されておらず、下された処罰や報酬の基準は陣地を超えているというような物語をうまく呑み込むことができない。どうして、私たちが『世界に対して遅れている』ということから出発しなければならぬのか、と彼らは反問するでしょう。まず、われわれが『世界はかくあるべき』という条件を決めるところから始めるべきではないのか、と。不思議なことに、ヨーロッパ人には呑み込みにくいらしいこういう考え方が私たち日本人には意外に腑に落ちる。
ゲームはもう始まっていて、私たちはそこに後からむりやり参加させられた。そのルールは私たちは制定したものではない。でも、それを学ぶしかない。そのルールや、そのルールに基づく勝敗の適否については(勝ったものが正しいとか、負けたものこそ無垢の被害者だとかいう)包括的な判断は保留しなければならない。なにしろこれが何のゲームかさえ私たちにはよくわかっていないのだから。
日本人はこういう考え方にあまり抵抗がない。現実にそうだから。それが私たちの実感だから。ゲームに遅れて参加してきたので、どうしてこんなゲームをしなくちゃいけないのか、何のための、何を選別し、何を実現するためにゲームなのか、どうもいまひとつ意味がわからないのだけれど、とにかくやるしかない。」

「私たちは辺境にいる。中心から遠く隔絶している。だから、ここまで叡智が届くには長い距離を踏破する必要がある。私たちはそう考えます。それはいいのです。でも、この辺境の距離感は私たちにあまりに深く血肉化しているせいで、それが今まさにこの場において霊的成熟が果たされねばならないという緊張感を私たちが持つことを妨げている。霊的成熟はどこかの他の土地において、誰か『霊的な先進者』が引き受けるべき仕事であり、私たちはいずれ遠方から到来するであろうその余沢に浴する機会を待っているだけでよい。そういう腰の引け方は無神論者の倣岸や原理主義者の狂信に比べればはるかに穏当なものでありますけれど、その代償として、鋭く、緊張感のある宗教感覚の発達を阻んでしまう。
辺境人は外部から到来するものに対して本態的に解放性があります。これはよいことです。けれども、よいところは必ず悪いところと対になっている。遠方から到来する『まれびと』を歓待する開放性は今ここにおける霊的成熟の切迫とトレードオフされてしまう。
今、ここがあなたの霊的成熟の現場である。導き手はどこからも来ない。誰もあなたに進むべき道を指示しない。あなたの霊的成熟は誰の手も借りずにあなた自身がなし遂げなければならない。『ここがロドスだ。ここで跳べ』。そういう切迫が辺境人には乏しい。」

「日本に限らず、あらゆる文化はそれぞれ固有の二項対立図式によってその世界を秩序立てます。とりあえず、それぞれのしかたで世界を対立する二項によって分節する。『昼と夜』、『男と女』、『平和と戦争』、こういう二項対立のリストは無限に続けることができます。ラカンは対立による秩序の生成について、こう書いています。
『これらの対立は現実的な世界から導き出されるものではありません。それは現実の世界に骨組みと軸と構造を与え、現実の世界を組織化し、人間にとって現実を存在させ、その中に人間が自らを再び見出すようにする、そういう対立です。』
その店では、私たちがしてきたこともそれほど奇矯なふるまいではありません。ただ、私たちは華夷秩序の中の『中心と辺境』『外来と土着』『先進と未開』『世界標準とローカル・ルール』という空間的な遠近、開化の遅速の対立を軸として、『現実の世界を組織化し、日本人にとって現実を存在させ、その中に日本人が自らを再び見出すように』してきた。その点が独特だったのではないか。そういうことだと思います。それが『いい』ということでもないし、それだから『悪い』ということでもない。こういう二項対立は世界標準に照らして変だから、これを廃して、標準的なものを採用しようという発想そのものがすでに日本人的な二項対立の反復に他ならないということです。」


■仕事の帰り、<サウンドベイ>に寄ると、コシミハルの『tutu』『パラレリズム』が二枚組、リマスターされて再発されていた。『Epoque de Techno』。二枚ともレコードで持っていて、くりかえし聴いたアルバムである。迷わず手に取る。お。ムーンライダーズの新譜も発売されたか。『Tokyo7』。前作はすごく良かったからな。これも迷わず手に取る。勢いがついて、ついでに、買いそびれていたコーネリアス『CM3』も買う。名駅まで歩き、<シックスナイン>に寄る。モーリッツ・フォン・オズワルド・トリオ『ヴァーティカル・アセント』、プラスティックス『オリガトウ』を買う。ここしばらくCDをまったく買っていなかったので、ついまとめ買いしてしまった。
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by daiouika1967 | 2009-11-21 23:29 | 日記