<   2009年 12月 ( 12 )   > この月の画像一覧

 

twilog

http://twilog.org/M196748#

ツイッターのログをブログ化するサービス。

しばらくほぼこっちだけになると思いますw
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by daiouika1967 | 2009-12-17 16:54 | 日記  

12.11 木 曇

■そんなわけでツイッターである。
レスにも書いたが、言葉の出し方としては、メッセをやっているのに近い。メッセは、「無為無意味なおしゃべり」のためのツールで、おれたちはメッセによって、場所の制約なく、沖縄と東京と名古屋で「おしゃべり」を楽しむことができるようになった。ツイッターを使えば、場所の制約だけでなく、時間の制約もなく、「無為無意味なおしゃべり」ができるようになる。いや、「おしゃべり」というのは違うかもしれない。「おしゃべり」は、具体的な誰かとするものだが、ツイッターで発する「つぶやき」は、そのような「具体的な相手」を、必ずしも想定したものではない。それは、「おしゃべり」未然の独り言であり、頭の中に浮かぶ泡のような思いつきを、ただ思いついたままのレアな状態で、とりあえず放っておけばいい。
しかし、「独り言」だからといっても、つぶやいた言葉が、知らない誰かに届く可能性は、つねにある。何日も前の、何ヶ月も前の、何の重要性もない、場合によっては意味すら希薄なつぶやきが、誰かに読まれる(かもしれない)言葉として、蓄積されていく。
もちろん、それを読むのが、「自分」であってもかまわないわけだ。たいした意味のないその場の思いつきや、ちょっとした感情や感覚のゆらめきのようなものなど、普通ならそのまま忘れ去られるだけの些事が、ツイッターのログに記録されていく。その記録を読めば、ああ、あの日、あの時間、おれはこんなことを見聞きして、こんなことを感じていたんだな、ということが、日記を読むより生々しく思い出すことができるようになる。だからどうだというんだといわれれば、べつにどうということはないというしかないが、いやちょっと興味深いではないか。
それから、フォローしたり、されたりするのに、いちいち相手にことわりをいれたり、挨拶する必要がないのもいい。SNSなどの場合、下手をすると、リアルの世界がそうであるのと同じ人間関係の網の目に絡め取られてしまう不自由さがある。
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by daiouika1967 | 2009-12-12 00:16 | 日記  

12.9 水 晴

柴田元幸『代表質問 16のインタビュー』(新書館)の残り半分を読む。
夜、川上宗薫の絶筆『死にたくない!』(サンケイ出版)を読む。半分くらい読み進む。

■今これを書いているのは12月10日の夜だが、今日の夕方からツイッターでつぶやきはじめる。
ほとんど携帯からつぶやいているのだが、つぶやきだから思いつきの垂れ流しである。
ブログでは書き飛ばしているとはいうものの、いちおう文章の体をつくらなければならないが、ツイッターはやってみて分かったが、ほんとうに頭の中の泡みたいな「思いつき」をそのまま何のフィルターも通さずにただそのまま書き留めることになる。
より等身大の自分が暴露されることになるが、数時間のつぶやきを振り返ってみて、おれってしょうもなっ、と思ったのだった。

ちなみに、ツイッターでのアカウントはM196748です。まだほとんどフォローしたりされたりしてないので、明日から増やしていこう。
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by daiouika1967 | 2009-12-10 21:48 | 日記  

12.8 火 晴

『新潮』2010年1月号から、大江健三郎×古井由吉、東浩紀×平野啓一郎の対談、
『文学界』2010年1月号から、保坂和志「カフカ式練習帳」連載第一回、東浩紀×堀江貴文の対談、平野啓一郎×西垣通×前田塁の鼎談、
『ユリイカ ―特集:クエンティン・タランティーノ』から蓮實重彦×黒沢清の対談、西島大介によるタランティーノへのインタビュー、
『談 ―特集:生存の条件』から佐々木中へのインタビューを読む。
柴田元幸『代表質問16のインタビュー』(新書館)を半分くらい読む。
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by daiouika1967 | 2009-12-09 18:15 | 日記  

12.7 月 晴

梨木香歩『ぐるりのこと』(新潮文庫)を読む。エッセイ集。この人の文章は初見だが、事物を見るときの焦点の当て方、そこから思考を紐解いていくときの体感に、親しいものを感じる。この人の、内への降り方、外への向き合い方。自分の感情、他人や自然との距離の置き方、近づき方の呼吸を、とても好ましく感じる。
ジプシーの根こそぎの流離感。音楽とともにある旅の中で、何事も「日々新しく始める」という存在様式。故郷を持たず、起源から切り離された流離者のみに許された無目的な越境(road to nowhere…)、ノスタルジア、そして物語を語ることへの希求。
物語を語る者は、たとえ生活者としては定住していても、その魂は土地に根を張ることなく流離している。
日々の生活を深く丁寧に味わいたい、という欲求もまた、物語を語ることへの希求のひとつのあらわれなのだろう。
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by daiouika1967 | 2009-12-09 18:08 | 日記  

12.6 日 晴

午前中、ヨガ。
昼食は穴子天麩羅せいろ。
午後、ドライブ。
東名を東に一時間、浜名湖サービスエリアへ。
夕食、ラーメン。
眠い。
11時には就寝。

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by daiouika1967 | 2009-12-07 22:47 | 日記  

12.5 土 雨

■夜、ショーン・ペン監督『イントゥ・ザ・ワイルド』を、DVDで観る。
ところどころ木漏れ日が差し込む原生林。激流の河。赤い岩土だけの荒野。ひたすら広い空。風、流れる雲、雲間から差す陽光のまぶしさ。厳とした時間の流れ。
自然は静けさと騒音に満ち溢れている。こうした風景や音、そしてそのなかにひとりでいる、その凄烈な孤独感が、なんだか泣けるように懐かしい。
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by daiouika1967 | 2009-12-07 19:18 | 日記  

12.4 金 晴

■一日おきに、晴れ、雨、晴れ、雨、といった感じで天気が変わる。

このところおれは、「その場にいる」ということに、ある種の興趣を覚えるようになった。「その場」がどんな「場」でもいいのだ。「盛り上がった場」でも「なまめかしい場」でも、あるいは「気まずい場」でも「微妙な場」でもいい。それを楽しんでいる、というと、すこし違って、やはり「ある種の興趣を覚えている」といった方がいい。しかしながら、「ある種の興趣を覚えている」というのがどんな状態なのか、それが説明しづらい。なんとも不器用なこなれない表現だが「現在に没している」とでもいうのか、よく何かに没頭している状態を「○○三昧」ということがあるが、没頭する対象は何もないのだが、その三昧境に遊ぶのに近い精神状態でいるようだ。

今日は夜、ヨガの忘年会があった。ヨガの先生と話しているとき、たまたま毎日どんな運動をしているかという話題になり、「毎日通勤は一時間ずつ歩いてますね。だから一日12kmは歩いてる」というと、周りの女の子たちに「すごいですねえ」と驚かれた。
先生が「歩くのは楽しいですか?」と聞くので、「いやべつに楽しいはないですね。ただ歩いてるだけです」と答え、それでその話題は終わった。
ただ歩いているだけのことで、楽しいことなど何もない。ただ、歩いているだけなのだ。そのとくに何の意味も刺激もない「ただ、歩いている」「ただ、その場にいる」「ただ、仕事をしている」「ただ、メダカに餌をやり、植木に水をやっている」ということ、その「ただ」に“没して”いるということ、それに“成り切る”ということに、ある興趣を覚える。

西條八十『女妖記』(中公文庫)を読む。
昭和三十三年、齢六十六の西條八十の筆による、事実とフィクションのあわいを綴った、女遍歴の小説。
売れっ子の詩人、作詞家の著者は、仕事で全国を巡り、その土地ごとでさまざまな女と交わる。策を弄して女を口説くでもなく、ただ状況の流れに任せてごく自然に女と交わっている印象があって、著者もそのことをごく自然のこととして書き綴っている。
ところどころ、例えば「急に強烈に会いたくなり」といったような記述は見られるものの、それもただ交わった体の記憶がその土地の何かをきっかけに不意に蘇った感興を書いているに過ぎず、著者は基本的にはひとりの女への執着に身を焦がすというようなことはないようだ(あるいはあったとしてもそれは書かれていない)。
来る者は拒まず情を結び、去る者は追わず断ち切り、その潔い淡白、あるいは薄情な人非人ぶりが、ユーモラスで嫌みのない洒脱を醸している。
西條八十にとって、女とは、実体ではなく、交わるその一点に現われる妖しの存在であったのだろうか。

男にとって、女を抱く、ということは、生身の肉を抱くことではなく、肉に表現された女という観念を抱くことでしかない。
観念、つまりは幻想である。
だから、女を求める男の欲情は、どこまでも空虚で寂しいものなのだ。
そして「女であること」を引き受け、その男の欲情を受け止める女という生き物は、本質的に哀切であり、同時にしたたかな強さを持ってもいる。
西條八十のような人は、そうした性の寂しさ、悲しさ、機微を、深く味わった遊び人であり、そのことがまた女を惹きつけていったのだろう。
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by daiouika1967 | 2009-12-05 17:21 | 日記  

12.3 木 曇、午後雨

■昨日までの無駄な元気は失せ、全身軽い疲労感に浸されている。昨日は晴天だったのが、今日は朝から曇り、気温も上がらず、午後には冷たい小雨が降り出した。皮膚から、冷たい湿気が浸潤してきそうな天候だ。

■本を読んでいても、腰のあたりがむずむずとして落ち着かない。腰を反らしてみたり、腿の付け根をぐっと伸ばしてみたり、肩甲骨を閉じたり開いたりしてみる。そうしているうちに、ペニスに血が充ちて、特に欲情しているわけでもないのに勃起してきた。勃起すると射精したくなり、射精するには性交もしくは性交の妄想が必要だ。喫茶店で本から顔を上げ、周りを物色してみる。なにか妄想のきっかけになるモノ、女はいないだろうか。いや、いたとして、その女に急に襲いかかるわけにもいかないし、ここでマスターベーションするわけにもいかないのだが。
生脚がエロチックな女をひとり見つけた。ジロジロ見ていると変に思われるので、視線は本の上に落とし、視界の片隅に女の脚を意識する。ペニスの血が引いて、だんだん萎えてくるのと反比例して、こんどはその女の脚のイメージに欲情しはじめている。なまめかしい気分で、しばらくその意識を張った状態でいた。そんな状態で、ヘッドフォンから流れてくるソニック・ユースの変名チコネ・ユースのノイジイなギターの音が心地いい。
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by daiouika1967 | 2009-12-05 15:42 | 日記  

12.2 水 晴

■青が冷たいような空。天気がよすぎてどうしよう?(@電気グルーヴ)と戸惑うような晴天。
昨日からの無駄なほどの元気が今日もまだ漲っている。歩いて事務所に向かう一時間、足が急く。急ぐ理由はなく、ただ身体の時間が急いているのだ。無駄な速足で、ヘッドフォンからはムーンライダーズ「TOKYO7」が流れてくる。爽快だ。そして、すこし苛立ってもいる。

■出勤前の一時間、昼休憩の一時間、喫茶店で、松岡正剛『日本流』(ちくま学芸文庫)を読む。二時間で、半分くらいを読み進む(いま、この日記を書いている3日に、残り半分を読み了えた)。

「歌を忘れたカナリヤ」は西条八十が雑誌『赤い鳥』に発表した詩に、成田為三が曲をつけた「童謡」のワンフレーズである。
-「巷間によく知られるように、『かなりや』は『唄を忘れた金糸雀は・後ろの山に棄てましょか』と始まって、『いえいえ・それはなりませぬ』と短く続きます。二番が『唄を忘れた金糸雀は・背戸の小薮に埋けましょか』とあって、ふたたび『いえいえ・それはなりませぬ』と打ち消している。三番はやや過激に『唄を忘れた金糸雀は・柳の鞭でぶちましょうか・いえいえ・それはかわいそう』となり、最終節で三たび『唄を忘れた金糸雀は』と始まるのですが、そこで歌詞も曲調もガラリと変わって、『象牙の船に 銀の櫂/月夜の海に浮かべれば/忘れた唄をおもいだす』というふうに結ばれる。そういう歌です」。
松岡正剛はこの唄を聴くと、「いまでもなんだか胸がつまってしまいます」と続ける。
雑誌『赤い鳥』を舞台に、三木露風、北原白秋、西条八十、野口雨情らが「童謡」を書いた、その時代心情について、松岡正剛はこう論じている。
-「この時代は、ようするに白樺派と大正デモクラシーと竹久夢二で始まり、関東大震災と大杉栄虐殺の大正十二年(1923年)をへて、ラジオやカフェや早慶戦や円本に象徴される昭和初期には未曾有の大衆文化の爆発を迎えるものの、昭和五年(1930)に世界恐慌の波を受けて大きく変質し、小林多喜二が虐殺される昭和八年(1933年)までにはすっかりその姿を消してしまった『ある社会・ある文化』というものを象徴しています。そのなかで童謡が生まれ、軍歌の波及とともにいったん消えていった。
鈴木三重吉らはこのわずかな時代の息吹の噴出する気配をとらえ、世界にもめずらしい童謡運動をおこしてみせたのです。それは、子供の読みものが低劣になってきたことに対する反発とともに、明治四十三年に制定された尋常小学校唱歌の動向のおかしさに敏感に反応したものでありました。
明治の唱歌は最初は西洋の真似に始まり、小山作之助や滝廉太郎や山田耕作の出現によってやっと日本の歌がつくれるようになったのに、文部省は明治末には時代を逆行するような尋常小学唱歌に切り替えようとしたのです。
三重吉も、白秋も八十も雨情も、この動向に反旗を翻したわけです。
その時代心境を絶妙な哀切にのせ、作曲家たちもみごとにこれに応えて、直截に子供たちにぶつけてみせました。それゆえ、日本の童謡というものはほんとうにわずかな機会をとらえ、まるで日本社会の隙間のようなところから芽生え、互いに連鎖し、爆竹のように連打されたものだったといえます」。

松岡正剛は、最近の日本を、「歌を忘れたカナリア」になっているような気がする、という。
「歌」とはどんな「歌」か。「カナリヤ」はどんな歌を思い出すべきなのか。

さて、「日本流」とは、どんな流儀なのか。日本流とは、いわば多様性を連鎖させていく一途、といった流儀のことだ。この「一途な多様性」を駆動させるのは、「デュアル・スタンダード」な論理操作である。しかし、ここでは、松岡一流の「日本流」尽くしを引用する。そのほうが、「日本流」の観念が、より彷彿とする。
-「たとえば、日本のどの町にもラーメンやカレーの店がやたらに多くて、ホテルの朝食にトースト派と味噌汁派の両方が用意されるのがおもしろいのです。スパゲッティ専門店が箸を出すのもおもしろい。宿泊産業界がホテルと和風旅館に分かれているのにも気にいっています。
日本中に狭い川がいっぱいあること、日本語の表記にふりがなやルビがあること、男だけの歌舞伎と女だけの宝塚があること、ホタルや花火に日本人が同じような思いをもっていること、落語という高座芸能が残っていること、小学生のランドセル姿よく似合うこと、農家のおばさんがやたらによく笑うこと、高倉健がパソコンのコマーシャルにひっぱりだされたこと、少女マンガという格別なジャンルがあること、和菓子がとてもきれいであること、こういうこともとてもおもしろい。
それから、なぜだかみんなが漱石だけは好きなこと、てりやきバーガーとかコロッケパンとかをすぐに工夫すること、ハンコや名刺や賀状が好きなこと、日本サッカー協会のマークが三本足のカラスであること、禅僧がまだたくさんいること、携帯電話のストラップが根付に似てきたこと、文庫本や新書本が多いことも、おもしろい。
さらには、パーティの記帳だけはなぜか筆や筆ペンが使われること、美輪明宏がシャンソンと童謡を並べて唄うこと、デジカメ以前からたいていの人が写真が上手であること、神輿を担いでいるのを見るとワクワクしてくること、大阪の家庭の七割以上がたこ焼き器をもっていること、団扇や扇子をもっている人がうらやましく見えること、イッセーや川久保玲のコム・デ・ギャルソンががんばっていること、受話器の前でおじぎをしながら挨拶をしていること、こういうことが大好きなのです。
それだけではなく、日本の曖昧な言葉づかいも、人前でしゃべるのがヘタなところも、すぐに根回しをするのも、芸能人がやたらに泣き出すことも、日本人が貯蓄をしすぎるところも、なかなか大きな家に住もうとしないところも、けっして悪くない。
これらはふつうは日本の評判のよくないところとされているけれど、そしてオランダのジャーナリストのカルル・フォン・ウォルフレンのように、そういうことが日本という国を幸福にしていないのだという指摘もあるのですが、私は必ずしもそうは思ってはいません。もうちょっと深いところでとらえたい」。


さて、この本は「日本流」をめぐり、「職人」「ネットワーカー」「仕組」「趣向」「見立て、アナロジー」「おもかげ」「うつろい」「わび」「さび」「あわせ」「間」「型」といった観念、事象をめぐっていく。
内田樹『日本辺境論』で、日本、日本人は、つねに自らを、「中心」ではなく「辺境」に存在するという自己意識を持ってきた、と論じた。日本人にとって、「中心」は、つねに外部にあった。その自己意識が、日本人に、どんな考え方、態様、性格を与えてきたのか。この視点は、松岡正剛が提示する「日本流」の観念、事象を捉えるときも有効であると思う。
たとえば、松岡正剛は、日本人の語彙には「遊的領域」が広すぎる、と指摘し、その「遊び」の原形には「スサビ」の感覚があるとする。この辺りの展開は、この本の中でも、おれが最も強く興奮したくだりだったのだが、簡単にまとめるのは難しい、というか、なにかしのびない気がするので、一部分を引用しておこう。
―「歌垣は集団で交わりあうことで、古代日本ではさかんにおこなわれていたコミュニティどうしのコミュニケーションの方法です。ツメは端に行くということ、感覚をハシやキワにもっていくことです。つまりは、そのときの気分を“極端”や“一端”にはこぶことです。
このように、端に行ってツメてみたくなること、また、そのように自身が誘われていくこと、それが『スサビ』という日本の遊びの原形のひとつだったわけです」。
―「スサビの系譜からはいくつかの重要な遊びのスタイルが生まれます。なかでも目立ったスサビが『スキ』というものです。
スキはいまではもっぱら『数奇』とか『数寄』とかと綴りますが、もともとは『好き』のことで、何かが好きになること、とりわけ男女のあいだの『好きぐあい』をさしています」。
―「荷風には、名状しがたい『遊び心』というものがあります。私はそこが好きです。一見すると、破綻にむかっているようでそれほどではなく、むしろキワやハシだけを遊んでいる。そんな感じがします。
しかし、誰もが荷風のようにスレスレを淡々と遊べるわけではありません。そのきわどい遊び心でつながっている人間関係を自分では遊べないかわりに横目でおもしろがることもありえます。それもまた遊び心というものです」。

ハシやキワを意識して、感覚をそのきわどい一線に、ぎりぎりとツメていくこと。そんな「すさんだ」遊び感覚を、いつまでも鈍らせないこと。
おれ自身、自ら、そんな「行き方」をしたいと願う一者だが、しかし改めて思ってみると、自らを「辺境」に居ると自己規定していなければ、そもそも「キワ」や「ハシ」といった境域を鋭敏に感知することも不可能であろう。
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by daiouika1967 | 2009-12-03 23:06 | 日記